第30話 峠

とうげは越えました」

 医者がそう言うのをおぼろげながらに聞こえてきた。うっすらとした記憶の中、わずかに首を巡らせる。

 そこには明理たちが見える。

 そして再び眠りにつくのだった。


 起きるとそこは病院のベッドの上だった。

 頭がぼーっとする。

 周りを見渡すが誰もいない。

 喉渇いたな。

 俺はナースコールを押す。

 直に看護師さんが来て、俺は喉が渇いたことを伝える。

 右手しか使えないので、自分で歩くこともできない。

 そのことがむずがゆい。

 排泄も自力では難しく、看護師さんの手伝いあってのこと。

 辛い。恥ずかしい。苦しい。

 羞恥心を抱きつつもなすがままの俺。

 それしかできないのだから仕方ない。

 水を飲むと、また眠りにつく。

 休息は大事。

 眠ることで体力が温存できる。

 けが人でもそれは重要だ。

 よく見るとすでに午後八時。

 そりゃ面会も行っていないわけだ。

 友達どころか家族もこないのは理由があったから。

 でも、弱っているときは寂しいものだ。

「俺、どのくらい寝ていたんですか?」

 看護師さんに訊ねてみた。

「丸一日です。でも良くなっていますよ」

 一日も寝ていたのか。

「ご家族やご友人もいらっしゃって、心配していたんですよ」

「そう、ですか」

 俺が死んでも哀しんでくれそうな人がいる。

 いいや。弱気になってちゃダメだ。

 怪我をしているから。病気だからと、弱気になってしまってはみんなに心配させてしまう。

 俺はみんなに愛されているんだな。

 それが分かっただけでも心が落ち着くというもの。

 しばらくして、俺はまた眠りにつく。


 次の日の朝。

 蛍光灯の光がまぶしい。

 朝の六時。

 病院の朝は早い。

 点滴で痛み止めや栄養などを流し込んでいるが、食事もできるようになったので、点滴をやめることになった。

 食事は精進料理みたいなものばかりで若い俺には唯一の楽しみがなくなっていた。

 そこで面会にやってきた母。

「料理が味気ないんだよな」

「少しは我慢しなさい。あなたはけが人なんだから」

「でも楽しみがない。つまらん」

「じゃあ、お菓子買ってきてあげるわね」

 なんだか母ちゃんに気を遣わせてしまった。

 でもけが人だから甘えてもいいっか。

 母ちゃんが一階にあるコンビニでお菓子を買ってきてくれた。

 それは嬉しいんだが、たくさん買いすぎなんだよな。

「何個買ってきたの?」

「おいしそうなものを選んだらつい」

 そんな母の後ろについてきた明理。

「その……ごめんなさい」

「なんで謝るんだよ。明理」

「好き過ぎて避けていたから」

 ああ。その件か。

 確かに困ってはいた。

「でも、もう大丈夫なんだろ?」

「そう、でもないかも」

「あらあら。明理ちゃんがうちの祐介とそんな関係になっていたなんて。まあ」

 嬉しそうに言う母ちゃん。

 まあ、明理が小さい頃からの知り合いだからな。

 まさに家族ぐるみの関係だったし。

「好き過ぎてはずい」

 顔を隠すようにする明理。

 その言葉に俺の心臓が跳ね上がる。心拍数が上がった気がする。

「松葉杖……」

 明理は未だに松葉杖をついた状態できたのだ。

 無理をさせている。

 そのことに今気がついた。

「椅子に座りなよ」

 俺は近くにある椅子を見る。

「うん。ありがと」

「じゃあ、私はこれくらいで」

 母ちゃんが帰ろうとする。

 ありがとう、と伝える。

 母ちゃんには世話をかけっぱなしだ。いつか恩返ししないとな。

 それにしても景山のやつやらかしやがって。一生恨んでやる。

「どう。調子は……。って言っても良くないか」

 乾いた笑いを浮かべる明理。

「そうだな。全身動かせないからな」

 まるでミイラみたいだよ。

「ポテトチップスとってくれ」

 母さんが買ってきてくれたお菓子に手を伸ばす。

「わたしがあけるね」

 右手だけで食べられるよう、筒状の蓋を外す明理。

「ありがとう」

 ポテトチップスを口に運ぶ俺。

「なんか入院してから、お礼ばっか言っているな。明理も食べていいからな」

「ふふ。いいことじゃない」

 明理もポテトチップスを口に運ぶ。

「それもそうか」

 確かにお礼を言って悪いことなんてないんだろうな。

「よう。元気か?」

 たけるが菜乃を引き連れやってきた。

 なんだかんだで菜乃と距離を縮めているようだ。たけるはいい奴だからな。それを分かってもらえたみたいで嬉しい。

「学校に復帰するのはまだ時間がかかりそうだな」

 たけるが苦い顔で俺を見る。

「ああ。そろそろ解放されたいが、そうもいかんようだ」

 身体を動かそうとするが痛みが走る。

「しかし、祐介に絵心があるとは意外だったな」

 たけるがからかうように言うと、明理の顔が曇る。

「美大にいかないかな、と先生が言っていたぞ」

「先生お墨付きかよ」

 俺はまだ悩んでいた。

 進路のこと。小場禍大学に行くか、それとも美大にいくか。

 安定した収入を求めるなら難関校の小場禍大学の方がいいだろう。でも美大に行っても普通に就職はできる。その道のプロになれるのはほんの一握り。そこまでしてチャレンジする必要があるのか?

 分からない。

「おい。もしかして悩んでいるのか?」

「ああ。まあな」

「そこら辺、明理さんと話し合っているのか?」

 首を横に振る明理と俺。

「おい。ちゃんと進路は話し合えって」

 たけるの言う通りだ。これは二人の未来に関わる大事なこと。話し合っておかなければならないだろう。

「稲荷くんたちはうまくいってほしいかな。我を差し置いてカップルになったんだから」

 菜乃がひどく険しい顔で、トーンの低い声を上げる。

 怒っている。

 こんな菜乃は初めてみた。

 いつもなら物腰も柔らかく、口調も優しいのだが。今はギラギラとしたものを感じる。

「破局になったら、我も狙うかな」

「おいおい。冗談きついぜ。おれは祐介の代わりか?」

 たけるが悲しそうに嘆く。

「まだお友達かな。裏切ってはいないもん」

 ぷいっと顔を背ける菜乃。

 その姿も可愛いが、口にはしていけない。

 明理を見やると、不安そうにチラチラとこっちを見てくる。

「そうだな。俺、美大に行きたい。一緒の大学にはいけないかもしれない」

「! なんで。美大の就職率は悪いって聴くわ」

「それはネットでの評価だろ。現実的に考えて他の職種に行くものも多いだろ」

「で、でも……」


 ※※※


 ああ。ダメだ。わたし、また独占したがっている。

 毎日のように祐介の家に突撃していた熱がどこかへ行ってしまった。

 その代わり、好きすぎて顔を見るのもしんどい。

 そんな彼が美大に行きたいという。

 わたしは美大にはいけない。それだけの才能も努力もない。

 残念ながら美大にはいけないだろう。

 その代わりに難関校である小場禍大学にはいける。

 ここで祐介と離ればなれになるのは嫌。

 でもこの考えは彼を縛っているのと同じ。

 自分だけは束縛しないと思っていた。でも、よくよく考えると今までずっと縛ってきた。

 わたしに向いてもらおうと、試行錯誤してきた。

 時には朝早く起きて、弁当を作ったり、朝食を作ったりした。

 それも過去のこと。

 今は未来の話をしている。

「俺、美大行くよ。試してみたい。自分に力があるのか。そして俺が明理を見つけ連れていく」

「それまで、我慢、ってこと?」

「ああ。すまない。決めてしまったんだ。俺は絵が描きたい。素敵な絵が」

「もう。なんでこのタイミングで決めるのよ。それに進路相談票は提出したんでしょ?」

「ああ。だから先生に行って取りなしてもらう」

 幸い右手は使える。

 母ちゃんの真心なのか、右手でとれるところにスマホや吸い飲みを置いてくれている。

 これはありがたい。

 さっそくスマホで高校に連絡をとる。

 美大は難しいと聞く。

 今までコンテストにも出したことのないペーペーが今から間に合うのか、疑問ではあるが。

 問題はどんな試験になるのか。

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