第17話 不思議な存在。




「アルベール殿。よく来てくれた」




 エルヴィユ子爵家の屋敷に入ると同時にかけられた声に、アルベールは笑みを浮かべて軽く頭を下げる。

 「ごきげんよう、カルリエ卿」と言葉を返せば、カミーユの父である彼、バスチアンは、穏やかな表情でアルベールを客間へと案内した。


 今日は、国王主催の夜会が開かれるその当日である。珍しくカミーユが迎えに来てくれなかったのは、準備が忙しいためだろう。

 少しだけ残念ではあったが、仕方がないことだと、素直にバスチアンの跡を追った。


 普段カミーユと過ごすのによく使っている少人数用の客間には、すでに一人の男がくつろいでいた。窓辺に立ち、騎士たちが訓練する場となっているエルヴィユ子爵家の庭を眺めていたその男は、入ってきた客人に気付くと少し慌てた様子で姿勢を正し、頭を下げる。


 この国ではあまり目にすることがない黒い髪と、蒼い目。

 ああ、と思った。彼が誰であるのか、わからないはずもなかった。


 何せ夜会などでカミーユへと視線が奪われる時、必ず傍にいた青年だから。




「お二人は顔見知りでしたな。では、私は妻と娘たちを呼んで参りますので」




 そう言って、バスチアンは踵を返す。その背中を見送ってから、アルベールは客間の中へと足を踏み入れた。




「ごきげんよう、ヴィオネ卿。先日の、貴殿の屋敷で行われた夜会ぶりか」




 部屋に入ったアルベールは、普段自分が腰掛けている席に座りながら、窓辺の青年に声をかける。


 カミーユの元婚約者であり、彼女の妹、エレーヌの婚約者であるジョエル・ヴィオネは、ほっとしたように穏やかな笑みを浮かべて礼の形を取った。「ごきげんよう、ミュレル伯爵閣下」と。




「またお会い出来て光栄です。先日はご挨拶も出来ずに申し訳ありませんでした」




 彼はそう申しわけなさそうに言うが、彼と最後に顔を合わせたのは、彼らが婚約を解消し、そして自分がカミーユに求婚した例の夜会である。


 実はあの日、アルベールはカミーユに求婚した後、正式な求婚状を作るために早々に帰宅していた。そもそも、『アルベール・ブラン』としてカミーユと顔を合わせる機会があまりなかったため、その場で彼女が応じてくれるはずもないと理解していたから。


 つまり場を賑わせるだけ賑わせた挙句、放置して立ち去ったのである。謝罪すべきはどう考えても自分の方であったので、アルベールは静かに頭を下げた。「私の方こそ、すまなかった」と言いながら。




「私が帰った後、大変だっただろう。周りに気を配れれば良かったが、何分、舞い上がってしまって。迷惑をかけた」





 素直に謝罪するアルベールに、ジョエルが驚いたように目を見張る。ぶんぶんと、その首を横に振った。




「お気になさらないで大丈夫ですよ。それ以前に、あのようなことのあった後でしたから、あれこれ聞かれるだろうとは思っていましたから。……予想よりも遥かに色々聞かれる結果となりましたが」




 ジョエルはそう言って苦笑する。立て続けに起こったことを思えば、無理もない話だった。


 話している内に、エルヴィユ子爵家の侍女がアルベールの前のテーブルに紅茶を用意する。斜向かいの席にすでに置かれた紅茶はジョエルの物だろう。思いながら、アルベールは侍女に礼を言うと、紅茶のカップに口を付けた。




「人の結婚話など放っておいてくれれば良いのだがな。まあ、それも一つの社交だから仕方がないとも言うか。……何にせよ、顔を合わせることも多いだろう。気軽に接してくれ」




 公爵家の嫡男で、伯爵であり、極め付けは英雄閣下である。自分で言いながらかなり難しい話かもしれないとは思ったが、カミーユの家族であり、次期彼女の実家の家長となる彼に嫌厭されたくはなかった。彼女を構成する全てを大事にしたいと、そう思っていたから。


 ジョエルは不思議そうに何度か瞬きを繰り返した後、「努力してみます」と言って笑った。




「正直、閣下にはもっと嫌われていると思っていたので、そのように仰って頂けるとは思ってもいませんでした。顔も見たくないと言われるかと思っていましたので……」




「私が、卿を? なぜそのように思ったのか聞いても良いか?」




 笑みを浮かべながら言うジョエルに今度はアルベールの方が驚き、そう問いかける。ジョエルは一度こちらを見た後、もう一度笑った。「何せ、カミーユ嬢の元婚約者ですから」と言いながら。




「閣下はカミーユ嬢のことを以前から想っておられたと聞きました。私自身も、閣下を見ていてもしかしたらと思うこともありましたし。私と婚約していなければ、閣下がもっと早くカミーユ嬢に求婚していたかもしれない。そう思うと、気に喰わないと思われても仕方がないので」




「……ふむ。確かに、卿の言うことも一理ある。卿とカミーユが婚約していなければ、確かに私はもっと早い段階で彼女に求婚していただろうから。しかし、それが理由で卿のことを気に喰わないということは有り得ん。貴族として政略結婚は当たり前の事だ。その上、君と婚約している間、彼女が危険に晒されることはなかった。私からは、感謝の言葉しかない」




 ジョエルと婚約していた三年の間、カミーユが怯えるような事態に陥ることはなかったと聞いている。彼女の私生活に、部外者である自分が頻繁に首を突っ込むわけにもいかず、稀に彼女の状況を探っていただけだが、それでも彼女が煩わされるようなことはなかった。少なくはあっても、夜会などに顔を出す機会があったにも関わらず、だ。


 それもこれも、父であるバスチアンと、婚約者であるジョエルが傍で護って来たからに他ならなかった。

 だからアルベールから彼に伝えるのは、感謝の言葉以外ないのである。


 ジョエルはアルベールの言葉にまた驚いたようで、その蒼い目を大きく瞠っていて。はは、と楽しそうに笑っていた。




「真面目な方だとは思っていましたが、想像以上ですね。私は婚約者として、当然のことをしていただけですから。……閣下がそこまで深く想ってくださるから、カミーユ嬢も婚約を受け入れることにしたのでしょうね。三年の間婚約していましたが、私とは、触れることで精一杯だった。それなのに閣下とは、このひと月半ほどの間でエスコートまで受けられるようになったと聞きました。先を見ることが出来たから、カミーユ嬢も前向きになったのでしょう」




 「良かった」と呟く彼は、本当に安心したような表情をしていた。政略とはいえ、彼がカミーユのことを憎からず思っていたのは、その顔を見れば分かった。


 彼のそんな心境を複雑な心地で聞きながら、しかしアルベールもまた頷く。「そうであれば良いのだが」と口にしながら。


 男性を恐れ、三年経っても触れる事しか出来なかったから、ジョエルとの婚約が解消されたのだ。だからこそ、自分は彼女に慣れてもらうために、毎日彼女の元へと通った。アルベール・ブランという存在が、カミーユの中で当たり前の存在になるように、毎日毎日彼女と共に過ごした。


 その努力が実を結び、やっとのことでエスコートを受けてくれるようになり、正式に婚約することが出来たのである。彼女の負担にならない程度に、これからもっと距離を縮めていきたかった。心も、身体も、全て。




「……私の理性が保つ内に、私のことを受け入れてもらいたいものだな。彼女が望まないというのに、彼女に触れてしまうのならば、私は私の腕を自ら切り落とさなければならなくなる」




 ぼそりと呟いた言葉に、ジョエルはどう反応して良いか分からないというように、困ったように笑っていた。「閣下なら、本当にそうしてしまいそうですね」と言いながら。





「まるで、以前カミーユ嬢から聞いた、『傭兵のルーさん』のようだ」




 続いた言葉の、その内容に驚き、アルベールはまじまじとジョエルの方を見た。なぜ彼のことを知っているのだろうか。会ったこともないだろうに。


 ジョエルはアルベールの視線に気付き、数度瞬きをする。おそらくはその視線の意図にまでは気付かなかったのだろう。世間話をするように、口を開いた。




「閣下はご存知かもしれません。今から三年ほど前、隣国との関係が悪化していたことから、エルヴィユ子爵家で試験的に傭兵たちとの合同訓練を行っていた時期があったことを。国内の騎士たちだけでは心許ないと前国王陛下が仰ったので。その時に、傭兵の一人として訓練に参加していた方が、ルーさんだったそうです」




 「閣下程ではないと思いますが、とても強い傭兵だったようですよ」と、彼は続けた。




「その時、カミーユ嬢はまだ男性を恐れるようなことはなくて。騎士たちと同じように、傭兵の方たちにも差し入れを持って行ったりしていたようです。そこで、仲良くなったのが、ルーという名前の傭兵で。カミーユ嬢も、楽しそうに彼のことを話していました」




 そこで、ジョエルは一度口を閉ざす。躊躇うような素振りは、そこから続く話の内容のためだろう。

 アルベールもまた、それを知っていたから、何も言わなかった。


 ジョエルは少し考えるような間を空けた後、「彼がいなければ、カミーユ嬢は私と婚約することすら出来なかったでしょう」と、呟いた。どこか、遠くを見るような目で。




「傭兵たちとの訓練の期間中に起こった出来事で、彼女は男性を恐れるようになってしまった。その出来事から彼女を救ったのが、ルーさんだったそうです。彼女の身に起こったかもしれない最悪の事態から、救ってくれたのだと。だからカミーユ嬢は、屋敷から出る時は、彼の傍から離れなくなったと聞きました。……当時は、私とも一対一では顔も合わせられなかった」




 過去を思うように、手元のカップの中を覗いたまま、固い顔でジョエルは続ける。


 と、ふっとその表情を和らげた。「彼も、閣下のようにとても献身的な方だったと聞いたのです」と、彼は笑った。




「訓練に参加し、疲れているだろうに、毎日のようにカミーユ嬢の傍に寄り添って、少しずつ外に出る手助けをしていたのだとか。街に出て、人々と言葉を交わして、恐ろしい男性だけではないのだと、そう伝え続けて。そうして、カミーユ嬢は今のように、男性と話をすることが出来るくらいに、回復したのです。だから、婚約を発表した後にお礼を言いたかったのだけれど、彼は同じ時期に姿を消していて。……誰も傭兵のルーさんのことを知らなかった」




 「不思議な人ですよね」と言うジョエルに他意がない事は分かっていたけれど。

 アルベールはただ、カップを口元に運びながら、「そうだな」とだけ、応えた。


 それからしばらくして、バスチアンが彼の妻、アナベルと、娘であるカミーユ、そしてエレーヌを伴って客間を訪れた。ジョエルと二人、立ち上がって彼らを迎えると同時に、アルベールは最愛の婚約者の姿に、密かに息を呑んでいた。


 可愛いや、愛らしいという感想しか出てこないのは、自分自身があまりにも芸術的な文化に触れてこなかったせいだろうか。だとしたら本当にもったいないことをした気がする。愛おしい彼女を称える言葉は、いくらあっても足りないのだから。




「本当に、よく似合っている」




 深い藍色の生地に、細かく刺された銀色の刺繍。ほっそりとした肩に、片側でまとめた緩やかな茶色の髪がしっとりとかかっている。落ち着いた、清廉さを感じさせるデザインのそのドレスは、すっきりとした美しさを持つカミーユに良く似合っていた。


 何よりも、自分の色でその身を包む彼女の姿が、とても嬉しかった。本当に彼女が自分の婚約者になったのだと、そう改めて実感できたから。




「本当に行かなくてはならないだろうか」




 その言葉があまりに唐突過ぎたのだろう、カミーユはもちろんのこと、その場にいたバスチアンやアナベル、エレーヌ、そしてジョエルでさえも、皆驚いた顔でアルベールを見ている。

 アルベールは彼らの視線など気にも留めずに、深々と息を吐き出した。




「こんなに愛らしい君を、私以外の人間に見せなければならないとは……。やはり今日はやめておこうか。二人で食事でもしながら、のんびり過ごすのはどうだろう」




 気付けばすらすらと、口から言葉が零れる。その全てが本心であった。


 このように美しく愛らしいカミーユが夜会になど行けば、おかしな虫がつくかもしれない。というのは建前で。


 ただ、自分だけを見ていて欲しいというのが本音だった。着飾った姿も、驚いた表情も、全て自分だけが目に出来れば、これ以上にないほど幸せだというのに。


 カミーユは僅かに頬を染めるが、しかしゆっくりとその首を横に振った。ふわふわと、緩やかに波打つ髪が揺れる。その様にさえ、心臓が高鳴った気がした。




「今日の夜会は、アルベール様が健在であることを示すための、終戦の日を祝うものなのでしょう? アルベール様が行かなければ、始まりませんわ」




 「ね?」と言って微笑むカミーユは平気そうな顔をしていたけれど、おそらく最も夜会に出席したくないのは、彼女であろう。


 カミーユの言った通り、今日の夜会は終戦の日を祝うと共に、周辺各国から要人を招いて、英雄と呼ばれるアルベールの存在を見せつけるためのものでもあった。つまり、他国への牽制のための国際行事でもあるのだ。


 そんな趣旨であるため、アルベールの周りにはたくさんの客人が集まるだろう。もちろん、男性、女性に関わらず。カミーユに触れさせるつもりは一切ないが、注目を集めてしまうのは間違いなかった。


 それを理解した上で、彼女は自分と共に来てくれると言っているのだ。


 案の定と言うべきか、カミーユの言葉に頷き、「仕方がない」と言って渋々と差し出した掌に触れた彼女の手は、僅かに震えていて。その健気な様子に、そのまま彼女の身体を抱き込んでしまいたいのを、彼女が望まないからと、アルベールは必死に抑え込む。


 あまりにも愛おしくて、目が離せなくて。だから。




「もしかしたらと思って話してみたけれど、どうだろうか。……まあ、カミーユ嬢が幸せそうだから、良いか」




 幸せそうな二人の様子を微笑ましそうに、ほっとしたように眺めながら、ジョエルがぽつりと呟くのに、アルベールは最後まで気付かなかった。

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