第28話 景山

 俺と明理が二人で仲良く帰宅する中、明理は訊ねてくる。

「美大、行くの?」

 短い質問だった。でもその言葉の裏には色んな意味合いが見て取れた。

 やりたいこと。やらなくちゃいけないこと。色んな思いがあって、それでもなおやり通す。 

 そんな大人に憧れていた。

 夕暮れの校舎を見つめ、俺は歩き出す。

 と一台の車が猛スピードでこちらに向かってくる。

 その運転手は、

「景山!? どうして!」

 そのままの速度で突っ込んでくる。

 俺はとっさに明理を車線上から突き放し、受け身をとる体制を整える。

 車はスピードを緩めずに俺を跳ね飛ばす。


 記憶が曖昧になる。

 救急車の中で声をかけられたのは覚えている。

 だがそのあとの記憶は飛んでいる。

 いつの間にかベッドの上で横になっていた。

 明るく白い天井。

 体のほとんどが動かせず、俺は首だけを動かす。

 と、桃と目があった。

 急いでナースコールを押すと医者が大慌てで駆け寄ってくる。

「稲荷さん、聞こえていますか?」

「はい」

 自分でも驚くほどのガサガサ声。口の中が乾燥している。

「あなたは今、重度の骨折があります。しばらくは動けない生活が続くと思ってください」

 え。それじゃあ、あの絵は完成できないのか。いやそれより……。

「明理は?」

「大丈夫なの。お兄ちゃんが突き飛ばしたから足の骨折だけですんでいるの」

 いつものおっとりとした口調だが、そこに緊張感はない。

「それよりもお兄ちゃんが心配なの」

 そんなにひどいのか、俺の様態は。

 見た感じ、ミイラみたいになっている。

 全身がきしむように痛い。

 骨が折れているから、仕方ないのかもしれない。

「痛み止めを処方しました。少し安静にしていてください」

 先生がそう言うと、俺は小さく頷く。

「しかしお兄ちゃんがそこまでして明理ちゃんをかばうなんて……」

 桃は悲しそうに笑む。俺への思いを断ち切ろうとしているのだろうか。苦しそうである。

「桃も変わらないといけないの」

 そうか。桃はちゃんと失恋できたんだな。

 これでお兄ちゃんとしては心残りはない。

「しかしまあ、こんなことになるなんて」

「捕まった人、言っていたの」

「なんて?」

「殺すつもりでやった、って……」

 そうか。もともと、俺を殺すつもりだったのか。

 そこまでの熱をどこか他のはけ口に持っていけなかったのか。同時に殺されるほどの恨みを買っていたことに気づく。

 それが辛い。悲しい。

 俺の手の届かないところで、俺の知らない感情がうごめいている。

 俺は知らないのが怖い。想像だにしていなかったことに恐怖を覚える。

 こんなにも憎まれているなんて。

 悲しい気持ちが溢れてくる。滲んだ視界が揺れる。

 悔しい。明理を無傷にはできなかった。それに俺のせいで巻き込んでしまった。

 麻里奈をかばったときと一緒。

 いや今度はそれよりもひどいか。

 あの絵、書き終えることはできないか。


 しばらくして桃は帰っていった。

 その代わりに菜乃とたけるがやってくる。

「おう。仲よさそうじゃないか」

「そう言えるお前がすごいよ」

「どういう意味だ?」

 俺は分からずに首をかしげる。

「いや、どうみても重傷でしょ。まともに動かせるの右腕だけじゃん」

「それもそうか」

「我、なんとかできないかな?」

 菜乃が深刻そうな顔で訊ねてくる。

「大丈夫だ。こいつ他人に頼ってばっかだからな。少しは肝を冷やすといい」

「お前には言われたくねーよ」

 俺は呆れたように呟く。

 しかし、仲良くなってきているな。二人とも。

 これなら、心配する必要もないのかも。


 二人が出ていくと、今度は麻里奈と釘宮が訪れる。

「ずいぶん、痛々しいですね」

「ふん。あんたのプリントを持ってきてやったんだからね」

 ツンデレ風に言う釘宮。微笑ましい顔を向ける麻里奈に俺。

 慣れているからな。こんなこと。

「ありがと」

 俺はかろうじで動かせる右手を伸ばす。

「あ」

 プリントを受け取ると、釘宮は悲しい顔をする。

「あたし、もうちょっと考えるべきね」

 視線の先に机が見える。そこにプリントを乗せるべきだと気がついたようだ。

「なにを今更」

 こいつには散々言われてきた身だ。今更、何をそんなに気を遣う必要がある。

 俺がふっと笑うと、釘宮はキモいと言う。ひどい。

 まあ、そんな関係性だ。気にする必要もない。

「ぶっちゃけ、こないのかと思っていたぞ、釘宮」

「ふん。いいじゃない。たまには」

「そうだな。たまにはいいかもな」

 どこかで終わったのだと思っていた。

 交際相手を明理に決めたときから、他の人との関係性も壊れてゼロに戻ると、そう考えていた。

 でも違う。

 思うほどに気持ちが膨らみ、その行き場のない思いが逆に好意として現れるのかもしれない。

 だから好きじゃなくなることもない。好きは消えない。

 好きになったものをひっくり返すことなどできない。

 嫌いになどなれないのだから、厄介だ。

 想いは膨らむばかり。

 麻里奈と釘宮を見て思う。

「それよりも、その手じゃ、食べるのも大変ですよね」

「確かに……」

 麻里奈の言葉に納得する釘宮。

「いや、大変だけどな」

「じゃあ、私があ~んしますね」

 ちょうど昼飯になり、焼きたらと小松菜のおひたし、味噌汁。

 取り分けて、俺の口に運ぶ麻里奈。

「はい。あ~ん」

「え、えぇ!」

 俺は驚きのあまりのけぞってしまう。

 と、激痛が走る。

「いった!」

「ほら、食べないから罰が当たったのです」

「……分かったよ」

 俺は恥ずかしさを抑え込み、麻里奈のあーんを受け入れることにした。

 口に広がる旨み。

 いつもの焼き魚よりも旨みが強い気がする。

 これも麻里奈があーんをしてくれたお陰か。いいや、間違ってはいけない。俺は明理と恋人になると決めたんだ。不貞が許されるわけじゃない。

 でも好き避けをされていて、俺は少し寂しかった。

 今は麻里奈に甘えてもいいだろう。

 そう自分勝手な考えをしてしまった。

 俺があーんを何度も受け入れてしまった。

 何度も何度も。

 まるで明理を裏切るかのように。

 食べ終える頃には幸福感でいっぱいになってしまった。

 でも、本当はここに明理がいたのだ。それを。

 罪悪感で胸がいっぱいになる。

 でも仕方ないじゃないか。

 麻里奈が哀しむところを見たくないんだ。

 それに彼女らの恋がまだ終わっていないのだ。

 俺も不自由だったし、仕方ないだろ。

 何度目かの言い訳をすると、父と母が訊ねてきた。

 まだ日も明るい。

 きっと仕事を早退してきたのだろう。

「入院費や家事は任せない。といってもいつも桃がしてくれるか」

「とにもかくにも今は休養が必要だね。ゆっくりと休んでなさい」

 父と母がそう言い、しばらく談笑した。

 最近のアイドルやニュースの話、学校の話、友人の話。

 話すことは尽きない。

「それで、どうするんだ? 進路」

「あー。ええと」

「この間までは小場禍おばか大学に、って言っていたが、本当は美大にも興味がでているのだろう?」

 さすが父親だ。

 俺の考えが読み取れているようで少し怖いが。

「そうなんだ。明理と一緒に小場禍大学に行くか、それとも美大にいくか」

 悩んでいる。

 そう時はない。なにせ、美大は珍しい課題が多い。今から学ぶのは遅いくらいだ。

「やりたいことをやれ」

「そうよ。遠距離恋愛になって、それで別れるくらいなら、最初から本気じゃなかと。そんな困難でも仲良くできるのが本当の恋人じゃけん」

 母が熱弁していると、俺は少し考えが柔らかくなってきた。

 そうだ。無理に合わせる必要はない。

 とはいえ、明理が哀しむかもしれない。

 俺はどうすればいいんだ?

 分からない。

 しかし、大学か。あと二年。まだそんな時間じゃない、と思う。でも進路を決めるのは一年後の二年生からか。

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