act.22 月下

 紋太と木ノ下の会話が聞こえた。

 ホモ。

 紋太の口から聞こえた言葉。

 たぶん。

 木ノ下に気付かれていなかったら。

 俺はホテルから逃げ出していた。

 可能性の話なんて意味がないけど。

 できなかったことを話しても。

 意味なんてない。


 砂浜を紋太と歩いた。

 靴が砂まみれになった。

 途中から紋太が靴を脱いだ。

 裸足。

 程良く焼けた肌。

 俺は。

 その足に見惚れてしまって。

 また嫌な気持ちになった。

「聖人」

「何?」

「あの」

 紋太にしては歯切れが悪かった。

 視線もあちこちに散っていた。

 俺のせいだと思った。

「いいよ」

「え?」

「もう、いいよ」

 紋太は理解できないようだった。

 だから。

「気、遣わなくて」

「何それ?」

「気持ち悪いでしょ?」

 紋太はおれの顔を見た。

 俺は。

 紋太の目を見た。

「俺」

「そんな」

 紋太は酷く狼狽えて。

 必死に否定しようとした。

 立ち止まった紋太を。

 俺は置き去りにして歩き続けた。

 波打ち際を歩いた。

 靴の中が水浸しになった。

 けど。

 俺は靴を脱がなかった。

「聖人」

 紋太は俺に駆け寄ってきた。

 俺は立ち止まった。

 振り返った。

 紋太と目が合った。

「もしも」

 波の音が沈黙を埋めた。

 紋太の迷う顔が月明かりに照らされた。

 酷く。

 不細工な顔だった。

 なのに。

 目を逸らせなかった。

「好き、って」

 俺は。

 不思議と落ち着いて。

「言ったらどうする?」

 紋太の声に耳を傾けた。

「聖人のこと」

 質問に答える気なんてなかった。

 可能性の話に意味なんてない。

 可能性がゼロの話なら。

 尚更。

 意味がない。

「ごめん」

 やっぱり。

 ゼロだった。

 俺は紋太を見つめた。

 目を細めて。

 期待を持たないように。

 勘違いしないように。

 辛そうな紋太の顔を。

「聖人」

 今日だけでも。

 何度呼ばれたんだろう。

 いつしか。

 紋太は俺をペトロと呼ばなくなった。

 俺が。

 聖人せいじんではないとわかったからだろう。

 中学三年生の頃。

 心を閉ざしたせいだろう。

「おれ」

 紋太は優しかった。

 今まで出会った誰よりも。

 優しかった。

 だから。

「聖人、大事だよ」

 俺は紋太とは違う気持ちだった。

 上辺では同じなのに。

 中身は別物だった。

「聖人は?」

 質問に答える気なんてなかった。

 答えたら。

 紋太が変わってしまう気がした。

 紋太には。

 変わってもらいたくなかった。

 ずっと。

「どう?」

「どう、って?」

「おれのこと」

「何で?」

「何で、って?」

「何でそんなこと、訊くの?」

 わかっているくせに。

 それとも。

 わからせたいのか。

 俺がどれだけ醜いか。

 自分に。

 俺に。

「だって」

 紋太は口をもごもごとさせた。

「聖人のこと、知りてえし」

 紋太は一歩近付いてきた。

「何も、知らねえし」

「知って、どうするの?」

 俺は後退りした。

 紋太から距離を取った。

「いろいろ」

 紋太は立ち止まった。

 少し迷ったように。

 紋太は俯いた。

「考える」

「考えて、どうするの?」

 紋太は黙った。

 やっぱり。

 可能性はゼロだった。

 俺が。

 生きられる可能性。

 ゼロ。

 俺は。

 紋太に背を向けた。

 堪えきれず。

 背中が震えた。

 唇が震えた。

 踏み出した足が震えて。

 俺はバランスを崩した。

「聖人」

 紋太は手を伸ばした。

 けど。

 俺には届かなかった。

 みっともなく。

 俺は海に倒れ込んだ。

 腹部から下がびしょ濡れになった。

 いっそのこと。

 顔まで濡れてしまえば良かったのに。

「大丈夫?」

 紋太は手を差し伸べた。

 俺は。

 手を取らなかった。

 一人で立ち上がって。

 何事もなく立ち去ろうとした。

 紋太が。

 俺の手首を掴んだ。

 生温かかった。

「聖人」

 もう。

 限界だった。

 こうして引き留められることも。

 こうして触れられることも。

 こうして気持ちを探られることも。

 こうして醜態を晒すことも。

 これ以上の醜態を晒すことも。

 それを考えることも。

 それを避けなければ、と考えることも。

 紋太のことばかり考えてしまうことも。

 それを内に秘めなければならないことも。

 もう。

 無理だった。

「やめてよ」

 俺は声を荒らげた。

 初めて紋太を怒鳴りつけた。

 けど。

 紋太は手を離さなかった。

 俺は。

 振り返れなかった。

「もう、やめてよ」

 ただ。

 弱々しい声が漏れた。

 紋太が手を離した。

 俺は。

 浜辺の向こう側へと歩いていった。

 紋太の足音は聞こえなかった。


 誰もいない砂浜で。

 俺は膝を抱えて座った。

 暗闇。

 岩場。

 波打ち際。

 誰かいたとしても気付かれないだろう。

 俺は顔を膝に埋めた。

 波の音を聞いた。

 けど。

 心は落ち着かなかった。

 顔を上げた。

 地平線の向こう側は真っ暗闇だった。

 俺は。

 向こう側に行きたい、と思った。

「聖人?」

 声が聞こえた。

 振り返ると波瀬が立っていた。

 ホテルから少し離れた場所なのに。

 偶然ではない、と思った。

「何してんの?」

「何も」

 俺は再び地平線を眺めた。

 今はまだよく見えなかった。

 波瀬は俺の隣に座った。

 胡座をかいた。

 沈黙が流れた。

 俺は。

 波瀬の求めるものがわかった。

 空気感に敏感だった。

「何してんの?」

「俺?」

 波瀬は頭を掻いた。

「ちょっと用があって」

「菅道?」

「え?」

 波瀬は目を見開いた。

「見てた?」

「見てない」

「じゃあ何でわかったの?」

「そんな気がした」

「そんな気、って」

 波瀬は苦笑した。

 その顔は。

 やっぱり父親に似ていた。

 たまに。

 俺のことが理解できない時。

 決まってそんな顔をした。

「菅道さんに告られた」

「そう」

「まだ返事してない」

「そう」

「聖人」

「何?」

 俺は波瀬の方を向いた。

 波瀬も俺の方を向いた。

 目が合った。

「付き合ったほうがいい?」

「何で訊くの?」

「好きなわけじゃないし」

「嫌いなの?」

「普通」

「じゃあ」

 俺はまた地平線を眺めた。

「好きにすれば?」

「うーん」

 波瀬は唸った。

「なら、付き合う」

「そう」

「聖人は」

「ん?」

 波瀬の方を向いた。

 真剣な眼差しを向けていた。

「何?」

「何かあったの?」

「何も」

「牛島?」

「何で?」

「向こうで牛島見たし」

 波瀬は言葉を選んでいるようだった。

「喧嘩?」

「喧嘩じゃない」

「じゃあ何?」

「わからない」

 俺は正直に言った。

 紋太との間の出来事を。

 一言で説明できなかった。

「泣いてる?」

 俺は頬に触れた。

 全く湿っていなかった。

「泣いてない」

「濡れてる?」

 波瀬は俺の服を見下ろした。

「濡れてる」

「海に入ったの?」

「転んだ」

「珍しいな」

「初めて転んだ」

「そうなの?」

「海では」

「だろうな」

 波瀬は笑った。

 俺は。

 笑えなかった、と思う。

 少し沈黙が流れて。

 波瀬は切り出した。

「何があったの?」

「何もないって」

「嘘つけ」

 波瀬はずいっと近付いてきた。

 心臓の音が聞こえた。

 こんなにも。

 俺は。

 気持ち悪いのか。

「言えないこと?」

「さあ」

「言いたくない?」

「わからない」

「じゃあ、教えて」

「何で?」

「知りたいから」

「何を?」

「聖人のこと」

「何で?」

「泣いてるじゃん」

 俺は地平線を見た。

 波瀬は俺の横顔を見た。

「泣いてる」

 何度言われても。

 俺は平静を装った。

「ように見える」

 目元を拭わなかった。

 さも気にしていないとばかりに。

「泣いてないし」

 強がった。

「言うことないし」

 弱かったのに。

「わからないし」

 もう。

 どうにもできなかった。

 だから。

「やめてよ」

 懇願した。

 紋太に言ったように。

 波瀬のことを拒絶した。

 けど。

 波瀬は黙って地平線を見つめた。

 俺と同じ方向を眺めた。

 そして。

 波瀬は俺の肩を抱いた。

 俺は。

 膝に顔を埋めて。

 精一杯声を呑み込んで。

 咽び泣いた。

 もう。

 どうでも良くなった。

 この時間も。

 この気持ちも。

 要らない、と思った。

「ごめん」

 波瀬の声が聞こえた。

 今にも泣きそうな震え声だった。

「言いたくない?」

「言いたい」

 俺は。

 けど。

 やっぱり。

 躊躇った。

「でも」

 波瀬の手が心強かった。

 波瀬の温もりが心地好かった。

 けど。

 俺は。

 波瀬の優しさに応えられなかった。

「言えない」

「そっか」

 波瀬はそれ以上何も言わなかった。

 ただ。

 ずっと隣にいてくれた。

 月の下。

 俯く俺を見ないように。

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