第16話 甘い人。

 ベルクール公爵夫人のティーパーティーが行われた日から、二週間が経っていた。


 王都でもごく限られた貴族にしか依頼できないと言われている最高級のブティックの扉をくぐり、カミーユは相変わらずの場違い感に、そわそわと落ち着かないでいた。


 本来ならば、屋敷の方へとブティックの店員を呼び寄せるのが普通なのだが。どうせならば到着するまでの道のりを共に過ごしたいというアルベールの希望により、彼と二人で店の方へと赴いたのであった。


 応接用のソファに腰掛け、不躾にならない程度に周囲を見回す。トルソーにかけられた沢山のドレスは、それぞれが誰かのために作られたオーダーメイド。同じ意匠の物など一つもなく、その繊細な装飾に目を奪われる。美しいと、溜息が零れた。




「何か、気に入ったドレスがあっただろうか?」




 聞こえた声に、はっとそちらに顔を向ける。カミーユの隣に腰掛けていたアルベールは、いつも通りその綺麗な顔に優しい笑みを浮かべて、こちらを見ていた。




「どのドレスも、君に似合いそうだ。気に入った物があれば、いくつか注文しておこう。今度の舞踏会用のドレスはもう決まっているが、また別の機会もあるだろうから」




 「もちろん、私に着て見せてくれるだけでも嬉しいが」と続けるアルベールに、カミーユは慌てて首を横に振る。まるで冗談のように言うが、彼が本気だということをカミーユはすでに理解していた。




「とても嬉しいですが、ご遠慮いたします。今回の舞踏会のドレスの完成がとても楽しみですもの。それを見てからでも遅くありませんから」




 さらりと告げた断りの言葉は、もう何度も口にしたもの。アルベールは今日も今日とて、残念そうに「そうか」と呟いていた。


 そもそも、このブティックだけでなく、宝石店や靴屋、手芸店や雑貨屋、本屋に至るまで、どこに行ってもカミーユが視線を向けた物全てを買い与えようとするものだから。最初こそ遠慮がちに断っていたのだが、これはきっぱりと言わねば伝わらないと、断りの言葉を口にするようになったのである。


 まあ、だからと言って彼が懲りるわけでもなく。毎度毎度、カミーユに何かしらを買い与えようとしているが。




「欲しい物があったら、遠慮なく教えて欲しい。君が欲しい物は、全て贈りたいんだ」




 そんな風に微笑む彼を、店員たちはどこかうっとりとした視線で見つめているけれど。カミーユにはそんな彼の姿が、どこか不安そうに見えた。

 まるで、何かで引き留めておかなければ、カミーユがどこかに逃げ出すのではないかと、そんな風に思っているようで。


 さすがに考え過ぎだろうかと、口に出すことはなかったけれど。




「ふふ。相変わらず、仲がよろしいようで。閣下、そろそろカルリエ様にドレスの試着をして頂きたいのですが、お借りしてもよろしいでしょうか?」




 店員たちと話していたブティックの店主の女性が、からかうような調子でそう声をかけてくる。この店には、公爵夫人のティーパーティの後、アルベールに王宮で行われる舞踏会へパートナーとして参加して欲しいと告げられて、その翌日に訪れたわけだが。


 オーダーメイドでのドレス制作が始まり、この店に足を運ぶ度に同じような会話を繰り返しているため、彼女はすでに慣れた様子で二人を見ていた。最も、この店は元々ベルクール公爵家が懇意にしているらしく、カミーユと共に現れたアルベールの様子に、最初はかなり驚いている様子ではあったが。


 普段のアルベールの姿を思えば、当たり前のことだとカミーユもまたそう思っていた。




「すまない、時間を取らせてしまったな。カミーユ、試着してくると良い。気に入らないところがあれば、遠慮なく伝えてくれ。舞踏会まではまだ時間があるから、直せるだろう」




 アルベールの言葉に、店主に確認するよう顔を向ければ、彼女はにこやかな笑顔でこくりと頷いていた。問題ないということだろう。


 ドレスの製作に入る前にかなり細かく打ち合わせをしたので、衣装その物に問題はないと思うけれど。着心地などの問題はまた別なので、もしもの時に手直しする余裕があるのはとても有り難かった。




「ありがとうございます、アルベール様。行って参りますね」




 ソファから立ち上がり、店主の後を追って廊下を進んで、試着用の、というには広い部屋に入る。トルソーにかけられた試作段階のドレスは、しかし高級ブティックらしく生地や糸に至るまで、全て完成品と同じ物のようだった。


 アルベールの瞳の色を写しとったような深い藍色と、髪色によく似た淡く輝くような銀色の布地。形や装飾は全て店主やカミーユの好きなようにと言っていたアルベールだったが、色だけはこれが良いと譲らなかったのである。


 店主はとても楽しそうな顔をしていたし、カミーユ自身もその一途さが真っ赤になるほど恥ずかしかったのだが。

 それ以上に、彼の色を纏って欲しいと望まれたことが、何よりも嬉しかった。




「どうです? 着てみて、どこかおかしいと感じた所はございませんか?」




 店主や店員の手を借りて試作品のドレスを身に着け、姿見の前に立つ。店主の言葉に、「いいえ、問題ないですわ」と、カミーユはその左右に首を振った。


 元々、ドレスを試着するためにこの場に訪れたために、髪形もそれほど凝った物ではなく、化粧も薄いままだけれど。

 そのドレスは、まるで寄り添うように、カミーユの身体を覆っていた。




 装飾がないとはいえ、こんなに高価なドレスだからと思ったのだけれど。着られている感じではなくて、守られているような、そんな風に感じるわ。……アルベール様の色だからかしら。




 思うも、まるで恋に浮かれた令嬢の惚気のように感じて、慌ててその考えを振り払った。誰に何を言われたわけでもないのに、なぜかとても恥ずかしかった。





「それでは、ブラン様がお待ちですので戻りましょうか。あまりカルリエ様を引き留めてしまうと、私が怒られてしまいそうですから」




 試着したドレスを再びトルソーへと戻し、自らの服に着替え直したところで、冗談交じりに店主がそう微笑んだ。「そんなことはありませんよ」と言って笑い返し、二人で扉の方へと向かう。


 案内するように先を歩いていた店主が、試着室の扉を開いた時だった。

 「何であの人なのかしらね」という、ひそやかな囁き声が廊下から聞こえて来たのは。




「英雄閣下はあんなに素敵な人なのに、相手があの程度なんて。もっと位が上の令嬢もいるでしょうに、もったいないったらないわ」




「私たちがドレスを作って来た令嬢の方々は皆、あの人よりも素敵だったわ。美しさも仕種もセンスも、絶対にあの人よりも上だったのに」




 聞こえて来たのは、明らかに自分とアルベールの話。要は釣り合わないと言いたいのだろう。自分と彼は、その容姿でも、家柄でも。


 店主が慌てて飛び出そうとするのを止めて、カミーユはゆっくりと首を横に振った。彼女たちの言い分に、間違ったところなど見当たらないから。




 何よりも、私自身がそう思うのだもの。他の方たちがあまり口にしないから少し気持ちが悪かったのだけれど、ああいう陰口を聞くと、むしろほっとするわね。




 気分が良いわけはないのだけれど。自分の考えがおかしいのではないのだと、そう思えた。あくまでもあれが、一般的な意見なのだと。


 しかし、だ。




「やっぱり、英雄閣下は女を見る目がなかったのね。今になって慌てて選んだんでしょうよ」




「英雄って言っても、全てが完璧ってわけじゃないんでしょうね」




 くすくす、くすくすと笑い合う声。

 その対象が自分であったから、気にするほどのことでもないと思ったのだ。この場で自分に償うために酷く罰せずとも、後ほど注意すれば良い程度だと、店主を止めもしたわけだが。




 アルベール様を悪く言うのは、駄目だわ。




 男性を恐れる、明らかに足手纏いでしかない自分を受け入れてくれる、優しい人を。何よりも自分を優先してくれる、強い人を。

 この国を守ってくれた英雄を、悪く言うなんて。


 それはさすがに、許容出来るはずもなくて。




「店の者が、本当に申し訳ございません。カルリエ様。少々こちらでお待ちください。……あのような低俗な考えを持つ者がいるなど、我がブティックの恥。すぐに追い出して参りますから」




 店主が苛立ったように息を巻くのを聞きながら、しかし首を横に振る。


 自分だけならばまだしも、アルベールを悪く言うのは絶対に聞き捨てならない。「私が直接お話ししますわ」と、笑みを浮かべて言ったときだった。


 「残念だわ」という、可憐な声が聞こえて来たのは。




「ここのマダムの作るドレスが好きだから、このブティックを贔屓にしていたのに。店員が客に聞こえる場所で、そんな話をする程度の店だったなんて」




 穏やかで柔らかな、鋭い声。先程まで笑い合っていた店員たちが、「ひっ」と小さく声を上げるのが聞こえた。


 同時に、その声の主に気付いたのだろう店主が、慌てて扉を開いて廊下へと出て行く。カミーユもまた、それに続いた。




「申し訳ありません、エモニエ様……! この者たちは店を追い出すつもりですので……!」




「……あら、マダム。そちらにいらしたのね」




 廊下に出た途端、店主が深々と頭を下げた相手に目を遣って、カミーユは息を呑んだ。日の光に透けるような金色の髪と、湖面のような翠色の瞳。今にも空気に溶けそうな、あまりに儚い美貌に。




 エモニエ様、ということは……、トルイユ侯爵家のご令嬢じゃないかしら。




 社交界にあまり顔を出さないカミーユでも聞いたことがある。フランシーヌ・エモニエ。カミーユの一つ年上の、儚げな美しさで有名な、社交界の華。穏やかで優しい人格者として有名な人物であった。


 カミーユの記憶が確かならば、彼女はアルベールの母方の従妹に当たるはずだ。ベルクール公爵夫人の妹が、現在のトルイユ侯爵夫人だから。


 フランシーヌはこちらに視線を向けると、驚いたようにその大きな目を見開いた。




「貴女たち、まさかエルヴィユ子爵令嬢がいらっしゃると知っていて、あのようなことを……? マダム、貴女の判断は正しいわ。本人がいない所で口にする陰口も褒められたものではないけれど、本人が、それも客として訪れている相手のことを、こうして人が行き来する場所で口にするなんて、許されることではないわ」




 怒りというよりも、哀しみの勝る様な表情で、フランシーヌが呟く。店主は深々と頭を下げたまま、「仰る通りですわ」と応えた。


 カミーユとアルベールのことを話していた二人は、真っ青な顔で呆然と立っている。今にも倒れそうな二人に、しかしフランシーヌはその細い首を傾げて見せた。




「こんなことを言って追い打ちをかけたくはないのだけれど。……マダムも、そして貴女たちも、まずは謝罪をすべきでしょう。エルヴィユ子爵令嬢に」




 儚く感じる姿に仕種。けれどその身から発される威厳は、やはり高位貴族のそれであった。


 三人はそれぞれ頭を下げながら、カミーユに対して謝罪の言葉を口にする。急なことに驚きながらも、カミーユはそれを受け入れた。そうでもしなければ、店主はもちろんのこと、二人の店員はその場で倒れてしまいそうだったから。




「私は、大丈夫ですわ。ですが、トルイユ侯爵令嬢の仰る通り、本当にお気をつけください。自分のことや、愛する人のことを悪く言われて、気分の良い人なんていませんから」




 それだけ告げて、カミーユはフランシーヌの方へと顔を向ける。「トルイユ侯爵令嬢も、ありがとうございました」と、頭を下げながら。




「そして、私がいたばかりに、ご不快な思いをさせてしまって……」




「あら、気にしないで。わたくしは当然のことをしただけよ。貴女のせいではないわ。……世の中には、妬み嫉みを口にしないと気が済まない方たちがいるの。気をしっかりお持ちになって」




 そう言うと、フランシーヌは優しく微笑む。女神のようだと讃えられるその笑みは、確かに慈愛に満ちた美しいもので。


 カミーユはただその優しさに驚き、笑みを返した。「優しいお言葉をありがとうございます」と応えながら。




「カルリエ嬢も、王宮の舞踏会のドレスを注文されたのでしょう? 会場でお会いできるのを楽しみにしているわ」




 フランシーヌはそう言うと、奥の部屋へと戻っていく。おそらく、カミーユがこの店を訪れるよりも前から滞在していたのだろう。二人の声が聞こえて、出て来たのかもしれない。


 以前から話には聞いていたが、本当に優しい方なのだなと、そんなことを思った。


 廊下から応接室へと戻れば、アルベールがぱっと顔を上げて立ち上がり、カミーユを迎えてくれた。待ち侘びたというようなその姿に、知らず安堵する。


 陰口と言い、フランシーヌとの出会いと言い、思った以上に緊張していたのかもしれない。歩み寄ると手を差し伸べてくるアルベールの姿に、ほっと息を吐いた。




「カミーユ。どうかしたのか?」




 肩の力を抜いたカミーユの姿に、目聡いアルベールはすぐさま反応して声をかけてくる。びくりと、店主が身を強張らせたのを感じて、カミーユは首を横に振った。


 店員たちは、店主の計らいですぐにでも店を追い出されるだろう。カミーユの中では、すでにこの件は終わったことだった。


 それに、内容を説明するためだとしても、あの二人がアルベールの悪口を言っていたことを伝えたくはない。

 だからこそ、別のことを口にした。




「トルイユ侯爵令嬢とお会いしました。噂に違わず、とても美しい方でしたので、緊張してしまったのです」




 これもまた、本当のことであったため、さらりと口にする。アルベールや、ベルクール公爵夫人とはまた別の、儚げな美貌の令嬢。


 アルベールは数度瞬きをした後、「ああ、フランシーヌが来ていたのか」と呟いた。




「トルイユ侯爵家も、このブティックの常連だったな。……緊張するようなことを言われたのか?」



 僅かに鋭くなる視線に、慌てて首を横に振る。先の騒動を口に出来ないため、「ご挨拶させて頂いただけですわ」と、答えた。


 フランシーヌは、自分たちのことを庇ってくれたのである。悪い印象を与えたくはなかった。




「美しい方にご挨拶すると、緊張するものなのです。噂通りに、まるで精巧な人形のように可憐な方でした。……アルベール様も、そう思われませんか?」




 ふと思い立ち、おそるおそる、そう問いかけてみる。

 アルベールがカミーユに好意を抱いてくれているとしても、他の誰かに目移りすることがあるかもしれない。


 フランシーヌのように美しい人ならば、なおさら。そう、思ってしまって。


 アルベールはカミーユの不安そうな顔を見た後、軽く額に手を当てて、小さく唸り声を上げる。ほんの一瞬の間を空けた後、彼はいつもよりも甘やかな笑みを浮かべていた。




「確かに、人形のようだというのは、よく分かる表現だな。昔から、感情の無い笑みを浮かべる従妹だったから。……だが、私にはどう考えてもカミーユの方が美しいと感じる。あまりにも愛らしく、愛おしいから、閉じ込めてしまいたくなる」




 まるで本気で口にしているかのようなアルベールの冗談に、カミーユはその顔を赤くしながらも、ほっとしていた。

 フランシーヌのように美しい人を前にしても、きっとアルベールは変わらないだろうと、そう思えたから。


 そんな二人を見る店主が、「あらあら」と楽しそうに声を漏らしたのに、本人たちが気付くことはなかった。

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