第12話 自分自身の気持ち。
クラルティ伯爵家の次男であり、エレーヌの婚約者であるジョエルを招いての晩餐は、いつも通り和やかな雰囲気の中で進んだ。
エレーヌと結婚し、エルヴィユ子爵の位を受け継ぐジョエルは、本人こそ騎士ではなかったが、軍馬の育成を生業としたクラルティ家で育ったため、軍馬を自らの手足のように使う騎士たちについても詳しい。
そのため、子爵位を譲られた後は、バスチアンがエルヴィユ騎士団の騎士たちに直接指導を。ジョエルは、クラルティ家との繋がりを利用し、騎士たちの待遇やその配置などの管理を行うことになっていた。
晩餐の席では、主にバスチアンが、そんな将来の展望について話す機会が多い。バスチアンもジョエルのことを気に入っているため、彼が自分の後を継ぐことが、今からでも嬉しいようだった。
「……そういえば、今日はお見えにならないのですね。ミュレル伯爵閣下は」
晩餐も、残すところ最後のデザートのみとなった頃、おそるおそるというようにジョエルがそう口を開いた。どうやら、アルベールがこの晩餐に現れるものだと思っていたらしい。
訊ねられたバスチアンは、一瞬だけ何故かカミーユの方へと視線を投げた後、「ああ、残念だが」と応えた。
「急ぎの仕事が入ったらしい。今日の朝までは、晩餐に顔を出してくれる予定だったようだがね。……あの若さで、通常ならば考えられないほどの役職をいくつも抱えている方だ。そういうこともあるだろう」
「残念ではあるがね」と、バスチアンが続ければ、ジョエルもまたこくりと頷いた後、「僕などが考えるよりも余程、お忙しいのでしょうね」と呟いていた。
「実のところ、今日はこの場にいらっしゃるのだろうと思って、緊張していたんです。夜会などでは、言葉を交わす機会もありましたけれど、私的な交流など全くありませんからね。正直に言うと、少しほっとしています」
「まあ、先延ばしになっただけなのですけれどね」と言って、ジョエルは笑った。
そんなジョエルの様子に、カミーユは一人瞬きを繰り返す。ふと、思ったのだ。少し前の自分ならば、彼と同じように、アルベールと挨拶を交わすだけでも緊張していただろう、と。
もちろん、彼が男であるということも要因の一つではあるけれど。
それと同じくらい、意識のどこかに刷り込まれていたから。彼は、この国を救った英雄なのだ、と。
それが今では、傍にいない方が、少し、不思議な感じがするようになっている、なんて。
おかしなものだと、そんなことを思った。
「ねえ、ジョエル様。さっき英雄閣下がお姉さまを大事にされているって仰ってたけど、お姉さまに求婚される前からそうだったの?」
ふと、話に区切りがついたことを見計らうように、エレーヌが口を開いた。
隣に座るジョエルに彼女がそう訊ねれば、彼はエレーヌの方に振り返り、カミーユの方に視線を向けると、「そうだったね」と答える。「気付いたのはずっと前だけれど、確信したのは、僕たちの婚約を解消した、あの日かな」と、彼は続けた。
「カルリエ卿や夫人はご存じかもしれませんが、以前から私の家の夜会は、高位貴族の方々の参加希望者が多いのです。それこそ、招待状を売ってくれ、という方もいると聞いたことがあるくらいには」
言って、ジョエルは口直しに出された紅茶を口にする。「それも、三年前からの話です」と彼は呟いた。
ジョエルの言葉を聞いたバスチアンが、アナベルと顔を見合わせる。「ああ、噂で聞いたことがあるね」と、バスチアンは何かを思い出すように言った。
「流石に、娘が君と婚約関係にある私に、譲って欲しいと言ってくる者はいなかったけれどね。……『英雄が訪れる夜会』、だったかな」
ぽつり、とそうバスチアンは呟いた。
英雄が訪れる夜会。その言葉通り、英雄と呼ばれるアルベールが、顔を出す機会が多い夜会という意味であろう。
ジョエルはバスチアンの言葉に頷くと、微笑み、「その通りです」と応えた。
「私とカミーユ嬢が婚約を発表した頃からしばらくして、招待を断るどころか、自分も招待してくれないかと仰る方々が増えました。クラルティ伯爵家と直接面識がない家の方々も、どうにかして招待されようと、他の家の夜会で我先に挨拶に来る有様で。なぜそうなったのか、私も家族も気になっていたのですが、……案外、すぐに気が付いたんです」
「我が家の夜会には、ミュレル伯爵閣下が訪れることが多いことに」。
そう言い、ジョエルはくすりと笑った。
英雄と呼ばれる前から、彼は次期ベルクール公爵として社交界の中心人物だったけれど、そういった煌びやかな場には、あまり顔を出さないことでも有名であった。
そんな彼が、毎回とは言わないまでも、数回に一度は顔を出すのである。そのたった数回であったとしても、彼と顔を合わせ、言葉を交わしたい者からすれば、滅多にない機会なのだ。
戦後、彼は英雄として帰還したわけだが、その後もそれは変わらなかった。社交界に顔を出さないことも、それなのにクラルティ伯爵家の夜会には顔を出すことも。
……言われてみれば、確かに、私がアルベール様にご挨拶するのはいつも、ジョエル様のパートナーとして参加していた、クラルティ伯爵家の夜会ばかりだったわね。
夜会と言えば、どこにいようと周囲にたくさんの男性たちがいるわけで。常に気を張って参加していたカミーユは、アルベールがいつもどの夜会に参加していたのかなんて、知る由もなかったのだった。
「問題はなぜ我が家の夜会に、ということですが、特に理由が見当たらなくて。何かの取引を持ち掛けられるということでもなかったですしね」
貴族が別の家門の社交場へと顔を出す主な理由は、自らの家に利のある取引のためか、またはその家に年頃の令息、令嬢がいた場合は、婚姻を望んでいるためか。
しかし取引の件はジョエルの言葉の通りであり、婚姻と言っても、クラルティ伯爵家は男のみの二人兄弟である。
親族の令嬢に、と思うこともなくはないが、ジョエルの兄はすでに結婚しているし、ジョエル自身も婚約者がいるとなれば、その可能性もほとんどないようなものだった。
「だからなぜなのか、本当に分からなかったんですけどね」と、ジョエルは続けた。
「いつだったかな。……ああ、あの日だ。それこそ、ミュレル伯爵閣下の功績を称える、王宮のパーティでした。あの日も、僕はカミーユ嬢と共にパーティに参加していて。そして、戦争を終えて帰還されてから初めて、英雄閣下に挨拶をしたんです。二人で。……その時に、気付いたんです」
自分や、他の貴族たち、令嬢たちに向ける物とは違う、藍色の視線に。
「何て言えば良いのかな。一言で言うならば、……とても強い感情がこもっている気がした。ほっとしたような、嬉しいような、それでいて苦しくて切実な。一瞬の事だったから、間近で見た僕でも勘違いだろうかと思ったんですけどね」
「……彼がカミーユに求婚してきたことで、確信した、ということかな?」
言葉を補うようにバスチアンが言えば、ジョエルが静かにその首を縦に振った。「その通りです」と言いながら。
「ずっと、カミーユ嬢の事が好きだったんだろうなって。もしかしたら、僕との婚約が発表されるよりも前から好きだったのかもしれない。横取りされたと思われていたのかもしれない。……そう考えると、私的に会うのが少し怖いんですよね」
「何と仰られるのか分からなくて……」と言って、ジョエルはその穏やかな風貌に苦笑を滲ませた。
それに対して、ふふ、と微笑を零したアナベルが、「まあ、そんなこと心配しなくても大丈夫よ」と呟く。「あの方は、そんなに器の小さな方ではないわ」と。
「それにしても、想いを伝えることも出来ない相手に挨拶するためだけに、夜会に通っていたということでしょう? とても切ない話だわ。位は違っていても、ベルクール公爵家も、確かに騎士の家系なのね」
アナベルはそう、静かに続けた。
執着と紙一重の一途さ。自分の感情よりも相手の願いを優先させる姿勢。下位貴族であろうと、最高位貴族であろうと、ただ自らが望み、求め、慕う相手にのみ従う、騎士の本質は変わらないらしかった。
「まるで物語みたいだわ! お姫様と騎士様の、身分違いの恋……! でも、何よりそんな人にそこまで愛されてるお姉さまがすごいわ! だってジョエル様との婚約を発表する前から、アルベール様に慕われていたということでしょう?」
「いつの間にあの方とお会いしていたの?」と、エレーヌは無邪気に問いかけてくる。きらきらとしたその視線に、カミーユは僅かにたじろいだ後、「それが、よく分からないの」と、正直に告げた。
「アルベール様は、それこそ私とジョエル様の婚約が発表される前に会ったことがあると仰ったのだけど。……私は、そんな記憶が全くないの。あんなに綺麗な方とお会いしたことがあったら、そう簡単に忘れられないと思うのに……」
「だから、誰かと勘違いしているんじゃないかと思うの……」と、カミーユはぽつりと零した。
言って、また自覚する。もし彼が勘違いをしていて、自分を他の誰かと思い込んで求婚しているのだとしたら。こんなに親切にしてくれているのだとしたら。
いつかきっとそれに気付いて、アルベールは自分の元から去って行くのだろう、と。
以前ならば、そうならないためにも、早く身を引けるようにと考えていたけれど。今では。
俯いたカミーユに、「だからなのか?」と口を開いたのは、バスチアンだった。父はとても驚いた表情でこちらを見ていて。一体何のことなのか分からないカミーユは、ただ首を傾げる事しか出来なかった。
「お前が、ブラン卿の求婚にまだ応じていないのは」
ぽつりと言われた言葉に、カミーユは驚く。アルベールとの婚約はまとまるものだと、あまりにも当然のようにバスチアンが呟いたものだから。
カミーユが断ることなど、まるで想像もしていないというように。
「いえ、それだけでは……」と、カミーユはおそるおそる口にする。それ以前にも、自分の男性恐怖症の件や、公爵夫人としての役割など、この婚約について考える事ならいくらでもあるのだから。
バスチアンもまた、カミーユの考えを何となく理解しているのだろう。「まあ、そうだろうな」と、彼は小さく微笑んで口を開いた。
「お前は心配しているようだが、ジョエル殿との婚約発表の前にお前がブラン卿と会い、言葉を交わしたのを、私やアナベルはしっかりと見ている。ブラン卿の勘違いなどではないから、その点は気にする必要はない」
「それに」と、バスチアンに変わるように今度はアナベルが言葉を続けた。
「色々と考えることはあるでしょうけれど、彼に限って、あなたに貴族のしきたりのようなことを強要することはないから、あまり気にする必要はないわ。ブラン卿は、本気であなたを愛し、護りたいと願うからこそ、この婚約を申し込んできたの。それを、お父さまも私も、しっかりと理解しているわ。……だからあなたは、あなた自身の気持ちで選んで」
「あなた自身の未来だもの」と、アナベルはその美しい容貌に優しく笑みを載せた。何一つ無理強いする意志のない、無垢な笑み。
カミーユはそんな母の笑みに言葉を詰まらせ、それに同意するように頷く父と、妹の姿を目にして再び顔を俯かせる。
私の、私自身の気持ちは。
ふと、「ねえ、カミーユ嬢」と、ジョエルが口を開いた。
「教えておくね。僕はね、初めて見たんだ。ある程度、高位の貴族ならば絶対に出席しなければならないような社交の場であっても、決して何かに興味を向けたことがない彼が、あれだけ真っ直ぐに誰かを見つめるのを。真っ直ぐに想いを伝えるのを。……同じ男として、もっと色々なことを抜きにして、考えてあげて。ブラン卿の想いに、応えるかどうか」
「君の気持ちだけがきっと、彼の全てだから」。
穏やかに微笑むジョエルの言葉に、カミーユは何度も瞬きを繰り返して、視線を落とす。
傍にいることが当たり前になっていて。いないことが不自然で、それどころか少し、淋しいとさえ思っていて。
彼がいれば絶対に、大丈夫だと思っていて。
まだ、彼の想いから比べればずっと、拙いものかもしれないけれど、でも。
自分は。
……きっと、そんなこと、分かり切っていたの。私は。
銀色の髪に覆われた美しい容貌と、一際輝く藍色の瞳を思い浮かべる。
その先はきっと、誰よりも先に、彼へと伝えたい。
膝の上で組んだ両手をきゅっと握りながら、カミーユは静かに、そう思った。
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