第五章 江戸川事件

 二〇〇六年一月九日月曜日、東京都江戸川区。東京二十三区最東端で、江戸川をはさんで千葉県と隣接するこの区の住宅地を巡回中だった葛西警察署所属のパトカーから警視庁通信指令センターに通報が入ったのは、午後十時頃の事だった。

『葛西21(葛西警察署所属パトカー21号車)より警視庁』

「警視庁、どうぞ」

『江戸川区××地区巡回中に、同地区の空き地にて女性が倒れているのを発見。対処するも死亡を確認した。遺体は激しい暴行を受けており、胸に刃物が突き刺さっている点から殺人の疑いあり。現在、現場保存中。至急、近隣の応援、及び捜1(捜査一課)と鑑識の出動を願いたし』

「警視庁、了解。江戸川区××地区の空き地にて女性の他殺遺体発見という事でよろしいか?」

『葛西21、その通りである』

「警視庁、了解。現場の詳しい位置を送られたし」

『葛西21、現場は江戸川区××地区マンション『オーシャン・ハイツ』3号棟正面入口より西へ一〇〇メートルほど行った場所にある空き地。道を挟んだ向かい側に『有限会社立石工業』という看板の工場あり』

「警視庁、了解」

 通信指令センターの担当官は即座に関係各所に連絡を取った。

「警視庁から各局、警視庁から各局。江戸川区××地区巡回中のPC(パトロールカー=パトカー)より女性の遺体発見の連絡あり。状況は現在調査中なるも、殺人の疑いがあるとの事。近隣巡回中のPC及び葛西警察署関係各局は現場に急行し、所定の捜査活動に移れ」

 続いてそのまま回線を捜査一課につなぐ。

「警視庁より捜1」

『捜1、どうぞ』

「江戸川区××にて女性の遺体発見の連絡あり。現在本庁待機中の捜査班を出せるか?」

『現在第三係が在庁中。すぐにでも出動可能』

「警視庁、了解。それでは、すぐに出動されたし。詳しい場所は追って通達する」

『捜1、了解』

 その数十分後、警視庁の建物から一台のパトカーが飛び出して現場に向かった。乗り込んでいるのは警視庁刑事部捜査一課第三係係長の斎藤孝二さいとうこうじ警部と、同主任の新庄勉しんじょうつとむ警部補の二人である。他の捜査員も各自現場に出発しているはずだった。

「まったく、息つく暇もありませんね」

 新庄が運転しながらそう言ってため息をつく。二人とも、つい最近まで別件の殺人事件を捜査しており、それがやっと解決して久しぶりに在庁勤務になった矢先の出来事だった。斎藤がそれに対して厳しい表情で答える。

「それが我々の仕事だ。それに……無線を聞いている限り、この一件はどうも大事になるかもしれないぞ」

 そんな事を言っているうちに、警察無線に次々と最新の情報が飛び込んでくる。

『警視庁から各局。先程の江戸川区女性遺体発見事案に関する続報。被害者は全身に暴行を受けた上に刃物で胸を刺されて絶命している模様。現場及び遺体の状況から、現在千葉県下で発生している連続女性殺害事案との関連も否定できないとの報告あり。現在、千葉県警に対する連絡及び確認作業を行っている。各員はその点を考慮の上で捜査に当たられたし』

 その情報に、新庄の表情も真剣になった。

「もしかして、あの『シリアルストーカー』ですか?」

「少なくとも日付は一致している。こっちも警戒していなかったわけじゃないが……ついに東京まで波及してきたかもしれないという事だ。気を引き締めていくぞ」

 それから三十分ほどして、斎藤たちの乗ったパトカーは現場となった江戸川区の空き地近くへと到着した。すでに現場は管轄する葛西署の捜査員たちでごった返しており、その周囲には野次馬も集まりつつある。斎藤たちは野次馬をかき分けて規制テープをくぐると、現場となった空地へと向かった。

「よう、来たな」

 警察の照明に照らされた空き地に入ると、先着していた警視庁刑事部鑑識課の圷守あくつまもる警部が出迎えた。すでに遺留品の調査などを済ませている様子であり、斎藤と新庄は素直に頭を下げた。

「ご苦労様です。それで、状況は?」

「財布の中に被害者の運転免許証と名刺があった。名前は森浜涼子もりはまりょうこ、二十六歳。この近くにある『東京ワンダーツアーズ』という旅行代理店の社員だ。所持品を確認したが金品等は盗まれていない。金目的の犯行じゃないな」

「死因は?」

「見ての通り、心臓をナイフで一突きにされた事による出血性ショック死だ。ほぼ即死だっただろう。ただし、その前に全身にかなりの暴行を受けている」

 圷はそう言いながら顔や足など露出している部分を指さした。確かに、その辺りにはどす黒いあざがくっきりと残っている。

「性的暴行はありますか?」

「ない。外傷的な暴行だけだ。それと、これを見ろ」

 圷が彼女の髪を指さす。その髪は、どう見てもまともではない風に乱雑に途中で切り取られてしまっていた。

「どう思う?」

「……千葉のシリアルストーカーの犯行に似ていますね」

「奴さん、ついに千葉じゃ足りなくなって、東京にまで進出したって事かね?」

 圷がそうおどけたように言うが、その目は全く笑っていない。本人もこれが深刻な事態である事は重々承知しているのだろう。

 と、そこへ別の刑事が駆け寄ってきた。

「警部、お疲れ様です」

 竹村竜たけむらりゅう警部補。斎藤が指揮する第三係所属の刑事の一人で、交通課の白バイ隊員出身という変わり種である。身長一八〇センチメートルを超える長身で、同じ警部補の新庄とは良きライバルであると同時に盟友でもあった。

「相変わらず早いな。またバイクか?」

「えぇ。俺は車よりそっちの方が似合っているもので」

 竹村はそう言って一瞬軽く微笑んだ後、すぐに真顔になって報告を行った。

「先着して一通り聞き込みをしてきました。残念ながら目撃者は皆無ですね。元々この辺は人通りが少ない場所みたいですし」

「そうか……圷さん、死亡推定時刻は?」

「解剖してみないとわからんが、おそらく午後八時から九時と言ったところだろう。検視官もおそらくそんな結論を出すはずだ」

 圷がさらりと答える。圷はこう見えて元某有名国立大学の医学部出身で、それでいながらなぜか警察官採用試験を受けてあっさり警察官になってしまったという異色の経歴の持ち主である。それだけに、検視官でなくても簡単な検視くらいならできるくらいの力量は持っており、むしろ検視官の方が圷の意見を尊重しているくらいであったりする。

「この辺は住宅街の死角です。空き地の前にある工場も午後六時で終業するみたいで、問題の時刻にこの辺を歩いている人間はほぼいなくなるとの事です。ただ、ここは駅への近道になっているみたいで、それを知っている会社員はたまに通る事もあるようですが……」

「どうやら、彼女はそうした人間の一人だったらしいな」

 竹村の報告に、斎藤はそう頷いた。

 と、そこで所轄署の刑事の一人が駆け寄ってくる。

「本庁の斎藤警部は?」

「私だが」

「千葉県警より本庁へ連絡が入っています。本件に関して聞きたい事があると。こちらへ通話を回してもよろしいですか?」

「おいでなすったな。さすがに千葉県警さんもこれがシリアルストーカーかもしれないと勘づいているんだろう」

 圷が呟き、斎藤は所轄署の刑事に小さく頷いた。所轄署の刑事は携帯電話で少し話していたが、やがてその携帯電話を斎藤に差し出した。

「警視庁捜査一課の斎藤です」

『千葉県警捜査一課の土井と申します。お忙しいところ申し訳ありませんが、実は我々の関与している事件と関連して少し聞きたい事がありまして連絡させて頂きました』

 相手の声は丁寧ながらもどこか緊迫していた。五件目の犯行になるかもしれないという事で向こうも必死なのだろう。そして、それは斎藤としても同じだった。

「シリアルストーカーの件ですか?」

『……それに答えるために、いくつか確認事項を申し上げますので、ひとまずそれを確認して頂けますか? 事態は一刻を争います』

「……いいでしょう。それで何を確認すれば?」

『発見された遺体ですが、全身に暴行を受けていますか?』

 土井からの質問に対し、斎藤も慎重に答える。

「受けています。ただし、性的暴行はありません」

『被害者の髪はどうなっていますか?』

「切り取られているようです」

『死因は心臓への刃物の一突きだそうですが、そのナイフの種類は判別できますか?』

「ちょっと待ってください」

 斎藤は圷に確認を獲る。圷の答えた商品名を述べると、向こうが一気にざわめいた。

『……ありがとうございます』

「それで、どうなんですか? この件はもしや……」

 それに対する土井の答えは簡単だった。

『結論から言えば……シリアルストーカーによる犯行の可能性が高いと思います。警察が公表していない髪の切断の事実や、犯行に使用したナイフの種類も同一です。悪質な模倣犯とは考えられません』

「やはりそうですか……」

 覚悟はしていたとはいえ、その結論を聞かされて斎藤の表情も重くなった。

『今、県警上層部が協議中ですが、おそらくそちらとの合同捜査本部が設置されると思います。また、それに先立ちこちらからも何人か捜査員をそちらに派遣したいのですが、その旨をご了承いただけますか』

「もちろんです。それでは、お待ちしています」

 電話を切ると、斎藤は思わず天を仰いだ。

 今、事件は新たな局面を迎えようとしていた。


 事件が東京に派生した事で、上層部の間の協議によって即座に千葉県警と警視庁との合同捜査が決定した。また、犯行現場が広域にわたっているという特殊性から、捜査本部が今までの木更津署から千葉市内にある千葉県警本部へと移設され、両県警の捜査員が続々と現地入りする事となった。

 これだけでも充分に異常な状況ではあったが、事態はこれだけでおさまらなかった。シリアルストーカーが千葉県外で殺人を犯した事に日本全国が衝撃を受ける中、全日本の警察の頂点に位置する警察庁から緊急記者会見を開くという通達が第五の事件発生の翌日……すなわち一月十日早朝に突然マスコミに入ったのである。警察担当の記者たちが戸惑いながらも記者会見会場に赴くと、その場に姿を見せたのは何と日本警察のトップ……警察庁長官の棚橋惣吉郎たなはしそうきちろうだった。棚橋はざわめくマスコミ関係者を尻目に正面に立つと、厳しい表情をしたまま淡々と話し始める。

「今回千葉県下で発生している女性連続殺人事件に関し、関係各所との協議の結果、警察庁としてある判断を下しましたので、その旨をマスコミに公開いたします」

 そんな前置きと共に、直後、棚橋が放った言葉にマスコミの誰もが震撼した。

「警察庁は協議の結果、本日付けをもって、本事件を二〇〇四年に124号に指定された『マブチモーター社長宅放火殺人事件』に引き続く、警察庁広域重要指定事件125号に指定する事を決定しました。なお、これに伴い本事件の捜査は関係した都道府県警すべてによる合同捜査に切り替えられ、また事件の推移如何によってはすべての都道府県警が管轄にかかわらず事件捜査に協力をする事となります」

 警察庁広域重要指定事件……一九六四年の西口章連続殺人事件を教訓に設定され、複数の都道府県を超える大事件に対して県警間の管轄を超えた捜査協力体制が実施されるという制度だ。制定された一九六四年から現在に至るまで過去二十四件の事件しか指定されておらず、その中には、死刑判決基準の元となった永山則夫連続射殺事件や、連続幼児誘拐でその悪名を残す宮崎勤事件といった重大事件。さらにはあのグリコ森永事件や赤報隊事件といった日本犯罪史にその名を残す未解決事件も含まれている。要するに日本の犯罪史を揺るがすような事件のオンパレードで、二〇〇四年に「マブチモーター社長宅放火殺人事件」という事件が約十年ぶりに指定されたばかりなのだが、棚橋長官は今回の「シリアルストーカー事件」をその警視庁広域重要指定事件に認定するのだという。

 それは、日本警察が総力をもって「シリアルストーカー事件」の解決に乗り出し、同時に「シリアルストーカー」が日本犯罪史にその名を残す大事件になった瞬間でもあった。


 警察庁長官による衝撃的な発表の半日後、千葉県警大会議室に設置された千葉県警・警視庁の合同捜査本部には、両陣営から派遣された二百人以上の刑事たちが集結していた。事件が広域手配事件に指定された事を受け、捜査本部その物の規模も大幅に拡大されている。捜査本部長は今までの千葉県警捜査一課長に代わって千葉県警本部長が自ら就任し、副本部長に千葉県警刑事部長と警視庁捜査一課長が合席するという前代未聞の体制であった。

 全員が緊張の面持ちで着席する中、いよいよ捜査会議が始まった。司会は千葉県警側から土井が続投し、その土井の指名で警視庁から派遣された斎藤が事件の報告を行っている。

「被害者は森浜涼子、二十六歳。海外向けの旅行代理店『東京ワンダーツアーズ』の社員。遺体発見は現場付近を巡回中の葛西署のパトカーによるものでした。現場となっていた空き地に不審なものが倒れているのをパトカーの警官が確認し、現場を視認した事で遺体の発見に至っています。遺体発見は二月八日午後十時頃。死亡推定時刻は同日午後八時から九時。すなわち、遺体発見は犯行のわずか一時間から二時間後だった事になります」

 続いて新庄が立ち上がった。

「えー、被害者の勤務先への聞き込みの結果、彼女は午後七時五十八分に会社を退社している事がタイムカードから判明しています。現場は被害者の勤務する会社から最寄り駅までの近道で、通常に歩けば徒歩十五分程度の道のりになります。会社から現場となった空地までは五分程度と言ったところでしょうか」

「被害者の関係者への聞き込みは?」

 これについては竹村が答えた。

「被害者は現在東京都葛飾区内に一人暮らし。実家は北海道で、両親もそこに住んでいます。近所付き合いは少なく、特定の恋人もいなかったようです。このため、関係者と呼べる人間が職場の人間しかおらず、しかもその職場の人間ともプライベートでの付き合いはほぼ皆無だったという事です」

 土井はその話を聞きながら厳しい表情を浮かべた。この様子では、被害者は何かあったとしても他人に相談するような性格ではなかったようである。となれば、仮に事前にストーカーの予兆があったとしても、それを一人で抱え込んでしまっていた可能性があるのだ。そうなってくると被害者から犯人の痕跡をたどる事が非常に難しくなってしまう。

 続いて中司が立ち上がった。

「本件がシリアルストーカーによる犯行だと判断された事を受け、急遽現場及び被害者の自宅近隣に対する問題の黒い車の聞き込みや防犯カメラのチェック等を実施しました。が、現在までこれといった成果は上がっていません。正直、今回の事件は証拠が非常に少なく、今まで以上に犯人を特定する事が難しい案件であると言わざるを得ません。はっきり言って、犯人の手際がかなり良くなっていると判断する他ないと思います。五件目の犯行で、犯人側も慣れてきたという事なのでしょう。それで隙が生まれればいいのですが、この犯人にそんな楽観論はないと考えた方がいいです」

 と、そこで、警視庁捜査一課長の橋本隆一はしもとりゅういち警視正が発言を求めた。ほとんどがキャリアで占められる警察の上級幹部職だが、警視庁の捜査一課長だけは必ずノンキャリアの現場畑の人間がやる慣習になっている。理由は、百戦錬磨の刑事たちをまとめるには自身がちゃんと捜査経験を持つ人間でしか務まらないとされているからだ。この橋本捜査一課長もかつては捜査一課の中でもとりわけ有能だった刑事の一人で、つい最近ノンキャリアながら異例の若さで警視正に昇格したと同時に本庁捜査一課長の座に史上最年少で就任した傑物でもあった。

 その橋本が、鋭い視線を捜査陣に浴びせかけながらゆっくりと発言していく。

「よし、今までの被害者の特徴をまとめてみよう。全員が黒い長髪の十代後半から二十代の若い女性であるという点。そして、いずれもその長髪を切り取られた上で心臓をナイフで刺されて殺害されている。被害者同士につながりがない事から、犯人は黒い長髪の若い女性全般に何か恨みを抱いていると見た方がいいだろう。その上で、だ。次の犠牲者を出さないために我々にはどのような手段が取れる?」

 その問いに対し、捜査本部を重苦しい沈黙が支配する。これに答えたのは土井だった。

「はっきり申し上げて、事件が他県に波及している以上、市民への警告や警察の警備体制の強化程度では犯行を阻止する事に対して限界があると言わざるを得ません。もはや、手段は一つ……次の犯行までに、何としても犯人を逮捕する事です。……正直に言って、非常に難しいと言わざるを得ませんが」

「難しいか」

「犯人の姿があまりにも見えないのです。ここまで派手な事をやっておいて犯人の外観すらわからないなんて……こんなケースは初めてです」

 土井の言葉に、千葉県警の刑事たちは項垂れる。今まで半年にわたって懸命の捜査を続けてきた千葉県警だが、相次ぐ敗北に色々な面で限界のようだった。

「……警視庁側の見解はどうだ?」

 千葉県警本部長が警視庁の捜査員たちに尋ねる。答えたのは斎藤だった。

「こちらは今しがた捜査を始めたばかりですが……我々の管轄する江戸川の事案は、先程の報告でもわかるように千葉で起こった他の四件以上に手掛かりが少なすぎます。正直、どこまでいけるかは未知数です」

「厳しいか……」

 何しろ相手は半年以上に渡って千葉県警の捜査網をかいくぐり続けながら殺人を繰り返し続けた『怪物』である。警察としてはこれ以上一人も犠牲者を出せないところまで追い詰められている。時間さえあれば粘り強く手がかりを集めて逮捕まで持っていく事は可能なのかもしれないが、リミットである一ヶ月以内に犯人を逮捕できる可能性が相当絶望的と言わざるを得ないのも事実なのだ。

 何とも言えない沈黙が捜査本部に重くのしかかった。しばらく、誰も発言できないままの状況が続く。状況は最悪といえるものだった。

 と、その時だった。不意に誰かが手を上げた。

「……課長、提案があります」

 それは警視庁の斎藤だった。橋本はそんな斎藤の方を見て発言を促す。

「何だ?」

「この事件、もはや警察の力だけでは限界になりつつあるというのは事実だと思います。しかし、我々に猶予はありません。次の犯行を許せば、事実上警察の敗北です。この際、手段は選んでいられません。いっその事『劇薬』を投入するのも手だと思います」

「何が言いたい?」

「……『あの人』を投入する、というのはどうでしょうか?」

 その言葉に、千葉県警の刑事たちは何の事だかわからず戸惑った表情をする。が、その一方で橋本の表情が真剣なものになった。

「もう、それしかないか? あいつを投入する……そんなところまで追い詰められているのか?」

「言った通り、現状では手段を選んでいられません。証拠も何もない現状で、次の犯行が発生するまでの短期間に犯人を逮捕する……そんな離れ業ができるのは、もはやあの人しかいないと思います」

「だが……」

 橋本は少し躊躇する。が、斎藤ははっきりこう言った。

「課長、こうなった以上、すべてを叩き壊すつもりで我々もこの怪物に挑むべきです。警察としてのプライドだの責任だのは後で考えればいい。確かなのは、『あの人』ならどんな形であれ確実に何らかの結果を出してくれるという事だけです」

「……それが君の判断か?」

「そうです」

 斎藤と橋本はしばらく睨み合っていたが、最後に折れたのは橋本だった。

「……あいつは今どうしている?」

「さっき確認したところ、残念ながら新年早々、仕事で海外に出かけているという事です。したがって今すぐに協力を仰ぐのは事実上不可能です」

「海外だと?」

 橋本は眉をひそめる。が、斎藤はこう続けた。

「ですが、話を聞くと一月下旬には帰国するという事らしいので、帰国後すぐに成田からそのまま本部に来てもらえれば、まだギリギリ間に合います。とにかく、あの人が帰国するまでに最低限の捜査をしておき、帰国と同時にすべてを託して一気呵成に事件を解決するしかありません」

 その言葉に、橋本は真剣な表情で考え込んだ。何とも言えない沈黙が捜査本部を包む。が、それからしばらくして、橋本は決然とした表情で告げた。

「……いいだろう。好きにしたまえ。こうなれば、我々としても手段を選んではいられない。とりあえず、あいつが帰ってくるまでにこっちも一通りの捜査は済ませておく。すべてはあいつの帰国後……一月下旬に賭けよう」

 橋本の言葉に、斎藤は大きく頷いた。わけがわからないのは千葉県警の面々である。

「一体何の話ですか? 『あの人』というのは?」

 土井のその問いに答えたのは斎藤だった。

「我々の切り札ですよ。文字通りの」

「切り札?」

「えぇ。『推理』という一点に関しては現在の日本では右に出る者がいない存在です。かつて警視庁捜査一課最強の捜査班のブレーンとして君臨した伝説の刑事で、諸事情で退職した後も私立探偵として数々の事件を解決してきた『真の探偵』の異名を持つ推理の天才……」

 そして、斎藤はこの事件を大きく動かす事となる一人の男の名をしっかりと告げた。

「『榊原恵一さかきばらけいいち』。それが我々の奴に対する切り札となる人物の名前です」

 それは、警視庁内部で伝説と称される『名探偵』と、日本犯罪史にその名を残す殺人鬼『シリアルストーカー』の対決の幕が開いた瞬間だった。

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