act.9 密室

 夏休み最終日。

 課題はたくさん残っていたけど。

 けど。

 おれは遊びに出かけた。

 真波との約束。

 花火大会の埋め合わせ。

 真波の部屋。

 初めて来たわけじゃなかったけど。

 部屋の中を改めて見回した。

 おれや聖人の部屋とは印象が違った。

 柔らかい印象の部屋だった。

 勉強机と本棚。

 それとセンターテーブル。

 目の前にはテレビ。

 おれはテーブルの前に座って。

 真波は勉強机の椅子に座って。

 何気なく談笑した。

 テーブルの上には無造作に楽譜が置かれていた。

 そう言えば吹奏楽部だった。

 演奏しているのを見たことはないけど。

「楽器、何だっけ?」

「バスクラリネット」

「何それ?」

「でっかいクラリネット」

「クラリネットがわからない」

「んー、じゃあ無理っす」

 真波は説明を放棄した。

「調べて」

 おれは携帯電話で調べた。

 画像が出てきたけど。

 ピンとこなかった。

「それそれ」

 真波は画面を覗き込んできた。

 距離が近くてドキドキした。

 誰かに見られていないか後ろを確認した。

「何?」

「いや」

 おれは真波の顔を見た。

 真波もおれの顔を見た。

 大きな瞳が猫のようだった。

 気分屋な猫。

 真波にはよく似合っていた。

「バスクラリネット」

 おれは画面に視線を落とした。

「何でこれにしたの?」

「んー、やりたくはなかったんだけど」

 真波は不満な色を見せず。

 至極当然といった面持ちを浮かべた。

「誰かがやらなきゃいけなかったから」

「渋々?」

「そう、渋々やったんさ」

 とてもそうには見えなかった。

 真波の真意はいつもわからない。

 それは誰であっても同じか。

 おれは一人苦笑した。


 何となくやることもなくて。

 お喋りも一段落して。

 二人きり。

 微妙な空気が流れた。

 ふと。

 真波がおれの左隣に座ってきた。

 触れそうで触れない距離。

 付き合っているのに。

 他人の距離。

 他人だからおかしくなかった。

 けど。

 その距離が目に見えてもどかしくて。

 おれは気付かれないように。

 自然な動作でにじり寄った。

 腰を浮かせて。

 座り直すと同時に距離を詰めた。

 と。

 真波に気取られた。

 こめかみに視線が突き刺さった。

 おれは恐る恐る左を向いて。

 何とも言えない表情を見た。

 笑っているような。

 怒っているような。

 何かを求めているような。

 顔。

 おれは黙って。

 微笑みすら抑え込んで。

 高鳴る胸をごまかすように。

 そっと、真波に近付いた。

 唇を重ね合わせた。

 僅か一秒。

 だけど永遠。

 そんな陳腐な体感時間だった。

 見つめ合って数秒。

 真波は少し照れくさそうに笑った。

 嬉しそうな顔。

 求めている顔。

 確信。

 おれは感情を殺した。

 おれは理性を殺した。

 真波にそっと触れてみた。

 びくっと両肩が跳ね上がった。

 吐息混じりに声を漏らした。

 だけど真波は受け入れた。

 いいよ、って顔をした。

 だからおれはもう一度。

 唇を重ねて。

 真波の肌に触れて。

 そこで漸く、笑った。


 家に帰ってから。

 何も考えられなかった。

 夜。

 夕飯も取らずに部屋にこもった。

 布団に寝転んだ。

 天井を見つめた。

 真波の顔を思い出した。

 いろんな表情を思い出した。

 おれは笑った。

 いろんな顔で笑った。

 笑いが止まらなかった。

 誰かに話したくてたまらなかった。

 誰にも話したくなかった。

 矛盾。

 そんな思考すら気持ち良かった。

 満たされた気持ちだった。

 真波のことが好きなんだと。

 改めて知った。

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