第15話 丁度良い機会。

 アルベールのエスコートを受けて馬車に乗り込んだカミーユは、どうしてもと言う彼に促されて、彼の隣の席に座ることになった。それも、手を繋いだままの状態で。

 アルベール曰く、慣れる練習なのだとか。




「君に、私に触れる事に慣れて欲しいというのもあるが、……私自身が、君に触れることに慣れたい。このような日が来るとは思ってもいなかったから……、私の方が緊張してしまっているようだ」




 「ただ放したくないだけかもしれないが」と続ける彼はとても嬉しそうに微笑んでいて。その幸せそうな容貌があまりに綺麗で、知らず頬が朱く染まる。気付けばつられるように、カミーユも微笑んでいた。


 アルベールに対して怖いと思うことはなくなったのだけれど、今ではそれとは全く別の緊張に心臓が騒いでしまう。おかげでベルクール公爵邸に着くまでの間、カミーユは彼と何を話していたのか、さっぱり覚えていなかった。


 馬車が止まったことで目的地に到着したことを知り、カミーユはごくりと生唾を呑み込む。それまでのふわふわとした気分はどこへやら、押し寄せる緊張にぎゅっと手を握りしめた。


 女性だけの集まりとはいえ、ベルクール公爵夫人の友人といえば、高位の貴族夫人ばかりだと簡単に予想出来る。同じ貴族とはいえ、下位貴族の娘のカミーユからすれば、周りは皆雲の上の人たちと言っても過言ではなかった。その最たる人物が、アルベールの母である、ベルクール公爵夫人であるのは言うまでもないわけだが。


 アルベールに気持ちを伝えた手前、ベルクール公爵夫人に嫌われるかもしれないと思うとかなり怖いのだけれど。かと言って好かれるような行動を取るというのは、男性を遠ざける為、あまり社交を行っていなかったカミーユにとっては、想像以上に難易度の高い話のような気がした。




「カミーユ、大丈夫だ。私が傍にいるから」




 少しだけ躊躇うようにアルベールが差し出してきた手に、先程よりも少しだけ自然に手を重ねた。そのままエスコートを受けながら馬車を降りようとしたカミーユの耳に、アルベールがそう呟く。驚いて顔を上げれば、彼は穏やかな表情で微笑んでいて。その姿を心強く思いながら、カミーユもまた笑みを浮かべて、頷いた。




「ありがとうございます。アルベール様」




 ベルクール公爵邸の屋敷の目の前で馬車を降りたカミーユは、まずその建物の荘厳さに唖然としてしまった。


 白亜の宮殿、というのが相応しいだろうか。磨き上げられた石の壁は陽の光にきらきらと輝いており、見渡す限り少しのくすみも見当たらない。その大きさもまた圧巻で、カミーユの住んでいるエルヴィユ子爵家の何倍になるのだろうかというほど。端まで見えないので、正解は想像すらも出来なかった。


 もともとベルクール公爵邸が、他の貴族の屋敷と比べても素晴らしいというのは聞いたことがあったけれど。それほど交流があったわけでもないため、前の道を通ることはあっても、ここまで近づいたことがないのである。

 敷地が広く前の道からは距離が有り、美しい庭の木々に視界を遮られていることから、敷地外から屋敷の全容を目にする機会はないに等しいのだ。




「何代か前の当主に嫁いだ王女が、このような巨大な屋敷に建て替えたそうだ。その前の年に起きた戦争で、ベルクール騎士団が成果を挙げたため、労う意味もあって屋敷内の一角が騎士たちの宿舎となっている。ベルクール公爵家は騎士の家門。度を越した芸術趣味の方だったらしいが、騎士たちのためになるならばと、当主たちも特に反対しなかったため、このような様子になったらしい」




 隣を歩くアルベールが解説してくれるのを、なるほどと頷きながら聞く。確かに、同じ騎士の家門として、成果を挙げた騎士たちへの労いというのは理解できるのだが。そのあまりの規模の違いに、呆然とした心地になるのは仕方がない事だと思った。


 だからこそ、アルベールが何でもないような顔で、「いずれはカミーユもここに住むことになる。そのうち慣れるだろう」と微笑みかけて来たのには、何と返して良いか分かるはずもなく。ただ曖昧に笑うしかなかった。


 今更ながら、彼に想いを伝えて本当に良かったのだろうかなんて、少しだけ思ってしまったのは秘密である。


 ティーパーティは、建物の裏手にある庭で行われるらしく、アルベールのエスコートに従って歩いて行く。当たり前だが、この屋敷で生まれ育ったアルベールが迷うことなどあるはずもなく。何の躊躇いもなくその廊下を進んで行った。




 ……? まただわ。私、何かしてしまったかしら……?




 屋敷の中を歩いている途中、カミーユはそう思い、何度も首を傾げていた。先程から、時折、仕事をする使用人たちと擦れ違うのだけど。彼らは一様にアルベールを見た後、カミーユの方へと視線を向けて、何故かその目をきらきらと輝かせた後で、深々と礼の形を取るのである。それも、出会う人、出会う人、全てなのだ。


 どうしたのだろうかと思うけれど、それを本人に聞くわけにもいかず、アルベールの方を見上げれば、彼はただ微笑むばかりで。一先ずカミーユも軽く会釈を返しながら、先を急ぐことにしたのだった。


 最初に見た時にも思った通り、あまりにも広い屋敷であるため、庭へ出るまでに随分と時間がかかってしまった。開け放たれた扉をくぐり、晴れやかな日差しの下に出ると同時に、楽しそうな女性たちの笑い声が聞こえてきて、少し驚いた。一人や二人ではなく、かなり大勢の人たちの声だったものだから。


 もしかして、と思ったのだ。




「……私、時間を間違えてしまったかしら……?」




 もしそうだったならば、あまりにも失礼な話である。遅れるつもりなどなかったのにと内心で蒼褪めながら、カミーユはアルベールと二人、賑やかなティーパーティの会場へと足を進めた。


 最初に気付いたのは誰だっただろうか。もっとも、そのほとんどがカミーユではなく、アルベールの姿に驚きの表情を見せる者ばかりであったが。




「まあ、英雄閣下がおいでよ。珍しいわね」




「隣の令嬢は誰かしら……? まさか噂の、ミュレル伯爵の想い人とかいう方……?」




「お二人の衣装をご覧になって。あれって閣下の贈り物でしょう? わたくしには、ご令嬢の髪の色と目の色に見えるわ」




 興味津々、といった様子の視線が一気に突き刺さり、先を急ぐ足が止まる。ひそひそと交わされる会話は、ただ面白味を求めるようなものが多かったけれど。


 中には確かに、棘を含んだ言葉も存在していた。




「まあ、公爵夫人のティーパーティに招かれておきながら、遅れて現れるなんて。もう公爵家の一員になった気でいるのかしら」




「婚約を解消してすぐに、ミュレル伯爵から声をかけてもらったのでしょう? 人の同情を惹くのだけは上手なのでしょうね」




 ひっそりと、しかし確実に耳に届く大きさの声で囁かれる言葉。あまりの刺々しさに、もしかしたら、自分の娘をアルベールの妻にと考えていた人たちかもしれないと容易に想像できた。アルベールに求婚されたあの日から、社交界には顔を出していないため、このようなこともあるだろうと理解していたけれど。




 思惑が外れて鬱憤も溜まってしまっていることだろうし、騎士家門の娘として、淑女の不満はちゃんと聞いてあげないと。




 騎士の家門であるエルヴィユ子爵家では、騎士たちに淑女への対応も事細かく教えている。仕えるべきは主君であるという考えと同時に、淑女は守るべきという思想であるためだ。


 そういった教えが根底にある家で、騎士たちと共に育ったカミーユにとって、女性というのは何よりもまず守るべき者であった。その不満や不服もまた、自分に出来る事ならば解消すべきなのである。もちろん、あまりにも不当なものであったり、命に関わるようなことならば話は違うが。


 それが、自分に言葉で不満をぶつけて解消されるならば安い物だ。自然にそう思い、カミーユは何も言わずに、言葉を発した女性たちに真っ直ぐに視線を向けた。動揺することなく、むしろ気合を入れて、何を言われても大丈夫だから、いくらでも不満をぶつけてくれと、そう伝わるように。


 もっとも、女性たちはカミーユの視線に何故か驚いたような顔を見せると、さっとその顔を逸らしていたが。

 何故だろうかと首を傾げるカミーユは、一部始終を見ていたアルベールが笑いを堪えきれずに肩を震わせていることに気付かなかった。




「んんっ。……カミーユ、こっちだ」




 不自然に喉を鳴らした後、アルベールがそう声をかけてきた。不思議に思うも、彼が向かおうとする先にいる人物の姿を見て、気を引き締める。そこには立食形式のティーパーティの会場の中、一際周囲に人を集める、品の良い一人の女性の姿があった。


 アルベールの母であり、このティーパーティの主催者である、ベルクール公爵夫人である。


 日の光を受けてきらきらと輝く金色の髪を結い上げ、深い色合いの翡翠の瞳をこちらに向けた女性は、その冷たく美しい容貌に何の感情も浮かべることなく、カミーユを見ていた。声もなく、真っ直ぐに。


 まるで一枚の絵画のようなその姿に、カミーユは思わず見惚れてしまった。それほどまでに、美しい人だった。


 アルベールのエスコートに従って、客人たちの間を抜け、ベルクール公爵夫人の傍で立ち止まる。立場が下であるため、自ら声をかける事は出来ず、アルベールが「母上」と彼女に声をかけるのを聞いていた。




「こちら、エルヴィユ子爵家の、カミーユ・カルリエ令嬢です。お会いしたがっていたでしょう。カミーユ、私の母、ロクサーヌ・ブランだ」




「初めまして、ベルクール公爵夫人。カミーユ・カルリエと申します」




 アルベールの紹介を受けて、カミーユはその場で腰を落として礼の形を取る。「顔を上げると良い」というロクサーヌの声に、ゆっくりと姿勢を戻した。


 再び顔を合わせたロクサーヌは、表情が乏しいながら、その目許が柔らかく弧を描いていた。




「初めまして、カミーユさん。今日は来てくれてありがとう。私の息子が迷惑をかけていないだろうか。毎日君の元へ足を運んでいるのだろう? 騎士のくせにあまり女性と言葉を交わしたがらないものだから、加減というものを知らなくて……」




 ロクサーヌが申し訳なさそうに言い、カミーユの隣にいたアルベールを軽く睨む。「迷惑だなんて……」とカミーユが慌てて口を開くけれど。どうやら気を遣っているだけだと思われたらしく、ロクサーヌはやはり申し訳なさそうに「息子がすまないな」と呟いている。


 当のアルベールはといえば、ロクサーヌによく似た美貌をやはりよく似た無表情で飾ったまま、「ご心配なく、母上」と返していた。




「迷惑と思われるほど長居はしておりませんゆえ。女性たちと言葉を交わしていないのは事実ですが、加減はしているつもりです。まだ屋敷にカミーユを連れて帰っていないのですから」




 さらり、と言われて、カミーユは数度瞬きをする。それは一体どういう意味なのか。

 思わず首を傾げたカミーユに対し、その言葉の意味を的確に理解したらしいロクサーヌが、無表情のまま呆れたように頭を抱えた。「お前は、本当に……」と呟く彼女の声が震えていたので、このまま二人で会話をさせていては良くないのではないかと思い至る。


 「あの……」と、カミーユはおそるおそる、口を開いた。




「先日のオペラハウスの公演チケット、本当にありがとうございました。とても素敵な公演を見ることが出来て、幸せでした……!」




 今でも、鮮明に思い浮かべることの出来る素敵な公演と、その後の劇場からの配慮。これ以上ない程素晴らしい時間を与えて貰えたことが、どれほど嬉しかったか。


 二人の会話に割り込むのが目的であったが、それはそれとして心の底からの感謝の気持ちを伝えたかったのもまた本当であったため、カミーユはそう言って深々と礼の形を取った。手紙ではすでに伝えていたのだが、どうしても直接お礼を伝えたかったのだ。


 急に声を上げたカミーユに、ロクサーヌは少し驚いたように目を瞠った後、僅かに微笑んだ。「そんなに喜んでもらえたならば、良かった」と言いながら。




「そこの息子がもっと早く言えば、何枚でもチケットを贈ってあげられたのだが。……良ければ、今度は私と見に行かないか? 次の公演も中々面白そうなものだから……」




 どこか嬉しそうに提案してくるロクサーヌに、もちろんだと応じようとするけれど。傍に立っていたアルベールがすっとその腕をカミーユの前に出す。まるで庇うかのように。


 どうしてそのようなことをするのだろうと思い、見上げれば、アルベールは心の底から不服そうにその眉根を寄せてロクサーヌを見ていた。




「なぜ、カミーユが母上とオペラハウスに行くのです。そこは私にチケットを譲って、二人で行ってこいと言うところでしょう。息子の恋路が心配ではないのですか」




「……逆に、なぜ心配すると思った。さっさと婚約を解消してもらって、求婚して来いとあれほど言ったのに、今更運よくカミーユさんが婚約を解消したからと浮かれおって。本当に情けない息子だ。お前と観劇するよりも私の方がカミーユさんと趣味も合うだろうさ。……というか、母親にさえそんな態度とは、心が狭すぎんかお前は」




 アルベールの言葉に、鼻で嗤うようにしてロクサーヌは返す。どうやら性格も公爵ではなく夫人に似ているのだなと、そんなどうでも良いことを考えてしまった。




 ……現実逃避している場合ではないわ。何か話を逸らす話題は……。




 険悪、というよりはどこかロクサーヌがアルベールで遊んでいるような雰囲気ではあったが。周囲の客人たちがおろおろと互いに顔を見合わせているため、このままにしておくというわけにもいかず。再び二人の会話に割り込む話題はないかとカミーユは頭を巡らせる。


 はっと、思った。




「公爵夫人。今更になってしまいますが、このような素敵な会にお誘い頂いておきながら、遅くなってしまって申し訳ありません。開始時間を勘違いしてしまったようで……」




 そういえば謝罪がまだだったと思い、慌ててそう口にする。アルベールがエスコートしてくれたとはいえ、さすがに礼を失した行いであった。


 ロクサーヌは静かにカミーユの言葉を聞いていたけれど、こてんと、その首を傾げた。「何を言っている?」と、不思議そうに言いながら。




「君は時間通りに、いや、時間よりも早くここに着いている。元々、ティーパーティの開始よりも遅い時刻に招待したんだ。君のことを、皆に紹介したくてね。……だから、彼女は決して遅刻などではないよ」




 そう言って、ロクサーヌは視線をどこかへと向けた。つられてそれを追えば、先程カミーユに苦言を呈していた夫人たちの姿がある。彼女たちはロクサーヌの視線を受け、その肩を震わせて身を縮こまらせていた。


 ロクサーヌはなおも、言葉を続けた。




「それにしても、途中でアルベールが早馬を送って来たから、君を遅くに招待していて都合が良かった。……アルベールの求婚を、受けてくれたんだろう?」




 にっこりと、ここに来て初めて見たロクサーヌの笑顔は本当に晴れやかで。早馬なんていつの間に送ったのだろうか。そう思いながらも、カミーユは僅かにはにかみながら、素直に「はい」と言って頷いた。


 見上げれば、アルベールもまたいつも通り、柔らかい表情で微笑んでいる。

 そんな二人を見るロクサーヌもまた、満足そうに笑った。




「うむ。やはり丁度良かった。では、こちらへおいで。皆に紹介しなければ。……私の新しい娘が、こんなに愛らしい子でとても嬉しいよ」



 そう言って、ロクサーヌはまるで騎士のように手を差し出してくる。それを払うような素振りを見せるアルベールの様子にまた少し驚いたけれど、二人は特に気にした様子もなくて。


 思わず笑ってしまいながら、カミーユはロクサーヌに導かれて、ティーパーティに招かれた人々の間に立った。




「紹介しよう。息子、アルベールの婚約者、エルヴィユ子爵家の、カミーユ・カルリエ嬢だ」

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