第4話

 二人が名前を教え合ったあの日から、二週間に一、二度程度の頻度で律月は準備室に足を運んでくるようになった。最初は気が散ったし、一人の時間を楽しみたくて邪魔に思っていたけれど、四ヶ月も経った今はもう慣れた。

 出会った頃こそ律月の人との距離の詰め方が、私にとっては早足で、少し苦手だったけれど、この部屋に来ても邪魔になる程話しかけてくるわけでもないし、ただ椅子に座ってピアノを聴いてしばらくすると居なくなるだけだったから、今はもう何も思っていない。放っておいている。

 律月のように、私でも居心地よく思うような丁度いい空気感で接してくれる人は珍しい。出会った頃に思った悪い人じゃなさそうっていう印象、やっぱり合ってたな。彼は今日も来るのかな。そう思いながら一階までの階段を下った。


 九月末、最近もう涼しくて、一年で一番過ごしやすい季節になった。今日も私がひっそりピアノを弾いている準備室の扉を、律月が叩いた。

 もうお花のシーズンじゃなくなったのか、最近は部活をサボる間はずっとこの部屋でピアノを聴いたり、それをBGMにして英単語を覚えたりしている。私は、いや図書室行きなよ、とも思いつつ、まあいいやと気にしないでいた。

 ドビュッシーの『月の光』。私の一番大好きな曲。静かで神秘的な空間を表現するのは難しいけれど、メロディの美しさに弾いている自分もうっとりしてしまう、そんな曲。

 今日は、返ってきたテストがいい点だったから気分が良い。お気に入りの曲も気持ちよく弾けてしまうし、だからいつもより感情も篭っていたらしい。美しい分散和音を静かに弾き終えると、斜め前に座っている律月の目から、涙が頬を伝っていることに気がついた。音の余韻を味わうように少し時間が経ってから、閉じられていた瞼が開いた。

「すごく沁みた。とっても素敵だったよ。僕もこの曲大好きなんだ」

 称賛を受けるのは、素直に嬉しかった。自分の演奏で涙を流すなんて。他のところで何かあったのか少しだけ心配に思った。

「大丈夫?」

「ああ、感動して涙が出てるだけだから、大丈夫だよ。素晴らしい演奏、ありがとう。僕、独り占めできちゃうなんて贅沢だな」

「別にあなたのために弾いてないから」

「はいはい、わかってるよ」

 涙を拭いながらストレートな言葉で褒めてくる律月に、私は少しだけ照れてしまった。ぴしゃっとした返事をしてしまったのは、紛れもない照れ隠しで。きっと律月にもバレているだろう。

 気を紛らわそうと、何かもう一曲何か弾こうとしたが、下校時刻を知らせる音楽が聴こえてきた。

「ねえ、今日一緒に帰らない?」

 珍しく、律月が誘ってきた。

 『月の光』のロマンチックな余韻に押されるように、私は律月の誘いに乗った。



 

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