第29話 悪化

 俺はなんで生きているんだろう。

 車にはねられたというのに、かろうじで生きている。

 死を意識した。

 俺は一度死んでしまったのかもしれない。

 でも、まだ生きたい。そう叫んでいる。

 全身が痛む。

 痛いというのは生きている証拠だと、誰かが言っていた。

 確かにそうなのかもしれない。

 死んでしまったら、痛みもなにも感じないのだろう。

 でも、それでも生きていることに意味は在るのだろうか?

 この地球上で、生きている意味があるのだろうか?

 俺が死んでも、この世界は何も変わらない。誰にも分からないまま死んでいく。

「心拍数上昇、血圧200を超えます」

「出力をあげろ。もう一度、心臓マッサージだ」

 ピピピと規則正しく鳴り響く電子音。

 俺はどうかしてしまったのだろうか。

 俺がこのまま死んだら、明理が泣いてくれるのだろうか。

 それとも誰も泣かずに死んでいくのだろうか。

 そうかもしれない。

 明理も避けていたのは、こんな浮気症を本当は嫌っていたのかもしれない。

 俺のこと、どうでもいいのかもしれない。

 好き避け、なんて言って本当は嫌いなんじゃないかって。

 笑えてくるだろ。

 俺の人生なんてそんなもんだ。

 たいして面白くも楽しくもない。ただの勘違い野郎が一人くたばるだけだ。

 それでも泣いてくれる人はいるのだろうか。

 寂しい。苦しい。息が詰まるような気がした。

 口を動かし、新鮮な空気を吸おうとする。

 だが、その行為も無意味だ。

 すべては夢の中。

 絵。

 そうだ。俺は絵を描きたい。

 あの画用紙に書いた絵を。

 もう一度書いて見てもらいたい。

 それができなくても。

 生きていたい。

 それは悪いこと?

 違う。

 生きたいと、願った先にきっと望んだものがある。

 明理との大学生活を夢みる――が、俺は美大に行きたい。

 どうすればいい。

 俺はなんで生きている?

 好きな人と巡り会うため? それともしたいことをするため?

 分からない。

 俺は進路をどう向ければいいのか分からない。

 死んだような気分だ。

 ベッドから見える景色は、まだ青々とした葉桜が見える。

 いつかは散ってしまう葉っぱも、今は意味がある。栄養を吸収し、樹木へと伝え広める。

 じゃあ、俺が生きていることにも意味があるのだろうか?

 俺が生きて何かを伝え広める。

 それができるのだろうか。

 だったら、俺は何を伝えたい。何を持っている。

 俺には分からない。

 何も分からないんだ。

 もう何もしたくない。

 もう疲れた。

 もう放っておいてほしい。

 頑張ってきた。

 だから少しは休みたい。

 みんなのために生きてきて、それでみんなは俺に何かしてくれたのか。

 でも、俺は俺のやり方で世界と、世間と関わってきた。それが悪いなら、なんで俺の手をつかもうとする。

 ピピピ。

 少し眠ろう。

 疲れた。


 ※※※


 わたし、どうしよう。

 あれから一度も祐介とは会っていない。

 好き避けなんてやめれば良かった。心臓が早鐘を打つ。それさえ我慢していれば、もっと近くにいられたのに。

 今、祐介は必死で生きている。生きようとしている。

 熱を出して緊急処置室に運び込まれたと聴く。

 わたしは松葉杖を使い、処置室の前にいく。

 涙が止まらない。

 わたしをかばい、わたしのために進路を決めて、わたしだけのものになろうと努力して。

 そんな彼が愛おしい。愛らしい。

 でもわたしの我が儘が今は彼を苦しめている。

 いや、今までもこれからも苦しめるのだと思う。

 結局わたしの独占欲が彼から可能性を奪ってしまったのだろう。

 彼の書いた絵を見た。

 とても上手で、感情が伝わってくるような絵だった。

 彼には絵の才能がある。イラストに描ける思いがある。

 美大に行けば、きっと技に磨きがかかってすごい画家に、イラストレーターになるに違いない。

 わたしが、小場禍大学に行きたいと言わなければ。

 そう。わたしが彼を苦しめている。

 わたしがいなければ、幸せになれただろうに。

 こんな我が儘なわたしに付き合う必要なんてないのに。

 バカだ。

 わたしはおおばかだ。

 こんな単純なことにも気がつかないなんて。

 そろそろわたしも一人で生きていけるようになるべきなのかもしれない。

「なーに。暗い顔をしているの?」

 桃ちゃんがこちらを睨む。

「だって、わたし。恋人なのに、何もできなくて」

 今も祐介はこの壁一つの先で苦しんでいる。もがいている。

「お兄ちゃんのお見舞いにきたのに、明理ねぇの見舞いにきたみたいじゃない」

 桃はのんびりとした口調で毒を吐く。

「明理ねぇ。好き避けしていたみたいだし、少しは反省しなよ」

「うん。ごめんて」

 曇った顔をしていたのか、桃は苛立ちを露わにする。

「それで本当にお兄ちゃんの彼女が務まるの?」

「そ、それは……」

 桃に言われて気がつく。

 わたしは本当に祐介の彼女でいていいのか?

 本当はもっと似合う人がいるんじゃないか?

 考えても栓のない話だとは思うけど、でも考えなければ何も始まらない。

 わたしは本当はどうしたいのか?

 どうあるべきなのか?

 どうあってほしいのか?

 様々な疑問が浮かんでは消えていく。

「わたしは……」

「ほれ。言ってみるの。今のままじゃ、麻里奈さんの方が上手うわてなの」

 桃が意地の悪い顔をする。

「お兄ちゃん、美大に行きたいみたいなの」

「! それ、は……」

 わたしとのキャンパスライフよりも夢物語を望んでいるのね。

「ホント単純。別に別々の大学に行くからって一生離ればなれなわけないじゃん」

「そう、だね」

 その離ればなれのイメージがつかずに言葉に詰まる。

「ホントに分かっているの? それでお兄ちゃんを幸せにできるの?」

 桃は詰問をしてくる。

 恐らくは桃自身も辛いはずなのに。

 でも、わたしだって同じくらい、いいえ、それ以上に辛い。

 祐介の代わりになれない。祐介の痛みを取り除けない。

「だって。わたしだって、祐介の幸せを願っているんだよ。でも、もう無理じゃん」

「なんで?」

 桃が柔らかな口調で訊ねてくる。

「だって。わたしのせいで今も苦しんでいるんだもの。そんなの!」

「そうかな。お兄ちゃん、初めてできた彼女に嬉しそうにしていたよ。それでもダメだというの? 明理ねぇはお兄ちゃんのこと、嫌い?」

「ち、違う! ただわたしには祐介を幸せにできないって」

「それを決めるのは明理ねぇじゃないでしょう? 幸せかどうかを決めるのはお兄ちゃん自身だよ。例えそれが独占欲だとしても」

 やっぱり、わたしの独占欲が悪いんだ。

 それが祐介を苦しめてきたんだ。

 ずっと小さい頃から友達が少ないのも、わたしがしばってきたせい。

 ろくに友達も作れずに高校に進学したのも。

 わたしが独占してきたから。

 わたしが悪いんだ。

 こんなとき、一緒に見守ってくれる人もいない。

「明理ねぇってホントバカだね」

「え」

 拍子抜けの声が漏れる。

 駆け寄ってくる足音。

 それも一人二人じゃない。

 麻里奈、たける、菜乃、釘宮。

 みんな祐介のために駆け寄ってきていた。

「おい。祐介は大丈夫なんだろうな?」

 近くにいたわたしに話しかけてくるたけるくん。

 顔はイケメンだけど、祐介のように可愛げがない。そんな印象が強いたけるくん。

 そして小動物じみた菜乃。

 転校生でありながら、一気に距離を縮めた麻里奈。ツンデレの釘宮。

 みんな祐介が大好きになった。

 みんなが祐介を助けようと思った。

 みんなを幸せにしたのが祐介なのかもしれいない。

 これで死んだら、みんなで嘆くしかなくなる。泣きはらした顔でお葬式なんて嫌だ。

 生きて帰ってきてほしい。

 わたしのもとに帰ってきてほしい。

 だから生きて。

 生きて未来をつかんで。

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