act.8 花火

 どうして来たのかと思った。

 紋太。

 ハスの中。

 一人起きていた。

 みんな疲れて寝ていたけど。

 俺は眠くなかった。

 紋太。

 後頭部が思い返された。

 誘いを断ると、すぐに帰っていった。

 眉尻を下げた、諦めた顔。

 俺は頭が痛くなった。

 頭を押さえた。

 窓の外を見た。

 まだ明るかった。

「福井」

 顧問から話しかけられた。

 壮年の男教師。

 いつも話す時の距離が近かった。

 だから好きじゃなかった。

「具合悪いんか?」

「いえ」

 俺は言い淀んだ。

 顧問は神妙な面持ちとなった。

「悔しいんか?」

「たぶん」

 今の気持ちはきっとそれなんだろう。

 悔しい。

 悲しい。

 辛い。

 ならば。

「そうか」

 顧問は俺の肩を叩いた。

 俺は何も言わなかった。

 窓の外を見た。

 西に傾く直前の太陽。

 快晴だった。

 バス内の電子時計を見た。

 四時四十四分だった。

 悪縁だと思った。

 腐れ縁とも思った。


 呼び鈴を鳴らした。

 紋太の家。

 玄関が開いた。

 紋太が出てきた。

 Tシャツに短パン。

 風呂に入ったんだろう。

 石鹸の匂いがした。

「え?」

 目を丸くしていた。

「打ち上げは?」

「抜け出した」

「何で?」

「暇だったから」

 嘘ではなかった。

 つまらなかった。

 だから楽しいほうに来た。

「言えよ」

「携帯持ってないし」

 紋太は不服そうだった。

「仕返し」

 紋太は不機嫌そうだった。

 けど。

 紋太は笑った。

「ちょっと待ってて」

 家の中に戻っていった。

 数分後。

 紋太は戻ってきた。

 服が少し変わっていた。

 デニムのショートパンツを穿いていた。

「行こう」


 花火大会の会場。

 歩いて十分くらいの河川敷。

 浴衣姿の人で溢れ返っていた。

「出遅れた」

 紋太は携帯電話を確認した。

 隣から覗き込んだ。

 六時四十七分。

 七時から花火が上がる予定だった。

「夕飯は?」

「ん?」

 紋太は横目に見上げてきた。

「食ったの?」

「食った。聖人は?」

「少し」

「じゃあ、何か食おう」

 紋太が先導して屋台を見て回った。

 とうもろこし。

 かき氷。

 わたあめ。

 定番のものが立ち並んでいた。

「焼きそば」

 紋太が立ち止まった。

「食べる?」

「食べない」

「そう」

 紋太はずっと焼きそばの屋台を見つめていた。

「食べれば?」

「要らねえ」

「そう」

 屋台前には多くの人が並んでいた。

 その中に見知った顔があった。

 藍原さくら。

 紋太の元カノ。

 見知らぬ男と一緒にいた。

 紋太は俺の視線に気付いた。

 腕を掴んで屋台前から遠ざかった。

「何?」

「何でもねえ」

「どこ行くの?」

「どっか」

「気にしてる?」

「何が?」

 紋太は立ち止まった。

 屋台の群れから離れた場所にいた。

「藍原のこと」

「どういう意味?」

「未練あるの?」

 紋太は押し黙った。

「紋太?」

 紋太の顔を覗き込んだ。

 失敗したと思った。

 紋太は泣きそうな顔だった。

 俺の腕は解放された。

「何でもない」

 俺は前言撤回した。

 紋太は押し黙ったままだった。

 最悪だと思った。

「聖人は」

 紋太は振り返った。

 目が潤んでいる。

 俺は唾を呑み込んだ。

「未練ある?」

「未練?」

「藍原のこと」

「未練も何も」

 俺は言葉に詰まった。

 そもそも好きじゃない。

 なんて、言いそうになって。

 だけど、紋太の考えが漸くわかって。

 浮かれていた自分にうんざりした。

 紋太は俺に同情していた。

 だから優しくしてくれた。

 理由なんて欲しくなかったのに。

 知りたくなかったのに。

「聖人?」

「紋太は」

 少し目頭が熱くなって。

 少し唇が震えて。

「優しいね」

 身体の内側から何かが抜けていった。

 大切にしていたものが。

「え?」

 紋太は怪訝そうに顔をしかめて。

 けど。

 それ以上追及してこなかった。

 やっぱり紋太は優しかった。


 暫くぎこちない時間が続いた。

 けど。

「花火」

 打ち上げ花火を合図にして。

 会話は振り出しに戻った。

「何食べる?」

「お祭りっぽいもの」

「何それ?」

「さあ」

「さあ、って」

 屋台に戻ると、人は減っていた。

 代わりに高台に人が群がっていた。

 平たい河原も緑が見えないほどだった。

「フランクフルト」

 紋太が屋台を指差した。

 誰も並んでいなかった。

 狙い目。

「お祭りっぽい?」

「おれ食べたい」

「そう」

 紋太はフランクフルトを買った。

 美味そうに頬張っていた。

「食べる?」

 食べかけのフランクフルト。

 目の前に突きつけられて。

 紋太から投げかけられて。

 俺は一口貰った。

「美味い」

「良かった」

 紋太が作ったわけじゃないのに。

 紋太は嬉しそうに笑った。

 照れくさそうに笑った。

「大阪焼き」

 今度は反対側の屋台を指差した。

「何それ?」

「知らねえの?」

「知らない」

 紋太は驚いたようだった。

「美味いよ?」

「じゃあ食べる」

 俺は大阪焼きを二枚買った。

「二枚?」

「そう」

 不思議そうに紋太はパックの中を覗き込んだ。

「一枚あげる」

「おれに?」

「お返し」

 紋太は笑った。

 俺も笑った。

 今度は伝わったようだった。

 紋太は目を線にして笑った。

 俺の好きな顔だった。


 人気のないところに座った。

 花火はあまりよく見えなかった。

 だから人気がないんだろうけど。

 音はよく聞こえた。

「聖人」

「何?」

 フランクフルトを食べながら。

 紋太は俺の匂いを嗅いできた。

 距離が近かった。

 けど。

「何?」

 俺は平然とした。

 平静を装った。

「風呂入った?」

「シャワー浴びた」

「家で?」

「学校で」

「そう」

 紋太は離れた。

 俺は平然とした。

 平静を取り戻した。

 手にしたパックを開いて。

 大阪焼きを箸で掴んだ。

「臭い?」

「その逆」

 顔は見ないように。

 互いに食べ物を見つめていた。

「いい匂いがしたから」

 その言葉に箸が止まった。

 次の言葉を待った。

「昔と同じ」

 紋太の視線がこめかみに突き刺さった。

「その匂い、好き」

 耐えられなかった。

 箸を動かして。

 大阪焼きにかぶりついた。

 ソースとマヨネーズの味。

 いつもより噛む回数が多くなった。

 時間稼ぎが上手くなった。

「俺も」

 ごくんと呑み込んで。

 もう一口かぶりついた。

「俺も、何?」

 紋太の手は完全に止まっていた。

 俺の言葉を待っていた。

 俺が呑み込むのを待っていた。

 俺も呑み込みたかった。

 次に出す言葉ごと。

 けど。

「好き」

「自分の匂い?」

「紋太の匂い」

 石鹸と汗の混ざった匂い。

 昔から変わらない青春の匂い。

「気持ち悪いな、おれたち」

「かもしれない」

 笑った顔が好きで。

 汗混じりの匂いが好きで。

 じゃあどこが嫌いなんだ、って。

 自分で自分に問いかけて。

 だけど答えは出なかった。

 出したくなくて。

 大阪焼きにかぶりついた。

「悪くないけど」

 紋太は照れくさそうに笑った。

 花火の音で聞こえなかったフリをして。

 その横顔を横目に眺めた。

 いつもなら見えない角度。

 知らない紋太。

 知らない自分。

 どちらも知りたくなかったと思った。

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