第3話

 神社の境内で子供たちが駆け回っている。砂原はベンチに座って安っぽい知恵の輪を手の中で持て余しながらその様子を見ていた。子供は拝殿を周り、狛犬を障害物扱いして、手水舎の前できゃっきゃとはしゃいだ。彼らはここの祭神の産土神をどう思っているのだろうか。神が見過ごすと踏んでいるのか。未来の線路に罰として試練を課すことを失念しているのではないか。それとも見過ごされているのは自分の方なのか。知恵の輪を横に置いて彼は高い空を仰いだ。やけに立体的な入道雲がちっぽけな人間など気にも留めずに歩いていく。そういえばあれはこんな夏だったと彼は思って、立ち上がった。空の青さにかかわらず鼻腔には雨の匂いが染みついていた。

 呼び出した鴨川の畔には約束の時間になっても藤村が来ることはなかった。彼はベンチに座ると隣に存する空白に彼女の透ける亡骸を見た。亡骸はただ縋りつくような笑みを浮かべている。この間の一夜のことを思い出し、彼の心はすこし痛んだ。砂原は観測するべき鳥を待つみたいにして黙っていたが、藤村に送る手紙の文面を考えることにした。しかし彼はしばらくの間、適した言葉を見つけることはできなかった。何も言うべきではない気もしたし、何かを言わなければならないという気もした。それでも彼は頭の中で文字を綴った。まるですぐ傍に藤村がいるみたいにしてぼやかれた言葉は、夕陽が塗り潰す世界の赤さの中で空白に吸い込まれていくのだった。

「僕に恋を教えてくれたのは砂原奈津子という女だった。そう、僕の妹だよ。ひとつ年下でね。今は年齢上自然な風にして疎遠な関係にある。けれど僕の片隅にはいつだって残り香として妹のことが漂っていたんだ。それがどこから発生しているのか僕には分からなかった。掴もうとすると消えるんだ。パッと、嘘みたいにね。なんでこんなことを君に話すかと言えば、君が僕からその香りを決定的に奪ってくれたからだ。妹が僕に与えた傷痕の丁度真上から君は新たな創傷を僕に与えてくれた。奇術師のように一瞬で蝋燭の灯を吹き消してくれたんだ」そう、あの夜机の上から聖書は僕のことを見ていた。そして確実に僕は罰を受けたのだ、と砂原は思う。「あれは紛れもない十三の夜だった。青白い光りが僕を襲ったのは、あの日だった。青い夏で、地上は天日の下に晒されて陽炎が揺れる日が続いていた。けれどその日の午後、空は急に暗くなって大きな雨粒が空から次から次へと降り注ぎ始めたんだ。雨たちはここぞとばかりに一斉に地面を叩いていた。夕立が降ったんだね。両親は祖父母の家の用事で家を空けていて僕たちは二人だけだった。一緒に行った買い物の帰りにずぶ濡れになった僕らは交互に風呂に入って、簡単な夕食を食べてしまうと、早々に各々の部屋へと眠りを求めて別れたんだ。夕立は月が昇って、夜が深まっていくにもかかわらず弱まる様子を見せなかった。夕立だと思っていたのは台風で、風と雨が窓をガタガタと揺らしていた。布団に横たわると、豆電球もつけてない天井に青白い光りが夜空を割るのが映って、雷が空気の粒を痺れさせて轟々と鳴り響いた。少し経つと、怖いのが苦手な妹は逃げるようにして僕の部屋に入ってきた。僕らは布団の中でくっついて暴風雨をやり過ごそうとした。奈津子は空が唸るごとに僕の腕にしがみついた。そのたびに腕越しにぬくもりが僕を襲うこととなった。それがまだ幼かった僕を誑かしたんだ。服の向こうに生々しい身体があるのがはっきりと分かった。僕はそのとき初めて奈津子を手に入れたいと思った。この隣にいる小さな女を握りしめたい、そう思ったんだ」夕焼けが世界を照らし終え、辺りにはもう人影は見えなかった。しかし彼はまさに光りの中にいた。「僕は……悪戯をしたんだ、実の妹に。それを唆すように青い閃光が部屋を閉じ込めていた。僕は昂奮した。健康的な肉体に触れることに。そこには青く照らされた美しい人肌が鼓動に合わせて静かに波打っていた。僕は浮き出る肋骨をなぞり、鎖骨に接吻をした。そして服を開かせた奈津子のことを抱きしめた。奈津子は恥じらいながらも、愛でられている実感を感じたんだろうね、僕を受け入れてくれた。受け入れてしまった。僕は奈津子の肌を味わってしまう。だけどそれなのに僕の手足は飽き足らずとうとう一線を越えようとした。僕の意志はそれを突き動かすより大きな情感に従う他なくなっていた。甘い静寂は僕を逃がしてはくれなかったんだ。更なる温もりを求めて、僕の指先は下の方へと向けられた。やめて、という声が聞こえた気がした。けれどそれは幻聴だった。なぜなら奈津子は笑ってたからだ。そう、笑っていたんだ。妹は闇の中で目を見開いて僕をずっと見つめていた。稲光がその双眸を浮かび上がらせた。しかし歯止めの効かなくなった手先とは逆に、その幻聴――ひどく抑揚のないその声はじっと僕を見つめていたんだ。そして翌日になれば、二人ともそんなことなかった風に元通りの生活を送った。初めはちょっと気にしていたけど僕も忘れた。でもそのことはずっとどこかで尾を引いていたんだ。君が吹き消してくれた灯っていうのはそれなんだよ……」

 胸の内を吐きだしてしまうと虚ろな肺から送られる乾いた笑いの残滓が彼の口元を覆った。陽は山嶺の向こうに沈み、淡い残照が風景を染めつけていた。そのとき土手の上に自転車のブレーキの音が響き渡った。その人物はサドルから降りると、弾んだ足音を立てて、ぽつんと居座る彼の方へ階段を下りてきた。

「砂原くんじゃない、まだいたの!」

 彼は何も答えず表情を喪失したように見つめるだけだったので、彼女は怪訝そうに彼の隣に腰を下ろすとそわそわした様子で言った。

「どうして電話に出なかったのよ。心配したんだから」

「僕は憧れてたんだ。君のその美しさにね」

「なにいきなり。ねえ砂原くん」

「君はおそらく何だって知っているんだろう。僕より多くを考え、多くを見て、多くを慈しみ、多くを赦し、後悔し、分を弁え、それを託す。自分の器の大きさを分かっているんだろう。恐れるものがないとは言わない。完全な善であるとも思わない。けれどそれで、それだから正しい。美しさは正しさの中にこそあるんだ」

「何を主張したいのかしら。自分が空っぽだって言いたいの?」

「僕はね、あの夜のことが忘れられないんだ。どうしてもね」

「ええ」彼女は頷いた。

「でも、それは赦されないことなんだ。あってはならないことなんだ。だから――」砂原は腰を浮かして彼女の方へ身体を寄せた。彼の決して届かないシャンプーと汗の混ざった匂いがする。彼はゆっくりと服の上から肌を撫でた。「もう一度だけ触れたいんだ。もう二度と過ちを繰り返さないために」

 彼女を求めて這う指は薄気味悪かったが、砂原の表情があまりにも深刻そうなので彼女はそれを妨げなかった。彼の指はするすると藤村の服の下をのぼって、胸に取り付けられた下着さえをもくぐって、円い形状に逢着した。青白い光りと吐息と二つの夜を掻き消すために。彼は終わりの感触を手にしっかりと馴染ませた。

「もういい?」と彼女は不機嫌そうにシャツを下ろすと、絶望のこもった息を吐いた。そこに甘い静寂はなかった。自分を飲み込もうとする青白い光りも消え、あるのは薄暮の空気と灯りだした埃っぽい電燈だけだった。彼は底抜けの恐怖から脱した、と確信した。

「砂原くん」

 なに、と訊き返す隙もなく、藤村は手を上げて彼の頬を強かに打った。

「二時間も遅れたのは悪かったわ、でも本当は来なくたってよかった。だってそうでしょ。あなただって全然返事を返さなかったんだから。そろそろ自分のことだけ考えるのはやめた方がいいよ。だから、もう近寄らないでね」

 そうして彼の言葉も待たないままに立ち上がると、つかつかと階段を上り、自転車に跨った。振り返ることもなく、ただその緑色の車体の軋みだけが彼から徐々に遠ざかっていくのが分かった。

 砂原は家に戻ると、封筒に入れておいた便箋を取り出して、バラバラに破る。千切れた断片は白く、乳房が弾けたようだった。それから、じっとりと肌を覆う汗をシャワーで洗い流した。高く置いたシャワーノズルから湯を顔に浴びせると、清々しさが全身をめぐって、表には見えない身体の節々に忍び込んだ虫たちを外へ追いだしてくれるようだった。彼は自らが清潔になっていく気分に包まれた。正しい安寧の中にいる、と彼は思った。それは何年も損なわれていた感覚だった。不必要なものは川の流れをつくって、排水溝の中へ吸い込まれていった。感傷の気配も通り過ぎていった。さっぱりしたという言葉はこういうときのためにあるんだなと彼は感心した。

 砂原がタオルで肌を拭いていると、ふと喉の奥に魚の小骨がつっかえた感じがした。指を入れてみてもそれらしい物は確かめられず、何かがそこにあるという実感だけが残っていた。あるとしてもそれは小さくて軽くて生活に支障はないだろう、と彼は思い、タオルをまた動かし始める。けれどなんとなくそれは明日になってもなくなってないだろうという感じだけは確かにあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アマイシジマ 四流色夜空 @yorui_yozora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ