第四章 市原事件

 二〇〇五年十二月十二日月曜日。千葉県市原市。沿岸に大量の石油コンビナートが集まるこの街は日本有数の石油産業の街であり、化学工業に大きな割合を占める京葉工業地域の中核となる場所でもあった。

 その中の一つ、石油関連会社「コスモス石油」に勤務する高畑広明たかはたひろあきは、少し酒の入った状態で鼻歌を歌いながら自宅への帰路についていた。年齢三十歳。決して楽な生活ではないが、誠実な性格が功を奏し、念願かなってつい先月長年付き合っていた女性と結婚したばかりだった。職場の仲間たちからの手荒い祝福を受け、今までためていた貯金をはたいた新婚旅行は彼にとって生涯忘れられない思い出となった。人生三十年にして、彼は幸せの絶頂にいたのである。

 午後九時頃。場所は沿岸部から少し入ったところにある住宅街。労働者向けのアパートが密集している地域であるが、そのアパートの一つに高畑の家はあった。より詳しく言うなら、「ブルーハイツ三号棟」二階の二〇一号室。そこが高畑の自宅である。高畑はほろ酔い気分で階段を上がると、鍵を取り出しながら自分の部屋の前に立ち……そこで動きが止まった。

「あれ?」

 目の前にあるドア。それが微妙ではあるが開いているようなのである。時間が時間だけに、高畑も少しおかしいとは思ったが、少し酔っていた事もあって単に閉め忘れただけだと判断してドアを開けた。

「おーい、伊奈子。帰ったぞぉ」

 そう言いながら高畑は部屋の中に入り……そこで一気に酔いがさめてしまった。

 部屋の中は滅茶苦茶だった。新婚ほやほやで新しい家具を入れたばかりであるにもかかわらず、部屋の中は乱雑に散らかされ、足の踏み場もない。高畑は一瞬、泥棒でも入ったのかと思った。

 が、直後に部屋の中央に転がっているものを見て、高畑の頭の中が真っ白になった。夕飯の準備の途中だったのか真新しいエプロンをつけたそれは、仰向けになりながら虚ろな視線を天井に向けている。そして、その真っ白いエプロンの胸に一本のナイフが突き刺さり、そこから真っ赤な血が流れ出て……

「い……」

 次の瞬間、高畑が絶叫した。

「伊奈子ぉぉぉっ!」

 高畑の最愛の妻……高畑伊奈子たかはたいなこは、部屋の中央で物言わぬ死体となって無念の形相を浮かべていた。


 通報は高畑の近隣の住民によってもたらされた。高畑の絶叫に驚いた隣人たちが部屋に駆けつけ、そこでの惨状を知って慌てて警察に電話したのである。それら住民の中には、早くもここの所話題になっている「シリアルストーカー」の犯行ではないかと疑う人間もいた。

 そして、それは駆けつけた所轄署の警官たちも同様だった。現場を一目見て、これは自分たちだけで対応できる事案ではないと即座に判断し、県警本部にその旨の連絡を入れたのである。事態を受け、即座に一連の事件の捜査本部が動き、通報から三十分後には捜査本部から駆け付けた刑事たちがこの市原市のアパートを埋め尽くす事になった。

 土井と中司も、遺体を目の前にして無念の表情を浮かべていた。

「四件目……これだけやっても防げなかったか……」

 ここに至っては、土井としてはこうコメントする他なかった。完全に犯人にいいようにあしらわれている。その事実が警察関係者の間に重くのしかかりつつあった。そんな二人の横で、所轄署である市原署の刑事が無表情に報告を行う。

「被害者はこの部屋の住民の高畑伊奈子、二十五歳。市原市立音舟小学校の非常勤講師。午後九時頃、旦那の高畑広明が帰宅した際に遺体を発見しました。結婚してまだ一ヶ月程度の新婚夫婦だったそうです」

「それは……きつい話だな」

 中司が呻くように言うと、その刑事は重苦しい顔で頷いた。

「きついどころの話ではありません。遺体を発見した旦那はほとんど錯乱状態で、まともに話を聞く事もできない状態です。今、近所の人たちが見ていますが……あれは回復するまでかなり時間がかかると思います」

 と、遺体を見ていた検視官が立ち上がった。

「死後二時間~三時間、と言ったところか。死亡推定時刻は今日の午後六時から七時の間とみて問題はないだろう。死因は今まで通り、心臓を一突きにされた事による刺殺。生前の暴行や死後に髪を切り取っているところも今までと一緒だ」

 そう言いながら検視官は遺体を指さす。遺体の髪は今までの三件同様、肩口辺りで強引に切り取られてしまっていた。

「にしても、今回は部屋が荒らされているな」

 中司が周囲を見ながら言う。同じくアパートの一室で行われた第一の事件に比べればかなり派手に荒らされている。

「被害者が相当抵抗したらしい。この格好を見る限り、料理の途中だったようだしな」

「だが、これだけ荒らされていたら隣の部屋の人間が気付きそうなものだが」

 これについては所轄の刑事が答えた。

「それですが、この部屋の隣である二〇二号室は空室になっていて、多少物音がしても問題はなかったと思われます。また、下の一〇一号室の住人はホステスで、事件当時不在だったことが確認されています」

「……さすがに犯人も切れる。その辺を考慮した上での犯行か」

 土井はそう言って一瞬目を閉じると、すぐに中司に指示を出した。

「近隣住民への聞き込みを頼む。特にここ数日、問題の黒い車が目撃されていないかどうか、もしくは怪しい人間が目撃されていないかだ。例の盗難ナンバーの確認も忘れずにやってくれ」

「すでに何人かが回っている。だが……正直、微妙かもしれないぞ。この辺は沿岸の石油会社に勤務する労働者が多い。それだけに日中は仕事に出ている人間ばかりで、その間この周辺はほぼ無人になる。日本有数の石油工業都市・市原の特性を突かれた形だ」

「……くそっ」

 土井は思わずそう吐き捨てていた。付け入るスキが全くない。この犯人は猟奇的ではあるが決して頭は悪くない。それを実感させるような犯行だった。捜査員の空気が重くなる。

 と、そこで現場で作業中の鑑識の主任が立ち上がった。

「もっとも、そんな完璧な犯人でも、たまにはミスをするみたいだな」

「どういう事だ?」

 土井の問いに対し、鑑識は黙ってダイニングキッチンを指さした。そこには洗い場にいくつかの食器が放り込まれており、まな板の上には切りかけのキャベツが置かれている。

「さっきも言ったが、被害者は料理の途中で襲われたらしい。だとするなら、これは妙だ」

「何がだ?」

「キャベツは切りかけ。それにしては包丁がまな板の近くにないのは不自然だ」

 そう言うと、鑑識は洗い場に放り込まれた包丁を指さした。確かに、まだキャベツを切り終えていないのに包丁を洗い場に放り込んでしまうというのは不自然である。鑑識はその包丁を慎重に洗い場から出すと、そこに遠慮なくルミノール試薬を吹きかけた。

「この状況で包丁をこんなところに放り込むとなれば、可能性は一つ」

 そして、ブラックライトを当てる。その瞬間、包丁の側面が飛沫状に真っ青になった。

「これは……血痕」

「まぁ、包丁だから魚や肉を料理した時についたものかもしれないが、こいつは飛沫血痕だ。魚や肉の料理では包丁にこんな血の付き方はまずしない。となれば、こいつは人間の血と考えられるわけだが……もしこれが被害者の血なら、わざわざ洗い場で洗って隠す必要はあると思うか? しかも、そもそもこの包丁は被害者が事件当時握っていたはずの包丁だ」

「という事は……」

 中司が答えを言う前に、土井が正解を答えた。

「被害者が、包丁で犯人に抵抗した。その結果犯人がどこかに傷を負い……それを隠すために被害者の死後に包丁の血を洗い場で洗い流した」

「おそらくそうだろうな。もっとも、包丁は洗剤できれいに洗われているからルミノールならともかくDNAの検出は不可能だろう。ただ……犯人が傷を負ったとすれば、垂れた血痕のすべてを短時間で処理できたとは思えない」

 そう言って鑑識は部屋の中を睨みつけた。

「多分、この部屋のどこかに隠しきれなかった犯人の血痕が残っているはずだ。もしそれが見つかれば、犯人を追い詰める決定的な証拠になりうる」

 重くなっていた場の空気がにわかに緊張に包まれた。

「しかし、それならいっそ包丁を持ち去ればよかったんじゃないのか?」

「包丁がなくなっている事がわかれば、その瞬間に我々が犯人が怪我をしている可能性に突き当たると考えたんだろう。垂れた血痕のすべてを隠滅できないとなれば、包丁を洗って置いておき、少しでもその事実がばれない方にするのが得策だろう。犯人は我々警察の事をなめているわけじゃない。いずれにせよ、ここからが正念場だ」

 土井の言葉に、その場にいた鑑識職員は全員が力強く頷いたのだった。


 翌、十二月十三日火曜日早朝、ほぼ全員が徹夜での捜査となったが、捜査本部で緊急の捜査会議が開かれる事となった。いつもの通り中司が事件の概要を報告する。

「第四の被害者は高畑伊奈子、二十五歳です。勤務先は市原市立音舟小学校の非常勤講師で、聞き込みの結果、彼女は当日午後五時半頃に小学校を出ている事が判明しました。小学校から家までは徒歩で十五分程度。ただし、午後五時四十五分頃、彼女が近所のスーパーマーケットで夕食用の買い物をしている姿が防犯カメラにより記録されており、またその時発行されたレシートが部屋にあった彼女の財布の中から見つかっています。それらを総合すると、少なくとも六時頃に被害者は帰宅をした事になると思われます」

「その防犯カメラに怪しい人影は?」

「残念ながら映っていませんでした。午後九時頃、夫でコスモス石油勤務の高畑広明が帰宅した事際に彼女の遺体を発見。彼の叫びに気付いた近隣住民の通報で事件が発覚しました。この夫婦は一ヶ月前に入籍したばかりで、非常に仲のいいおしどり夫婦だったという事です」

「だが、そんな関係でも疑わなければならないのが我々の仕事だ。その夫のアリバイは?」

「本人は精神的ショックが大きすぎて未だに話を聞けない状況ですが、その後の聞き込みで何とかアリバイが確定しました。検視官によれば、死亡推定時刻は帰宅した午後六時から午後七時までの一時間。その時刻、彼は勤務先の上司及び同僚数名と会社近くの居酒屋で飲んでいたという事が確認されています。これはその際同席した上司や同僚、さらに居酒屋の店員などの証言から確かなものです」

 というより、と中司は続けた。

「本人はその事を激しく後悔しているようです。自分が呑気に酒を飲んでいた時に、愛する妻が惨殺されていたという事を」

「……どれくらいで話を聞けそうだ?」

「現在病院に入院していますが、医者の話では精神がかなり不安定でいつになるかわからないと」

「そうか……」

 そう言うと、一課長は続いて検視官に所見を促した。

「えー、死亡推定時刻に関しては先程中司警部補からあったように午後六時から午後七時の間とみて問題ないでしょう。死因は今までと同じく、胸部をナイフで刺された事による出血性ショック死。全身に暴行を受けている点、髪を切り取られている点も同様ですが……今回は被害者もかなり抵抗した様子です」

「というと?」

「被害者の体にかなりの防御創が見られました。実際、これまでの犯行では殺害直前に首を絞めるなどして失神させてからの犯行が特徴でしたが、今回はそれがありません。失神させる事なく、直接相手の胸を刺しています」

 その報告に刑事たちがざわめく。

「今回ばかりは犯人も必死か?」

「間違いないと思います。犯人は部屋に侵入後、料理中の被害者と格闘。暴行こそ加えられたものの失神させるには至らず、乱闘の末に最後にナイフで心臓を刺した、と言ったところでしょうか。実際、現場は今までの中で一番荒れていました」

「犯人の手掛かりは?」

 これには鑑識が立ち上がった。

「現場をくまなく探した結果、被害者や発見者である被害者の夫以外の第三者の物と思しき血痕が床の隙間から発見されました。おそらく、犯人の血痕かと思われます」

「血痕が見つかったのか」

 まさに鑑識の執念だった。

「現場の流し場にあった包丁を調べた結果、人の血液と思しきルミノール反応を検出。料理中にもかかわらず包丁が流し台にあった事から、被害者がこの包丁を使って抵抗し、それで犯人に傷を負わせた後で殺害。その後、犯人がこの事実を隠蔽するために包丁を洗って流し場に放り込んだと推察します。つまり、この犯行で犯人側も手傷を負っているという事です。さすがに犯人も流れた自身の血を徹底的に隠滅しており、荒れた室内のあちこちから血を拭いた際に使用したと思しき洗剤が検出されています。が、床と床の隙間に残っていたわずかな血痕までは隠滅しきれなかったようです」

「血痕の鑑定は?」

「何分、量が少ないのでDNA鑑定は一回限りが限度です。明確な容疑者がわかるまで、ひとまずそちらの鑑定はストップさせています。ただ、血液型はO型です。ちなみに被害者はA型、被害者の夫はB型で、両者の血液とは明らかに違います」

「それだけでも充分な収穫だ。今までの関係者の中にO型の人間はいるか?」

 その問いは中司が答えた。

「今までの事件関係者の中でO型の人間は、被害者を含めても四人だけです。第一の事件の被害者である井浦鮎奈、第二の事件の被害者の恋人だったという真下健二、第三の事件の発見者である自衛官の大北実治、そして同じく第三の事件の被害者の親友だった八木原美珠。以上です」

「一応聞くが、この四人の中の誰かが『シリアルストーカー』だという可能性は?」

 これには土井が答える。

「まず、最初の被害者である井浦鮎奈は論外でしょう。次に、シリアルストーカーは車の運転をしていますので、この時点で女子高生である八木原美珠は容疑者から除外されます」

「しかし、その『シリアルストーカーが車に乗っている』という情報自体、八木原美珠の証言によるものだ。その証言自体が嘘で、防犯カメラの映像が実は全く関係のない人間を映していたのなら、八木原も候補からは外せないぞ」

 一課長がさすがに慎重な姿勢を見せる。が、土井はこう続けた。

「いえ、問題の証言がなかったとしても、私はこの犯人は車を所持していると考えています」

「理由は?」

「犯行現場の範囲があまりにも広すぎます。最初が木更津で、次が幕張。さらに船橋から市原です。電車を使ったとしてもこの範囲を自動車なしに移動して黒髪の女性を見つけては尾行し、なおかつ綿密な殺害計画を練るというのはあまりにも無謀としか言えません。これは自分の自動車を所持していないとスムーズにいかない犯行です」

「しかもいくつかの犯行は夜。女子高生がうろつくとなるとあまりにも目立つ時間です。さらに言えば、相手が女性とはいえ犯人は被害者を暴行した上に、四件目以外の三人は失神させています。これは一般的な女性の体力ではまず不可能です」

 中司が補足する。一課長は頷いた。

「なるほど……となると、八木原が犯人である可能性は低い」

「同時に、彼女の証言は限りなく真実に近いと考えます」

 土井は話を続けた。

「残り二人のうち、自衛官の大北に関して犯行は不可能だと考えます。第一と第二の犯行が起こった当時、習志野駐屯地では大規模な演習が行われていて、大北自衛官はその演習に泊りがけで参加しています。犯行を行う暇など全くありません。また、自身が発見者である第三の事件ではアリバイがあり、先程確認したところ第四の事件でも駐屯地の業務についていたというアリバイがありました」

「さすがに自衛官だけあってアリバイに隙が無いな……」

「それで、残る真下なんですが……」

 土井は少し言い淀んだ後こう続けた。

「真下には第二の事件でアリバイがありません。また、調べた結果第一の事件でもちょうど休暇だったという事でアリバイらしいアリバイがありませんでした」

「第三、第四の事件は?」

「第三の事件も帰宅途中に飲み屋で一人飲んでいたという事でアリバイはなし。第四の事件は現在確認中ですが……現在シーズンオフで真下の勤務先のスタジアムの退社時刻が午後五時になっていますから、普通に考えればアリバイがないと思います」

「可能性は捨てきれないか」

「とはいえ、真下が犯人ならこんなにあからさまな事をするかという疑惑はあります。犯行を見る限り、犯人はかなり綿密に犯行を計画、実行していますので、少々犯人の見立てとは噛み合いません。また、真下は運転免許こそ所持していますがいわゆるペーパードライバーで自身の車を持っていません。運転免許取得は今から十年前。そんな人間がいきなり車を運転できるか正直微妙ではあります」

 土井はやや曖昧な言い方をした。

「いいだろう。それで、これからの捜査方針は?」

「何はともあれ、次の犯行を防ぐことに全力を注ぐべきです。県民に対する警戒喚起の強化、パトロールの増強、それに未成年者への対応を学校などにも求める必要性があります。とにかく、千葉県下でこれ以上の犯行が繰り返される事は何としても避けなければ」

「一番いいのは犯人を検挙する事だが……」

「もちろん全力は尽くします。ですが、最悪の事態に備えなければなりません。この犯人は一筋縄ではいかないと考えた方がいいです」

 その言葉に、一課長も頷いた。

「……私も同感だ。この一件、県警本部としても全力を尽くす。その分、君たちも捜査に全力を尽くしてほしい。いいな!」

「はっ!」

 捜査本部の刑事たち全員が、悲壮な決意を固めていた。


 それからの千葉県警は、捜査と同時にいかにして次の犯行を防ぐかで躍起になった。こうなった以上、もう一人も犠牲者を出すわけにはいかない。一方、県民もこの恐怖の連続殺人鬼の魔の手から以下に逃れられるのかを先月以上に真剣に議論するようになった。

 いずれも女性が一人の所を狙われている事から、できるだけ複数人で行動する事が推奨され、また、髪形を変える女性も明らかに先月に比べて急増した。警察によるパトロールも増加し、この一ヶ月における千葉県下の刑法犯罪検挙数が一時的に急増したと、後の犯罪白書には記録されているほどだという。また、この事件に関しては千葉県庁や各自治体の役所といった行政も動き、学校の集団登校・下校や犯行該当日時における部活動の全面停止など異例ともいえる対応がなされる事が決定した。

 時間というものは無情にも流れていく。そうこうしているうちに年が明け、県警と県民が全面警戒をする中で新年……二〇〇六年が始まった。予定通り各学校の部活動は全面停止され、塾や習い事に関する業者も、行政指導により保護者の送り迎えを原則とする旨を実践していた。とにかく、この時の千葉県はある意味一人の殺人者に完全に振り回されている構図だったと言える。

 だが……この時、シリアルストーカーはこうした県警や県民の思惑を裏切る行動を起こしたのだった。


 二〇〇六年一月九日月曜日、木更津署の捜査本部は緊張に包まれていた。いつ次の犯行が発生したという連絡があっても不思議ではない状況。刑事たちは年末年始関係なく連日連夜泊まり込みを続けており、体調を壊して倒れる人間も続出していた。

 すでにやれるだけの手は打った。後は犯行が起こらない事を祈るしかない。

「やれるだけの事はやったが……それでも完全といえないのが嫌になるな」

 一課長はそう言って苦々しい表情をしている。だが、他の刑事たちも似たり寄ったりな表情をしている。年内に犯人を逮捕できなかったという事実が、重くのしかかっているのは確かだった。

「ここまでやって防げなかったら、県警側のダメージも大きい。願わくば、このまま何事もなく一月が過ぎていくのが望ましいんだが……」

 一課長の言葉に誰も反応しない。捜査本部がかなりのところまで追い詰められているのを示すような状態だった。重い空気がその場を支配し、なぜか時間が停止してしまったような錯覚が刑事たちを襲った。

 と、その時だった。何とも言えない重苦しい空気に包まれていた捜査本部に、けたたましい電話の音が鳴り響いた。その瞬間、本部内の刑事たちの表情が緊張に包まれる。電話はしばらく鳴り続けていたが、やがて一番近くにいた中司が受話器を取った。

「はい、捜査本部。……県警本部ですか?」

 相手は千葉県警本部のようだった。全員が固唾をのんで見守る中、中司は本部からの報告を聞き続けている。が、その顔が一気に険しいものとなった。

「それは……本当ですか? 間違いではなく? ……そうですか」

 その応対に、誰もが最悪の事態を考えた。果たして受話器を下ろすや否や、中司が絶叫した。

「くそっ、やられた! 五件目だ!」

 その瞬間、誰もが天井を仰いだ。あれだけやっても防げなかった……その思いだけが彼らを支配していた。心が折れそうになっている刑事も何人かいるようだったが、さすがに土井や一課長はすぐに精神を立ち直らせた。

「どこだ……これだけ警戒していながら、一体どこでやられたんだ!」

 一課長が中司に尋ねる。それは当然の疑問だった。

 だが次の瞬間、続く中司の言葉に、捜査本部の誰もが呆気にとられた。

「それが……千葉じゃありません」

「は?」

「たった今、東京警視庁から県警本部に緊急連絡が入ったそうです。東京江戸川区の住宅街で、シリアルストーカーによるものと思しき殺人事件が発生したと……」

 それは、捜査本部の想定を完全に裏切る状況だった。今回シリアルストーカーが狙ったのは、厳戒態勢の千葉ではなく、完全に油断しきっていた隣接する東京都だったのである……。

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