第11話 騒動の顛末。

 頭を過ぎった、消えることのない記憶。背筋を這う、恐怖の感覚。

 自分の意志とは無関係に、竦み、凍える身体を自らの腕で抱きしめることしか出来なくて。




『カミーユ……!』




 まるで、暗闇に落ちていくかのように気が遠くなる中、聞こえてきたのは、驚いたような、焦ったような声で。

 少しずつ、意識が戻って来た。




 ……『  』?




 口の中だけで呟いた名前。同時に、視界に入ったその姿。

 銀色の髪に藍色の瞳を持つその青年が、自分の脳内に思い描いた人物ではないと、そう分かっても。

 ほっと、していた。


 思い描いた人物ではなかったとしても。

 彼ならば、彼が来てくれたならば大丈夫だと、そう思えたから。


 アルベールと二人、オペラハウスへと足を運んだあの日から、すでに三日が経っていた。

 『ティーパーティーの時に着て欲しい』と言って、今朝方、いつものようにエルヴィユ子爵家を訪れた、アルベールから受け取った大きな箱には、淡い茶色を基調にしたドレスが。小さな箱には、小ぶりな赤い宝石がついたネックレスが入っていた。


 昼間のパーティに相応しい、あっさりとして落ち着いた、それでいて品のあるデザインに、カミーユは素直に喜んでいた。同時に、そのドレスの手触りと言い、宝石の輝きと言い、明らかに高価な物をプレゼントされたことに、恐縮でもあったけれど。


 私室のベッドに座り、「素敵なドレス」と言って素直に喜ぶカミーユに対して、その姿を椅子に腰掛けて眺めていた妹、エレーヌは、意外そうな顔でこちらを見ていた。「もっと違う色のドレスが入っているのかと思ったわ」と言いながら。




「お姉さまの髪や瞳の色と合わせたドレスなのね。とっても素敵だけれど、アルベール様のことだから銀色や藍色を基調にしたドレスやネックレスだとばかり思っていたわ」




 不思議そうに言う彼女の言葉に、カミーユは少しだけ首を傾げて見せる。何故彼女がそのように思うのだろうかと思い、言葉の意味を考えて。


 ああ、そうかと一人納得した。銀色や藍色と言えば、アルベールの髪と瞳の色。自分の持っている色の衣装や装飾品を相手に贈るというのは、端的に言えばその相手が自分の恋人であると周囲に知らしめるための行為であった。


 だからこそ、カミーユは妹の思い違いに小さく笑う。「アルベール様が、銀や藍の物を贈ってくださることはないと思うわよ。エレーヌ」と言いながら。




「だって私たちは恋人でもなんでもないんだもの。仮にアルベール様が私に好意を持ってくださっていたとしても、一方的にそういった物を贈る方じゃないわ。とても優しくて、真面目で、誠実な方だもの」




 あの日だってそうだ。カミーユのことだけを考え、傍にいることを優先して、全てを後回しにして。シークレットルームに留まったまま、「後のことは気にしないでくれ」と優しい声音で言う彼に、カミーユはただ頷いていた。


 ただ護ってもらうだけの自分を情けなく思いながらも、無条件に護ってくれる彼の存在が、心の底から、嬉しかった。


 言えば、エレーヌは少しだけ変な顔をして、首を傾げる。「それは、お姉さまにだけだと思うけど」と、彼女は呟いた。




「少なくとも、私の見たアルベール様は、とっても、その……、厳しそうな方だわ。お姉さまと話している時以外は、あんまり笑ったりもしないし。……でも、お姉さまにとっては、頼りになる方なのでしょう? あの方を、思い出すくらいに」




 おそるおそるというように問われた言葉。カミーユは一度目を瞠った後、困ったように笑った。


 彼女に、あの日のことを話したのは自分だった。自分を護ってくれる、絶対の存在。そんな彼のことを、アルベールに重ねた。そのことを。




 エレーヌの言うとおりね。……あの時、私は確かに、アルベール様が傍にいてくれるならば大丈夫だと、そう思ったんだわ。あの方が私の傍にいてくれた時と、同じように。




 いつの間にか、すぐそこにいても怖いと思うことはなくなっていた。そこにいるのが、当たり前だと、そう思うようになっていた。それどころか。


 「そうね」と、カミーユは静かに微笑む。それは、疑いようのない感情。彼が男であるという事実以前に、アルベールという一人の人間に対する、信頼だった。




「アルベール様がいれば大丈夫だと、そう思えるの。とても素敵な方だと、そう思うわ。少し前の私からすれば、驚くべき変化ね」




 英雄閣下と呼ばれ、伯爵であり、次期公爵という立場にある、雲の上の人。夜会での挨拶くらいでしか言葉を交わしたこともなく、少し前までは、男性という、恐怖の対象の一人でしかなかったというのに。

 今では。


 「さあ、もうすぐお客様がおいでになる時間よ」とエレーヌの方を見遣りながら言って、カミーユは微笑みを浮かべる。


 口では当然だとでも言うように、エレーヌに説明したけれど。

 彼を表す色である、銀や藍の色に染まった衣装や装飾品が贈られなかったことを、ほんの少しだけ残念に思う自分がいることに、カミーユ自身、気付いていた。


 太陽が西へと姿を消し、辺りはすでに暗くなりつつある。

 夜の装いへと着替えたカミーユは、エレーヌと二人、玄関ホールへと足を運んだ。

 煌々と輝くシャンデリアの下、本日の客人はすでにそこに姿を見せていた。




「ジョエル様! ごきげんよう」




 カミーユの隣を歩いていたエレーヌは、その姿が目に入った途端、僅かに小走りになってそちらへと進んだ。嬉しそうなその姿に、カミーユもまた嬉しくなってしまう。

 「ごきげんよう、エレーヌ嬢」と、閉じられた玄関扉の前、彼女が向かった先にいた青年は柔らかく微笑んだ。


 カミーユの元婚約者であり、エレーヌの婚約者となったジョエルは、以前と変わらず、二週間に一度はエルヴィユ子爵家に顔を見せ、晩餐を共にすることになっていた。そして今回は、正式にカミーユとの婚約解消を発表してから、初めての晩餐である。


 婚約解消については、数か月も前からすでにエルヴィユ子爵家と、ジョエルのクラルティ伯爵家の間では決定していたことであったため、その頃からすでに彼は、エレーヌの婚約者として晩餐に参加していた。優しい彼は、それでも以前と変わらず、カミーユを妹のように思ってくれているようだった。


 ギャロワ王国には珍しい黒い髪と、蒼い瞳。穏やかな性格をそのまま表したような優しげな容貌は、相変わらず慈愛に満ちた笑みに彩られている。

 「カミーユ嬢も、ごきげんよう」と言って、ジョエルは軽くその頭を下げた。




「エレーヌ嬢の手紙で読んだよ。オペラハウスでの話。とても大変だったようだね」




 心配そうな顔で、彼はそう首を傾げて訊ねてくる。相変わらずだと思いながら、カミーユは僅かにその首を横に振った。「何もかも、私の不徳の致すところですわ」と応えながら。




「アルベール様がせっかくシークレットルームにご招待してくださったのに……。確かに、静止を振り切って部屋に押し入って来られるとは思いませんでしたが、近寄られただけで固まってしまうとは……。情けない話ですわ」




 あの時のことを思い出し、苦笑を交えながら言うカミーユに、ジョエルもまた首を横に振って見せる。「いや、君は何も悪くないよ」と言いながら。




「招かれたわけでもないのにシークレットルームに入って来るなんて、正気の沙汰じゃないからね。それがボックス席であったとしても、許された話じゃない。いくら中にいるのが王族ではないと分かっていたとはいえ、とんでもない話だ」




 信じられない、というように言う彼の顔には、珍しい怒りの感情が現れていた。傍らに立っていたエレーヌもまた、怒った顔でこくこくと頷いている。どうやら二人には、大変心配をかけてしまったらしかった。


 そんな二人の様子に申し訳なく思いながら、カミーユは「済んだことですから」と言ってまた苦く笑う。

 ジョエルはカミーユに顔を向けると、エレーヌと顔を見合わせ、困ったように笑って、「君は少し、優しすぎる」と呟いていた。




「君の男性恐怖症がなかったとしても、非常識なことをされたんだから、もっと怒って良いのに。……それにしても、閣下もさぞお怒りだったことだろうに、よく彼らの処分を軽くできたね。閣下は彼らを社交界から追放するつもりだったのに、君が止めたと聞いたけれど」




 続けられた言葉に、カミーユは思わずエレーヌの方を見遣る。まさかそこまで伝えていたとは、と。

 エレーヌは、カミーユの視線を受けて数度瞬きをした後、「結果としては、そういうことでしょう?」と呟いた。




「だって、次期公爵である英雄閣下が、『今後その人たちの参加している夜会などには一切参加せず、その人たちを招待した家と関わりを持つ気はない』って言い切ったんだもの。いくら伯爵家の人たちばかりだったって言っても、アルベール・ブラン様を排除してまで関わりたいとは誰も思わないわ。一番周囲への被害は少なくて、でも絶大な効果のある処分よね」




 「さすが英雄閣下だわ」と言うエレーヌに、カミーユもまたそれはその通りだと思った。この国には、どうにかしてアルベールと近付けないかと考えている貴族たちばかりだというのに、そのアルベールとの関わりを、伯爵家の子息子女との交流のためにむざむざ切ってしまう家など、一つも有りはしないのだから。


 その存在一つに、あまりにも絶大な権力を持つアルベールだからこそ、効力を発揮する処罰なのである。


 「私は、そのくらいの処分を受けても良いと思ったのに」と、エレーヌは少し残念そうに続けた。




「お姉さまは優しいから。ちょっとオペラハウスの人たちが気を遣ってくれたからって、処分を軽くなんて。……まあ、何となくそうなった理由も分からないでもないけれど」




 ぼそりと付け加えるエレーヌに、カミーユもまた苦笑する。傍から見ていたジョエルが不思議そうな顔をしていたので、カミーユは彼に説明するつもりで口を開いた。




「実はあの騒動の後、オペラハウスの方から謝罪されまして。絶対安全のはずのシークレットルームに押し入られたのは、自分たちの落ち度だと。お詫びとして、もう一度シークレットルームにご招待して頂いた上に、私の好きなオペラの演目の歌を、私のためだけに、主役を演じていた歌手の方が歌ってくださったのです。……騒動の事なんて忘れてしまいそうなほど、素敵な時間を過ごせました」




 今思い出しても、ほうと息が漏れる。シークレットルームを後にして、自分とアルベール以外誰もいないオペラハウスの客席に座り、美しい歌を聞かせてもらった。

 あの時の記憶は、すでにカミーユの宝物である。


 だから、というわけではないが、処分を公にして騒ぎを大きくし、オペラハウス側に迷惑がかかることに気が引けてしまったのである。

 そこで、アルベールにもう少し軽い処罰をお願いできないかと、おそるおそる声をかけたのだ。


 まさか承諾してくれるとは思わなかったが。


 ジョエルは、「なるほど、そういうことだったのか」と呟くと、納得したように頷いていた。




「あの英雄閣下を説得できるなんて、と最初は思ったけれどね。君がとても喜んでいたなら、そういう判断をされたのだろうね。あの方は、君のことをとても大切に思っておられるようだったから」




「……え?」





 苦笑交じりにジョエルに言われた言葉に、カミーユは首を傾げる。

 カミーユとアルベールが共にいる所をジョエルが目にしたのは、おそらくあの婚約解消の日が最初で最後だと思うのだけれど。


 考えていれば、それが顔に出ていたらしい。ジョエルはカミーユにくすりと微笑んで見せると、「君は気付いていなかったんだろうね」と呟いた。




「晩餐の時にでも、教えてあげるよ。……ほら、そろそろ晩餐の席に向かわないと。カルリエ卿が呼びに来ちゃうよ」




 続いたジョエルの言葉にはっとして、カミーユは彼を中へと案内する。思ったよりも、長話をしてしまった。父、バスチアンも、母、アナベルも、どうかしたのかと心配している事だろう。


 カミーユが、エレーヌをエスコートするジョエルを先導しながら、カミーユたち三人は、食堂へと向かって行った。

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