第2話


 五月末、体育祭シーズンで実行委員や応援団の生徒が放課後忙しそうに準備をしている中、私は今日も第二音楽準備室で一人演奏会をしてから学校を出た。今日は、新しい楽譜を買うために最寄り駅の近くの楽器屋さんに寄ってから帰る。夕方六時の駅近辺は、多くの人がそれぞれの帰路についているので、賑わいがある。私が中学生の頃住んでいた町は、こことはまるで違い駅近辺も、もっとこじんまりとした雰囲気だった。

 去年までの通学路を思い出しながら歩いていると、三歩先を歩いていた四歳くらいの女の子がずてっと転んでしまい、彼女が持っていた缶ジュースが足元に転がってきた。それを拾い、渡そうとして顔を上げると、目の前のお花屋さんから、黒いエプロンを着た男性の店員が、お花の入ったバケツを抱えたまま女の子に駆け寄った。漫画だったら「大変!」と小さな文字が顔の周りに書かれるような心配そうな顔をして。

「大丈夫? 膝とか手とか、痛くしてない?」

「うん」

「そっか。泣かないで偉いね」

しゃがんで女の子と目線を合わせたまま、店員はそう言って、持っていたバケツから一輪、お花を抜き取って女の子に差し出す。

「良い子にはお花あげちゃう。綺麗でしょ〜」

 今すぐ教育番組にでも出られるんじゃないかってほどの柔らかくて、優しい笑顔でそう言った。女の子は、お花を受け取ると、だんだん表情が明るくなって、可愛らしい笑顔を見せた。

「これ、落としたよ。気をつけてね」

私も缶ジュースを女の子に手渡す。すると少し前をベビーカーを押しながら歩いていた母親がすみません、と言って慌てて戻ってきた。

「お兄さんたち、ありがとう」

 お花をもらってすっかり機嫌が良くなった女の子は転んだことなんて忘れてしまったような顔でそう言って、手を振りながらお母さんと赤ちゃんと歩いて行ったので、私と店員も手を振り返して彼女たちを見送る。

「小さい子二人も連れて、お母さん大変そうだー」

 彼の独り言に一応反応しておく。

「そうですね。じゃあ」

 私の声を聞いて目を合わせてきた店員は、あっと声を上げて、指をさしてきた。

「ピアノの! この間はせっかくの演奏止めちゃってごめんね。あ、まってその前に僕のこと覚えてる?」

 あ。この人『花の歌』の時にすごい見てきてた人か。ちゃんと顔見てないから気づかなかった。でも柔らかい笑顔はあの時と一緒だ。

数週間前に彼が微笑んでいた時の顔が脳内でだんだん鮮明になってきた。

「今、思い出しました。失礼します」

「まって!」

店員の呼びかけに

振り返ると、彼はバケツから一輪、お花を差し出していた。

「はい、あげるよ! 生で渡すのも邪魔になっちゃうよね。今軽くラッピングしてくるからちょっと待ってて!」

「お気遣いなく。私、転んだ女の子でも、良い子でもないので」

「そっか……。じゃあ、またね!」

 少し残念そうな顔をしつつも了承した後、またお得意の笑顔で手を振る彼に会釈して、私は楽器屋さんへと足を動かす。

 表情がくるくる変わる、忙しい人だった。私と真逆。

 お花のプレゼントなんて、どこの王子様に仕込まれたんだよ、と思い、少々引き気味に笑いたくなってしまった。まぁ、一般的な女子なら喜んで受け取るんだろうな。彼にああやってお花を差し出されて断ったの、私が初めてなんじゃないかな、とたまたまあの場に居合わせたのが自分だったことで、少し彼を不憫に思った。

 またね、か。

 名前も知らない、ただ同じ学校という間柄の人に、タメ口で距離感を詰めてくるあの感じが、少し苦手だ。あんな柔らかい雰囲気の人は、友達多かったり女子から人気だったりしそうだな、と勝手に想像してしまう。

 でも悪い人じゃないんだろうな。笑顔は素敵だった。でもまたすぐに忘れそうだな。興味ないし。

 そんなことを思いながら歩いているうちに、楽器屋さんについて、目当ての新譜を探しに入った。

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