act.4 約束

 雨が降った日。

「よっ」

 紋太が家に来た。

 約束もしないで。

 確認も取らずに。

 家が近いからって。

 小学生の頃からよく遊んでいたからって。

「今日、部活休み?」

 空を見上げた。

 台風が近づいているらしい。

 おかげで土砂降りだった。

 部活も休みだと連絡が来た。

 大会前まで一ヶ月もないのに。

「休み」

「遊ぼ」

「練習する」

「どこで」

「部屋で」

「部屋で?」

 紋太は目を丸くした。

「そんなに広かったっけ?」

「構えだけ」

 勘違いしているようだった。

 どんな勘違いだ。

「それって、効果ある?」

 失礼な質問だった。

「ある、と思う」

 立ち話もなんだから。

「たぶん」

 俺は家に上がった。

 紋太も「お邪魔します」と入ってきた。

 他には誰もいなかった。


 畳張りの六畳間。

 布団と箪笥と勉強机。

 漫画が入った本棚。

 俺の部屋。

「変わらねえな」

 紋太は布団に寝転んだ。

 図々しい奴だと思った。

「あ」

 紋太はすぐに起き上がった。

 忙しない奴だと思った。

「いい意味で」

 変なフォローだった。

「昔の聖人、好きだし」

 今の俺は嫌いなのか。

 そんな物言いだった。

 そこにはフォローがなかった。


「練習しねえの?」

 勉強していると紋太が訊いてきた。

 漫画に飽きたようだった。

「しない」

「おれが来たから?」

「そう」

「じゃあ、いないと思って」

「無理」

 ペンを走らせた。

 扇風機の緩やかな風に汗が乾いた。

 雨の打ちつける音が耳に染みついた。

 勉強するには丁度良かった。

 環境は。

「見せてよ」

 状況は悪かった。

 紋太が肩に体重をかけてきた。

「宿題?」

 わざと外してみた。

 紋太は「ちげえよ」と呆れた様子だった。

「練習」

「何で?」

「見たいから」

「この前見たでしょ」

「近くで見たい」

「近かったでしょ」

 紋太は食い下がった。

 肩に指が食い込んだ。

 痛い、とは言えそうになかった。

 続きの言葉が欲しかった。

「おれのせいで負けたら嫌だし」

「大会?」

「そう」

 そんなに上手いわけじゃないのに。

 全国にすら進めないのに。

 期待し過ぎだ。

 けど。

「原因になるほどじゃない」

 俺は立ち上がって部屋の隅に向かった。

「紋太はいつも何もしてくれてない」

「ひでえ」

 弓を取り出した。

 紋太を布団の上に追いやって。

「一回だけ」

 矢は持たずに。

「待って」

 待った。

「眼鏡外して」

 理由は訊かなかった。

 前に聞いた。

 黙って眼鏡を外した。

 世界がぼけた。

 遠視で弓道は無茶がある。

 近視でも無理があるけど。

 紋太がどんな顔をしているのか。

 よくわからなかった。

 けど。

 気にしなかった。

 弦を引いた。

 視線は窓の向こう。

 弦を放した。

 しなる音が聞こえた。

 振動を手に感じた。

 弓を下ろした。

 ぱちぱちと音がした。

「すげえ」

 とか。

「かっけえ」

 とか。

「やっぱかっけえ」

 とか言いながら。

 ぼけた顔が近くに来た。

「見える?」

「見えない」

「ほんとに?」

「ほんと」

 嘘。

 この距離なら大体わかる。

 紋太が間抜け面していることも。

 デコピンしようとしていることも。

「馬鹿」

 弓で下腹部を小突いてやった。

「うっ」

 苦しそうな声が出た。

 演技ではなさそうだった。

 演技だとしたら。

 ロミオに適任だと思った。


「雨やべえ」

 紋太が窓の外を眺めた。

 雨でよく見えなかった。

 ビニール傘では心もとないほどだった。

「帰れねえ」

「帰れるでしょ」

「濡れるじゃん」

「近いでしょ」

「そうだけど」

 紋太は不満そうだった。

「合羽貸す?」

「いい」

「濡れるよ?」

「そうだけど」

 やはり紋太は不満そうだった。

 理由はわからなかった。

 けど。

「じゃあ止むまで居れば?」

「そうする」

 ようやく満足そうな顔になった。

 わかりやすい奴だと思った。


「じゃあ」

 雨が弱まる頃には夜になっていた。

 紋太を見送りに外へ出た。

「また」

「おう」

 紋太はビニール傘を開いた。

「そう言えば」

 紋太は振り返った。

「大会いつ?」

「八月十日」

「やべ」

 紋太は携帯電話を確認した。

 真っ青な顔だった。

「約束」

「ん?」

「真波と、約束」

 酒井真波。

 紋太の彼女。

 ロミオの彼女。

 ジュリエット。

 いや。

 ジュリエットは木ノ下だ。

「そう」

「悪い」

「何で?」

 謝る理由はなかったけど。

 紋太はすごく申し訳なさそうで。

 で。

「大会頑張って」

「まだ先だけど」

 そんなことを言って。

「頑張る」

 曖昧な約束をした。

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