第2話

 それから遠くない日に下鴨神社の境内にある糺の森で古本市がひらかれた。砂原は藤村と落合い、強い陽射しが照りつける中、腕や脚が棒みたいになってなお知識を貪る老人やベビーカーを引く散歩がてらの夫婦や見るからに研究熱心な若い男なんかの間に混ざって、行き場を失って動かない熱気に晒された古本の群れたちを見て回った。本はどれも年月によって頁が黄金に彩られ、それぞれの遠い過去を思い耽っていた。三十店舗ほどはあろうかという店々を一時間ほどかけて、ようやく一巡し、それから気がかりとなった本を訪ねて、二人は再び本の群れの中を泳いだ。砂原は普段働かせる以上の体力と集中力を摩耗し、額や首筋を滴る汗を指腹で拭いながら、とりあえず目ぼしいところを手に入れたところで藤村を呼び、出店でかき氷を買ってから設えられた休憩用のベンチに腰を下ろした。

 藤村の選んだ取り合わせは奇妙なものだった。見せてもらうと十年ほど前の美術の雑誌が数冊と、仏教のブックレット、ヴァーグナーの伝記、芥川の全集、共同訳の聖書、それから変体少女文字に関する単行本だった。

「なんだい、変体少女文字というのは?」砂原はレモンシロップのかかった氷をストローの先の平べったくなった部分で掬いながら訊ねた。氷を喉に押し込むと、身体の重みが抜け落ちるのと同時に鈍い痛みが頭に刺さった。

「女の子の書く丸っこい文字のことよ。変体だなんて、当時は奇異の視線を送ってたのね。自分とは違ってるからって貶めるのはいつだって同じね」藤村は正体のよくわからないブルーハワイを口に運んだ。

「けれど聖書と変体文字というのはどうも不思議なセットだ」

「あなた、テトラグラマトンっていう変体文字の一種を知ってる?」

「知ってたらなにか賞品は出るかな」

「今よりまともになれるわよ」

「どのくらい?」砂原は若干の興味をもって彼女の横顔を見た。

「少なくとも身の回りのことがもっとはっきり見えるようになるわ。知るってそういうことだもの」藤村は答えると、氷を口へ運んで、冷たさに顔を綻ばせた。


 ベッドの脇に脱ぎ置かれた服は自らの役目を全うしたかのように、静かに虚空に溶け込んでいた。机上には今日買った本たちが積まれている。湖底のような夜半の静寂は、地球に二人だけが生きている感覚を与えていた。

 砂原は藤村を腕の中で抱きながら、指をそっと腹部の下に忍び込ませた。それは蜜を欲しがる蛇みたいに。彼女は顔を軽く歪め、目を瞑って、甘い吐息を耳元に漏らした。肢体を動かすそれは、美しい生き物だった。鏡になんてならないと彼は思った。自分なんかがこの汚れなき魂に重なることなどあり得ない。最初は固く強張っていた力が徐々に和らぎ、陰部のしっかり濡れているのを確かめると彼は彼女の中へと入った。彼女は淡く果敢ない風に小声で喘ぎ、しがみつく指の力を強くした。砂原は時折、彼女の頬や首や耳や白い胸に口唇を這わせ、それ以上に長い接吻をして、ゆっくりと腰を動かした。彼が身体を動かすたびに、彼女の触れられた部分はなめらかに変形し、不躾に突き動かしてくるものを受け入れた。血液が粘膜となって別々の形を繋いでいた。マシュマロのように円い乳房には、丘の上に小屋のある風にして小さな突起が生じていて、窓から射し込む月の青白い光りがその丘を厳かに貫いている。その景色の全体には果実の腐ったみたいな甘い匂いが澱のように立ち込めていた。彼が果てようというとき、彼の網膜に突如として白い身躯が飛び込んできた。それは記憶に葬られた古い光景を惹起した。彼女の甘い吐息は空の彼方からの呼び声としておとない、砂原はそのドロドロした圧倒的な静寂に突然自分がどこにもいない恐怖に駆られて慄いた。彼は追い詰められた先が断崖だとさとって、反射的に身を引き、もと来た道を引き返そうとする、が遅かった。轍は姿を隠し、彼の存在は底知れない彼女の中で白い濁りを迸らせ、そして消えた。

 ことの終わったあと、二人は子供に帰ったように抱き合い、疲れと微睡みの淵を彷徨った。しかし彼は小刻みに身体を顫わせていた。

「どうしたの、寒いの?」

 彼は首を振った。四肢は霜がおりた風に凍てついていたが、それを言葉で彼女に伝えるのは不可能と思われた。宇宙のさなかに放り出されたような孤独が彼の周りを取り囲んでいた。どう足掻こうと、なにものにも触れられない暗闇が輪郭をひたひたと侵していた。それはまるで底の抜けた舟で濃い霧に隠された岸辺を目指しているようだった。彼は人の温もりを求め、身体を動かしたが、それは闇を掻き混ぜる行為に過ぎなかった。机の上の聖書は苦境を与えている風でも導きの標を顕すでもなく、ただのっぺらぼうな視線だけを中宙に漂わせているのであった。しばらく経ってから、彼はようやくなんとかして心の渦から掬いあげた声を喉の奥から振り絞った。

「これがこの先一生続くんじゃないかと僕は不安で仕方ないんだ」

 藤村は彼の肩まで布団を上げると、言葉のないままに闇を包み込むようにして自らの乳房で彼の頭を抱きかかえた。彼が眼を閉じても、藤村の乳房に走った青白い光りが消えることはなく、甘い吐息と青白い光りは交互に彼の脳をおびやかした。総てを奪い去るその眩さの暴力は意識さえをも押し流し、彼を深く澱んだ眠りへと引き摺りこむ。彼は口に出せないその思いを乳房の感触の向こうに解き放とうとしていた。僕は生まれてきてよかったのだろうか、というその思いはとどのつまり外気に交わることはなかった。


「ただいま電話に出ることができません。ピーという発信音の後に……」

 放られた携帯が受け答えしている音声を幾度となく聞いた砂原は玄関を出て、太陽の射す蒸し暑い世界へ足を踏み出した。二三分ほど歩いた彼は公園の側にある紙屋川という細い川の前に立ち、岩底のささやかな凹凸を表に浮きだたせる水流を眺め、形がつくられては壊されていくのを目で追っていたが、そのうち何かに急かされる風に踵を返すと川の源流へと道を遡り始めた。彼は昔からそぞろ歩くのが好きだった。マンションや建売住宅の間を紙屋川に沿って足を進めているとあの頃の気分がせり上がってくる。彼は高校から家へ帰る道すがら、しばしば寄り道をして霊園の敷地に踏み入った。自転車を門に横付けし、墓石と墓石の間を歩いていると嫌なことなどはいつしか塵となって視界の外へ吹かれてしまうのだった。彼はそうやって心の揺らぎを抑えていた。墓場にはいつだって殆ど人影はなく、手近に安心を手に入れることができた。安らぎは彼にとって他人の好奇のないところにあった。霊園には塔みたいな観音像が一体聳え立ち、全景を見守っていて、彼は菩薩の足元に座りこんで感情の波をやり過ごした。もう悲しむことのない人間の詰められた黒い箱の遠く向こうには、いつまでも真新しいショッピングモールと曲がりくねった外郭環状線が、折り目正しく揃って顔を覗かせている。

 住宅の数が目に見えて減り、紙屋川が本格的に山の麓を上っていくところで、砂原は足を止めた。懐かしい人工的な墓場の臭いが鼻に蘇って、藤村の乳房の表面を汚していた。砂原奈津子はまだ笑ってるだろうか、と彼は思った。砂原は便箋を買って家に戻ると、その真っ白な紙面に向かいあった。

 藤村は何度も砂原に連絡を試みたが、彼がそれを相手取ることはなかった。湿った吐息と円い乳房が脳裡に見え隠れするたび、彼女の唇がぱっくりとひらいて、彼を飲み込もうとする風に思えるのだった。藤村が彼を迎え入れるときに見せた罪を赦すような甘い静寂は、蓮の蕾が音を立てて花に弾ける直前の、血の雨を待つ刃の冷やかさに他ならなかった。

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