act.28 涙雨

 三月。

 模試の結果が返された。

 A判定。

 俺は判定用紙を机に仕舞った。

 綺麗な机。

 毎日のように磨いていたせいか。

 他の机よりも綺麗だった。

 皮肉だった。

 俺は苦笑することすらできなかった。


 部活が終わって。

 俺は家に帰った。

 家の中は静かだった。

 父親は仕事から帰ってきていたけど。

 けど。

 いつにも増して静まり返っていた。

 俺は階段を上って。

 自室に入った。

 寂びた部屋だった。

 布団の上に誰かがいるような気がした。

 気のせいだった。

 俺は。

 一人だった。


「聖人」

 夕食時。

 父親が口を開いた。

 とても言いづらそうに。

 とても辛そうに。

「訊きたいことがあるんだけど」

 その隣で。

 母親は箸を止めて俯いていた。

 俺は父親の問いを察知した。

 けど。

「男が好きなの?」

 未然に防ぐことはできなかった。

 俺は動揺した。

 眼鏡をくいっと持ち上げて。

 平静を装って。

 けど。

 こたつの中の足は震えていた。

「何で?」

 失敗した。

 何で、と訊いたら。

 認めたも同然だった。

「いや」

 父親は慎重になって。

 言葉を選んだ。

「好きな子の話とか聞かないから」

「訊かないからじゃん」

 昔から変わらない。

 父親は。

 俺の内側について何も訊かなかった。

 きっと。

 好きな食べ物も知らないんだろう。

 外側だけ。

 それで良かったのに。

 どうして。

 今更。

 沈黙が部屋を包んだ。

 だから。

 俺は立ち上がった。

「聖人」

 食器を流しに置いて。

 階段を上った。

 また。

 啜り泣く声が聞こえた。


 翌日。

 俺はいつもよりも早く起きた。

 けど。

 いつもより遅く家を出た。

 午前八時三十分。

 ホームルームには間に合わなかった。

 間に合わせるつもりがなかった。

 初めての遅刻。

 いや。

 ズル休みだった。


 制服姿で町を歩いて。

 鞄を肩に掛けて。

 まるで登校中みたいに装った。

 行き先は決まっていなかった。

 ただ。

 行かない場所は決まっていた。

 学校。

 自宅。

 二度と。

 行かない。

 心に決めた。

 俺は。

 目に涙を溜めていた。


 公園で。

 一人きり。

 いつか紋太が藍原と一緒にいた場所。

 ベンチに座って。

 ぼんやりと空を眺めた。

 曇天。

 いつもそうだった。

 空を見上げると。

 いつも暗かった。

「聖人」

 声がした方を向いた。

 波瀬だった。

 鞄も持たずに現れた。

 肩で息をして。

 その背後には自転車があった。

 乗り捨てられていた。

 鞄が地面に転がっていた。

「何してんの?」

 波瀬は駆け寄ってきた。

 俺を見下ろした。

「休憩」

「こんなところで?」

「そう」

「そう、って」

 俺は波瀬と目を合わせなかった。

 波瀬の顔を見るのが怖かった。

「何かあった?」

 昨晩の父親の目。

 落胆とやるせなさが滲んでいた。

 波瀬は。

 父親にそっくりだった。

 鋭い目元も。

 やたらと気にかけてくるところも。

 だけど。

「気分悪い?」

 波瀬は俺の内側を訊いてきた。

 父親とは違った。

 だけど。

 だからこそ。

 見たくなかった。

 見られたくなかった。

 こんな表情を。

 きっと。

 俺は今。

 ぐちゃぐちゃになっているから。

「言えないこと?」

 波瀬は右隣に座った。

 距離が近かった。

 けど。

 嫌悪感は抱かなかった。

 それがまた。

 気持ち悪かった。

「聖人」

「何?」

「牛島のこと、好き?」

「何で?」

「そうかな、って」

 波瀬の視線がこめかみに突き刺さった。

 俺は。

 背中に汗をかいた。

「別に」

「嫌いなの?」

「別に」

「別に、って」

 波瀬は困った様子で息を吐いた。

 別に。

 ごまかす時には決まって言う台詞だった。

 波瀬の前で初めて口にした。

 嘘をつかないための代用句。

「俺じゃ、駄目なの?」

「何が?」

「こっち見て」

 波瀬の方を見た。

 顔が。

 近かった。

「何?」

「俺には、言えない?」

「何て?」

「本当のこと」

 波瀬は徐々に近づいてきた。

 俺は。

 胸が高鳴って。

 胸の辺りを手で押さえて。

 まるで。

 期待しているみたいだった。

 心の隙間を埋めてくれることを。

 俺は。

 けど。

 波瀬のことを。

 友達だと思っている。

 だから。

「何のこと?」

 しらを切った。

 波瀬は目を細めた。

 俺の肩を掴んだ。

 俺は。

 そっと。

 目を細めた。

「俺は聖人のこと、好きだよ」

 波瀬は目と鼻の先で。

「だから、言ってほしい」

「何を?」

「理由」

「理由?」

「聖人が」

 波瀬は俺の眼鏡を外した。

 ぼけた視界。

 ぼけた波瀬。

 けど。

 波瀬はそこにいた。

「そんな顔してる、理由」

 雨の音がした。

 屋根に当たって。

 ぽつぽつと。

「何それ」

「そういうの」

 やがて。

 雨脚は激しくなって。

「やめない?」

 波瀬の追及も厳しくなって。

 けど。

「何言われたって」

 波瀬の声は温かくて。

「嫌いにならないし」

 波瀬の思いやりは優しくて。

「聖人の嫌がること言わないし」

 波瀬が。

 俺を心配していることはよくわかった。

 痛いくらいわかった。

「聖人の味方だから」

 とても。

 痛かった。

「何で?」

「良いやつだから」

「誰が?」

「聖人が」

「俺は」

「良いやつだよ」

 波瀬の表情はわからなかった。

 けど。

 たぶん、笑っていた。

「俺は、そう思う」

 俺は。

 波瀬から眼鏡を取り返して。

 ゆっくりと眼鏡を掛けて。

 波瀬の目を。

 正面から捉えた。

 波瀬の瞳に映る俺は。

 情けない顔をしていた。

「何言ってるの」

「照れるなよ」

「照れてないし」

「照れてるじゃん」

 波瀬に背中を叩かれて。

 俺は。

 少し。

 笑った。

 波瀬は。

 やっぱり。

 父親みたいだった。

 父親も。

 俺を心配してくれていたのかもしれない。

 俺は。

 そう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る