第六章 榊原恵一

 二〇〇六年一月二十日金曜日。千葉県成田市成田国際空港。江戸川事件から約二週間が経過したこの日、成田空港の入国ゲートに一人の男が姿を見せたのは、午前十時を回った頃であった。ロンドンから到着したこの男は、空港のフロアに到着すると一瞬周囲を見回し、そのまま入国ゲートの方向へと歩き始めた。

 年齢は四十前後だろうか。くたびれたスーツにヨレヨレのネクタイを締め、手には黒のアタッシュケース。パッと見た感じは仕事で疲れ果てたサラリーマンと言った風貌である。

 男は入国審査の列に並び、そのまま大きな欠伸をした。なぜか今日はやけに時間がかかっており、そのまま数十分ほど待たされる。それでもやっと順番が来ると、彼は男とは対照的に実直そうな顔をした入国審査官にパスポートを手渡した。その入国審査官……羽本鉄治郎はねもとてつじろうは、無表情に渡されたパスポートのページを開いて中身を確認する。そこの本人署名欄にはこう書かれていた。

榊原恵一さかきばらけいいち

 羽本はそこに写っている写真と本人の顔を確認すると、改めて型通りの質問を開始する。

「名前は?」

「榊原恵一です」

「本籍地は?」

「東京です」

「渡航先はロンドンですか。渡航目的を教えてもらえますか?」

「仕事です」

 男……榊原の応答はシンプルだった。羽本はさらに質問を続ける。

「差し支えなければ、具体的にどんなお仕事で渡航されたのかを教えてもらえますか?」

 だが、これに対する榊原の答えは羽本の予想外の物だった。

「ある人物から依頼を受けて、事件の調査に」

「事件?」

 ここで初めて無表情だった羽本の眉が動いた。

「あなた、警察の人ですか?」

「いえ、違います。私はその……探偵でして」

 何とも胡散臭い職業が飛び出す。一方、榊原は羽本の表情を見て苦笑気味に答えた。

「行きの出国審査でも同じような顔をされました。安心してください、ちゃんとライセンスは持っています」

「はぁ……」

 羽本としてはこんなどう見てもくたびれたサラリーマンにしか見えない男が探偵などという職業をしている事に違和感を覚えたのだが、特に怪しい点もない以上、通さない理由もない。羽本は反射的に眼鏡のフレームを押し上げると、パスポートにスタンプを押して、榊原に通るように促した。

「まぁ、結構です。どうぞ、行ってください」

「どうも」

 榊原はそう言うと列から離れて空港の外へ向かう。羽本はチラリとそれを見送りながら次の人の対応をしようとして……今通っていったばかりの榊原がスーツ姿の複数の男に取り囲まれているのを見てさすがにギョッとした表情を浮かべた。

 見ていると、訝しげな表情を浮かべている榊原に対し、男の一人が何かを突き付けている。それが明らかに警察手帳であるのを、羽本は見て取っていた。

 ひょっとして今の男は何かの犯罪者だったのだろうか。警察が海外逃亡していた手配犯が入国してくる瞬間を狙って逮捕しようとするのはよくある話である。羽本の視界の隅で、榊原が小さくため息をついて男たちに連れられて行く様子が目に入る。

「ちょっと、早くしてください」

 ハッと気が付くと、目の前で次の乗客が少し怒った風に羽本を睨んでいる。羽本は慌てて思考から今の男の姿を振り払うと、再び業務へと戻ったのだった。


「……まさか空港を出たところで待ち構えているとは思わなかった」

 空港を出てパトカーに乗ると、榊原は助手席に座る男……斎藤に向かって少し不満そうにそう言った。

「申し訳ありません。ですが、事態は一刻を争うんです」

「私は今ロンドンでの仕事を終えて帰国したばかりなのだがね。そんな私を帰国して早々引っ張り出すとなると、よほどの事件なのか?」

 そう言いながらも、榊原の目は先程と違って真剣なものになっている。それを見て、榊原の隣に座る男……土井は、この男が警視庁において伝説となっている人物であるという事を改めて実感し、斎藤から聞いたこの男の情報を頭の中で整理していた。

 榊原恵一。職業は私立探偵で、現在は品川の裏町に開業しているという事だ。が、こんなくたびれた外見に反してかつては警視庁捜査一課最強とされた捜査班のブレーンを務めていた推理の天才であり、もし刑事を続けていたら今頃すべての刑事たちの頂点に位置する警視庁捜査一課課長の地位にいたのは間違いないと噂されている。ある事情で八年ほど前に警視庁を退職したが、それ以降も私立探偵として数々の事件に関与しており、その中には日本犯罪史に名を残す事件も多いという。そのため刑事を辞めた今でも警視庁を中心とする警察関係者の中では伝説的な存在で、探偵の本分たる推理力と論理力に徹底的に特化したその捜査姿勢から、冗談でもなんでもなく『名探偵』、あるいは『真の探偵』と呼ばれているらしい。

 シリアルストーカーに対して後がない合同捜査本部。そんな状況で、警視庁の斎藤が担ぎ出してきた切り札……それがこの榊原という男だった。もちろん、元刑事とはいえ一般人を捜査に参加させるなどという事は本来認められていない。が、斎藤の話を聞くと今までに警視庁はいくつかの難しい事件に対して非公式のアドバイザーとして彼を事件に関与させており、そして実際にそのほとんどの事件を解決に導く事に成功しているのだという。

「あの人を担ぎ出して駄目なら、もう何をやっても同じです。これは一種の賭けです」

 榊原を関与させる事を決めた際、斎藤はそう力説して上層部を説得した。驚いた事に上層部もそれで納得し、非公式アドバイザーとして榊原を捜査本部に入れる事を認めたのである。どうも、上層部にも榊原を信用している人間は多いらしい。それだけの実力が榊原にあるという事なのかと、土井はしばし物思いにふけってしまう。

 ふと我に返ると、榊原がジッと土井の方を見ている事に気付いた。慌てて土井は自己紹介をした。

「どうも、千葉県警捜査一課の土井です。運転しているのは部下の中司です」

「中司です」

 紹介を受けて、運転中の中司も挨拶をする。それに対し、榊原も丁寧に頭を下げた。

「榊原です」

「榊原さんのお噂は千葉県警にも伝わっています。『名探偵』なんだとか」

「……私は自分で『名探偵』と名乗った事はないんですがね。どうも名前だけが独り歩きをしているようで」

 そう言いながら榊原は大きくため息をつく。

「それで、早速ですがご協力いただけるのでしょうか?」

「……事件の内容を聞かないと何とも。もっとも、ある程度の予想はできていますが」

「というと?」

「今、千葉県警が必死になって捜査している事件となれば、あの『シリアルストーカー』の事件しかないでしょう。それとも、それ以外の何かの事件なんですか?」

 榊原はそう言って土井を見据えた。さすがに「名探偵」と呼ばれるだけあって頭の回転は速い。

「いえ、仰る通りです。我々は『シリアルストーカー』の事件の捜査をあなたに協力してもらいたいと思っています。何でも、そこの斎藤警部いわく、警視庁の切り札なんだとか」

「斎藤、お前そんな事を言ったのか?」

 榊原がやや呆れ気味に言う。

「事実ですから」

「私はもう警察を辞めた身だぞ」

「ですが、実際に榊原さんが解決した事件も多いですからね。警察内部にも榊原さんを信用している人間はまだかなりいますよ」

「おかげで無報酬の警察へのアドバイザーの仕事が増えて困る。事務所は閑古鳥が鳴いてばかりだ」

「それは榊原さんが広告活動をしていない点に問題があるのでは?」

「大きなお世話だ」

 榊原はそう言って目を閉じて背もたれにもたれかかる。

「……とりあえず、事件の概要を聞かせてくれ。私もこの事件については新聞に書かれた事くらいしか知らない。いくら私でも情報なしに推理はできないぞ」

「土井警部、お願いできますか?」

 斎藤にそう言われ、土井は小さく頷くと、千葉県警本部に到着するまでの間に事件の概要を一通り説明した。榊原は目を閉じて黙って聞いていたが、話が終わるとうっすらと目を開けて小さく呟いた。

「なるほど、ね。確かにこれは厄介な事件だ」

 その表情は先程よりもより真剣なものになっており、目にも鋭さが戻っている。それは、榊原がこの事件に興味を持ったという合図でもあった。

「いいだろう。どこまでやれるかわからないが、この依頼、受けようじゃないか」

「ありがとうございます」

 榊原の答えに、斎藤が頭を下げる。

「礼はいらない。そんなものは事件が解決した時にでも依頼料代わりに言ってくれ。ただ、受けた以上、私も全力は尽くそう」

 そう言いながら、榊原はパトカーを降りて、斎藤らの先導で千葉県警本部の中へ入っていく。捜査本部に着くと、そこにいた全員の視線が榊原の方へ向いた。が、榊原は動じる様子もなく頭を下げる。

「どうも。こうして捜査本部に入ったのは、随分久しぶりの事ですね」

 榊原そう言いながら一瞬辺りを見回すと、そのまま正面に座る上層部三人組の前に立った。まずは千葉県警本部長と千葉県警刑事部長の前でもう一度頭を下げる。

「……お久しぶりです。今は、お二人とも千葉県警にいたんですね」

 その言葉に後についていた土井が驚いた表情を浮かべる。

「知っているんですか、彼を?」

「……こいつは警視庁伝説の刑事だった男だ。こいつが捜査一課にいた一九九〇年代に一度でも警視庁にいた人間は、誰でもこいつを知っている。その推理力の凄まじさも含めて、な。特に我々キャリア組は全国転勤するから、今でも主に上層部を中心に各都道府県警の中にこいつを知っている人間は山ほどいるはずだ」

 そう答えたのは本部長の方だった。そう言えば、県警本部長の方は十年ほど前に警視庁警備部、刑事部長は警視庁総務部に所属していたはずである。ならば、知っているのも納得できる話である。

 だが、続いて警視庁の橋本捜査一課長に投げかけた言葉に、土井は今以上に度肝を抜かれた。

「橋本、お前も元気そうだな。ちゃんと飯は食ってるか?」

 あまりにも失礼な物言いに、思わず何人かの県警の刑事が榊原を問い詰めようとする。が、それを制したのは他ならぬ橋本だった。

「あぁ、おかげさまでな。だが、お前に言われたくはない。まったく、柄にもなくロンドンなんかに行ってやがって。シャーロック・ホームズの真似事でもしたつもりか?」

「生憎だが、そんな穏やかな話じゃなかった。依頼で行っただけだし、おまけに向こうでも殺人事件に巻き込まれた。で、帰って来た途端にこれだ。謝礼を出せとまではいわないが、これが終わったらお前の自費で個人的に一杯おごる事くらいはやってもらうぞ」

「いいだろう。それくらいなら問題はない」

 そのやり取りに、千葉県警の刑事たちや警視庁の若手刑事たちは呆気にとられている。が、上層部の人間や警視庁のベテラン刑事たちは意味深な表情でそれを見ていた。

「斎藤警部、これは一体……」

 土井が尋ねると、斎藤はこう答えた。

「榊原さんがかつて警視庁最強の捜査班のブレーンをしていたという事はさっき話しましたね」

「えぇ、まぁ……」

「警視庁刑事部捜査一課第十三係……通称『沖田班』。当時の警察庁刑事局長の権限で作られた、キャリアの区別や階級にかかわらず優秀な刑事ばかりが集められた捜査班です。リーダーは沖田京三。この名前は?」

「もちろん……今の警視庁警視総監ですよね」

「そうです。沖田班には沖田さんや榊原さんをはじめとする五人の刑事が所属していました。いずれも一癖ある優秀な刑事ばかりでしたが……そのうちの一人が橋本一課長なんです。当時の階級は両者とも警部補。しかも、当時は榊原さんと橋本一課長はコンビを組んで活動していて、いわば相棒同士だったと聞いています」

 これには土井も驚くしかなかった。

「あの二人が……元相棒」

「えぇ。今となっては片や警視庁の捜査一課長で、片や日本有数の名探偵。そんなかつての警視庁最強のベストコンビが、こんなところで再会するなんて、皮肉なものです」

 一方、榊原は橋本自らから事件についての詳しい説明などを受け、さらにホワイトボードに貼られた被害者の経歴や顔写真に目を通していた。

「状況は以上だ。これで榊原、お前まで投入して次の犠牲者まで出たら、その時は我々警察の全面敗北だ」

「今までの傾向からすると、犯人は一ヶ月に一度、各月の上旬で殺人を決行しているわけだな」

「そうだ。従って、タイムリミットは少なくとも今月が終わるまでの十日弱だ。それまでに解決できるか?」

「……やり方次第だろうな。とはいえ、現状ではなかなか厳しいかもしれないが」

 榊原はそう言いながらも、ジッと捜査記録を見つめ続けている。と、不意に顔を上げて橋本にこう言った。

「何はともあれ、私も一度現場は見ておきたい。それに関係者からも証言を聞きたいのだが」

「構わん。ただし、付き添いはつけさせてもらうぞ」

「当然だな。じゃあ、すまないが県警の誰かを……」

「いや」

 そう言うと、橋本は県警本部長らと何かを相談し始めた。本部長たちは何とも言えない複雑な表情をしていたが、最後には何やら納得したようだった。それを見て、橋本が榊原に近づくと、とんでもない事を告げた。

「私が一緒に行こう」

 その言葉に今度こそ誰もが驚愕の表情を浮かべた。警視庁の捜査一課長が直々に現場に乗り出すなど前代未聞である。しかも、元刑事とはいえ一般人である榊原と一緒にだ。案の定、榊原も厳しい表情を浮かべた。

「いいのか? お前には本部の仕事もあるんだろう?」

「この状況だ。数日程度お前に付き合ったところで問題はない。本部の仕事は後で倍の仕事をするという約束で県警本部長たちにお願いした」

「いや、しかし……」

「私は使えるものは何でも使う。自分で言うのもなんだが、私たちが力を合わせたら新しい何かが出てくるかもしれない」

 確かに、元沖田班でコンビを組んでいたこの二人が再捜査をすれば、新情報が浮かんでくる可能性はある。県警本部長もそれを踏まえての判断をしたのだろう。しばし考えた後、榊原はため息をつきながら頷いた。

「お前にも立場があるんだから……こんな事はこれっきりにしてくれ」

「もちろんだ。こんな事は就任したばかりの今しかできん」

 それは、かつて警視庁一の検挙率を誇ったコンビが暫定復活を遂げた瞬間だった。

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