(六)マスコミ三流

前のコラムの続きのようだが、では何故にマスコミが三流なのか?

時代劇を思い出していただきたい。

元禄十五年十二月十五日、江戸

「てぇへんだ、てぇへんだ。昨夜、赤穂の浪士が吉良の邸に討ち入ったんだとよぉ」

瓦版屋が大通りで“特ダネ”を売っている。


今のマスコミも、その頃から全く進化していないとは思いませんか。

新聞はまだしも、特にテレビは酷い。視聴率を稼ごうと「てぇへんだ、てぇへんだ」と視聴者を煽るばかりである。

分かり易い例を挙げれば「駅伝」。脱水症でふらつくランナーが出ると、アナウンサーは待ってましたとばかり声を張り上げる。画面も切り替わり、首位を走っている選手などそっちのけである。

総裁選が始まれば「○○候補と××候補、勝つのはどっち?」などと、あたかもクイズ番組のような盛り上がりである。そんなことより「どの候補がどんな時にどのような発言をしたのか」など、候補者の政策や“人となり”が分かるような情報を提供して頂きたいものだ。


コロナについての報道も然り。

感染者の数だけ集計して「てぇへんだ、てぇへんだ」と騒ぐばかりである。

最大の関心であったワクチンに何とかメドが付いたと思ったら、やれ「副反応が、」とか「変異株には効かない」など不安を煽るような報道ばかりが目に付く。もちろんそれらの情報も必要ではあるが、最も大切なことはワクチンの効果を客観的なデータを示して正確に伝えること、これが先ではないか。幹線道路を避けて、脇道ばかりに誘導するナビなど使い物にならない。

若者が繁華街で遊んでいる映像を流しては「我慢の限界」などと報道している。しかし私の周りでは、真面目に自粛している若者がほとんどである。即ち「繁華街で遊んでいる連中には若者が多い」というだけで、若者の全てがコロナを無視して行動しているわけではない。間違った報道により、若者が「自分だけが我慢することは無い」と思ってしまうような風潮に拍車を掛けていることに気付かないのだろうか。


話は変わるが、歴史小説を書いていると戦国時代には「元号」がコロコロ変わっていることに気が付く。明治以降、現在は「一世一元」の制が定着している。

三年前、「令和」に元号が制定された時のこと、各新聞社は新元号をスクープするために相当なエネルギーを費やしているとの報道を見たことがある。昔、毎日新聞が誤報を出して、今もトラウマになっているとか。

「政府が隠していることを曝くのが記者魂」なんて間の抜けた解説もあったが、この元号スクープにどのような意義があるのだろう。発表の前に知ったからと言って国民には何のメリットもない。万一まぐれ当たりでもしようものなら「第二候補」を選ばざるを得なくなってしまうではないか。「百害あって一利なし」である。


マスコミこそ古い体質から抜け出さなくてはならない。

視聴率に一喜一憂するのではなく、国民が必要としている情報は何なのかを見極め、しっかりとした取材に基づいて報道して頂きたいと願うばかりである。

経済一流、政治は二流。政治は即ち、国民のレベルを反映するものである。

本来、報道は国民を成長させるものであるはず。マスコミが一流になれば、我々国民のレベルも上がるはずなのだが・・・


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