音色

楓椛

第1話

 コツコツ。

 黒板とチョークが擦れる音だけが響く、気怠げな雰囲気に満ちた教室に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。その音で、眠気の波に攫われつつあった脳みそが起こされた。頬杖をついていたから、顎が少し痛い。春から初夏に移る頃の、暖かな風が吹き込む教室の温度は心地よい。校舎のすぐ横の桜並木から、葉桜の香りが風に乗って舞い込んできた。

 居眠り中のクラスメイトたちも、チャイムに気づいて起き出している。

「起立、礼」

「ありがとうございましたー」

 六時間目が終わり、みんなそれぞれ帰り支度を始める。

 今日はSHRも掃除もないので、私はカバンを持つと足早に教室を出て、一階の第二音楽準備室へと向かう。授業後、誰と話すことも無く教室を出たので、廊下はまだ人が少ない。窓のない暗い階段を降りて、校舎の一番奥の、目立たない場所にある扉を開けると、いつもの少し埃っぽい空間が迎え入れた。

 ここは私のお気に入りの場所。学校で唯一居心地が良くて落ち着ける、誰にも邪魔されない秘密の場所。私は、週に二回の部活がある日は毎回ここに来ている。部活、といっても全員必ず入部しなければいけないという面倒な校則のために、一番活動日数が少ない写真部に入り、初回だけ出席してあとは幽霊部員としてこの部屋に逃げ込んでいる。部活に力を入れているこの学校は部活に関して謎ルールが多くて、部活の活動日は活動時間が終わるまで下校できない。

 本当に面倒。進学校目指してる割に勉強時間は確保しないのね。

 帰るためには顧問に欠席届をわざわざ出さないといけない。でもそんなこと毎回やっていられないのでこの部屋でいつも時間を潰している。


 埃っぽい空気を入れ替えるために、窓を開ける。今日は天気も良い感じがするのでカーテンも開けると、光が差し込んできて、眩しい。手入れされた裏庭の花壇がよく見えた。いろんな種類の花が咲いている。

 こんな校舎の裏のあまり人が通らないところなんかじゃなくて、もっとみんなに見てもらえる場所で花を育てればいいのに。こんなによく見える部屋に来るの、私だけじゃ意味ないのに。窓際にある古びたピアノの椅子に腰掛けてそんな風に思った。

 綺麗に咲いているであろう花に目が止まったので、今日はランゲの『花の歌』を弾こう。華やかで明るくて品がある、まさにお花って感じのこの曲が大好き。一日の学校生活の中で一番気持ちが良い時間。古いけれど、グランドピアノはやっぱり良い音が出るし弾いていて楽しい。家で弾くのとは違うのよね。穏やかな気持ちに浸って演奏していると、人の視線を感じた。窓の方に目を向けると、少しだけ微笑みながらこちらを見ている一人の男子生徒と目が合い、ぎょっとして手が止まった。

「あ」

「ええ! ごめんなさい、演奏止めないで!」

 水やりのためのホースを片手に持ちながら、慌てたようにそう言ってきた。止めないでって言われてもなぁ。もう止まっちゃったんだよなぁ。わかりました、もう一回ってわけにもいかないし、ていうかそこで聴き続ける気なの?

「あの……」

「えっと、良い曲ですよね!」

「そうですね、じゃあ」

 シャッとカーテンを閉めて、窓ガラスを一枚挟んで、私は彼とさよならをした。

 さあ、別の曲を弾こう。


 一人で音楽に浸る時間が待ち遠しくなってしまうくらい、学校生活はつまらない。友達を作る気もないし、たいして面白いこともないので笑わないから、人も寄ってこない。怖がられてるのかもね。別に良いけど。人間関係は面倒なものなんだから、もういいの。

 私は、学校生活が嫌いだった。人と関わる事を、面倒なことだと思っていた。

 白と黒。私が見る景色で唯一昔から変わらないのは、このピアノだけだった。

 しかし、この日の出会いが、私自身が築いた高くて分厚い壁を、打ち破れるようになることを、まだこの時の私は知らなかった。

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る