アマイシジマ

四流色夜空

第1話

 砂原は埼玉県で生まれ育ち、県立の高校を出ると、京都の大学へ進学した。彼が進学した年に、その野暮ったい高校から関西に進学したのは、たった二人しかおらず、合格発表も済んで、ようやく晴れてこの土地から離れられることに喜んでいた彼はもう片方の人物にどこか親近感を抱き、友人伝いに聞き及んだ彼女を帰り際に見つけて心の昂りを充分に冷ますのも忘れたまま、共感に溺れようと滑稽なほどに単純に試みたのに対して、寄越されたのは非常に淡白な返事のみだったために、藤村聡実という女はしばらくの間、砂原の中で、県内の華も脳もない一介の高等学校に安んじることで自らの羽根を腐らせることに一切の自覚もなく、最寄りの電車で三十分余りの東京の大学へと進むことになんの疑念も抱かない、窮屈な常識に好んで住みたがるつまらない同輩らと同一視される運命と相なることになった、すなわち彼が知らずに振りかざす偏見に晒された多くの内の一人であった。

 砂原が藤村と再会したのは地下にバスターミナルを配した、小さめのビルにあるカフェにおいて、梅雨がなかなかやってこない六月初旬のことであった。それは、思ったよりも大学という場所が、想定外にも彼に苦痛を与えていることに感づき出した頃合いで、彼は少しでも心を休ませようと週末にかこつけて鴨川を見に自転車を走らせてやってきたのであった。砂原が入ってきたとき、昼下がりだというのに店内は閑散とは言わないまでも空席の多さが強調されて見えた。おそらく成長の止められてしまった、惰性を絵に描いたようなショッピングモールの喫茶店なんかに入らなくても、地上に出ればいくらでもおいしく時代を感じさせる食堂があるためだろう。彼は奥の席にひとり読書に耽る人影を認めて席に座ると、その後ろにある窓を通して半ば茫然に空を眺めながら、スパゲティを食べ、食後に味のしないコーヒーを啜った。太陽はずっと地上を照らしてはいたが、雲が何かから逃げるように足早に空を駆けているのが、なんだか不気味で、その空模様は彼の中へ濃い陰翳を落としていた。その得体の知れない影は見る間に大きさを増していった。足元が沼みたいに溶けて、引き摺りこまれる感覚が彼を襲った。それは微睡みに似ていたが、同時に悪い予兆でもあるような不純な感覚であった。目の奥に疼きが生じたのを察して彼が両目を閉じると、周りは一気に闇に包まれ、ここ何カ月か気の張っていたせいもあるだろう、気が遠くなっていくのが分かった。まばたきはスロー再生されていて、彼には窓の下で静かに本の紙面を繰っていた女がいつの間に自分のすぐ傍に立ったのか分からなかった。

「……あの、大丈夫ですか?」

 その声は閉じかけた瞳の奥へとゆっくりと泳いで、響いた。彼は一陣の風を差し向けられたようだった。彼女はまさに瞼に立ち込めた陰鬱な霧を取り払うささやかな風となって現れた。

「ええ、いや」とかなんとか言って砂原は目線を下げ、ズボンの皺を払い、無様な態勢を整え直そうとした。

「調子はいかがですか」

「ああ……すみません、すぐ持ち直しますよ。日射病には早いですからね」

「埼玉なんて片田舎よりも京都は過ごしやすいですか。きっと素晴らしいだろうと、あなたはおっしゃっていましたね」

 彼が驚く顔を上げて、目をしばたかせるのを見て、彼女は笑った。

「あなた、そう言ってたじゃないですか。砂原くん」

 それが砂原と藤村の二度目の出逢いだった。


 彼らはそのとき近況について簡単に喋り合い、今度こそ連絡先を交換して別れた。藤村は京都の北に位置する芸術系の大学に進学していて、互いの下宿はそんなに離れていなかったので、それから二人は時間を見つけては、しばしば会って話をするようになった。

 彼女はあるとき鴨川沿いの土手の斜面に寝そべりながら、缶のビールを飲んで言った。

「京都はいいわね。そこらに変な祠があって、実家より日常が澄んでるものに感じるわ」

「どうかな」砂原は、清い川の流れにどんよりとした曇天の模様が写っては、崩れ去るのを見ながら、ロングタイプの紙煙草を吸った煙を宙に吐きだした。「信仰の方向が常に真実を指し示しているとは限らない。それはあるいはヒットラーのごと、ファシズムであるのかもしれない」

「あなた、京都にあんなに来たがってたじゃない」彼女は幾分呆れた顔を向けた。「高校のときはあんなに周りを見下した目をしてたのに、どうしたのよ。物事から始まる前から、早々に諦めちゃうの? あの頃は若かったなんて知ったような口ぶりをして」

 ハハハと自虐的に砂原は笑った。いちいち正しいことを言う彼女に彼は好感と、また羨望の念を抱いていた。彼女は、大学で油絵のコースを選択し、今は基礎理論を学びながら、実習として屋外に出てキャンバスにも向かっていると言う。それが砂原には輝かしいことのように映っていた。彼の履修に実習や実践という内容はなかった。大学での理論的学習は、捉えどころのない靄をつかむがごときもので、手応えややりがいといったものが殆ど感じられなかった。それに大学に来れば周囲の人間はまともで聡明だろうと信じていたのに、実際はきゃいきゃいと騒いでいる者たちばかりで、これじゃまるで高校と同じではないかと彼は思った。それらの事態は彼の心と身体を見えない仕方で蝕んでいった。しかしそもそもは彼の望んだことであったし、彼のかつてに抱いた野心のすべてが既に失われていたわけではない。ただ彼の以前抱いていた復讐の念、いつかはこいつらを見返してやろうという思いは、頼りなく燻ぶるにとどまって、発揮するはずの潜在的な力はもはや存在しているかどうかも怪しかった。砂原の見える展望は暗澹として、人気のない海辺の夕景のごとくそこには虚ろな声のみが響いていた。藤村はそういう隈なく渇いた世界からは切り離されていて、彼は街燈に集まる蛾のようにそこに惹かれていたのだった。

「おそらく誰もが通る落とし穴に見事に引っかかってしまっているんだろうな」

「ほら、知ったような口ぶりをする」彼女は普段大人しいのに人を小馬鹿にするときに珍しく笑った。「あなた、何にも知らないのよ。だからそんな滑稽に振る舞えるのね」

「じゃあ君は何か物事を知っているのか?」砂原はムッとして訊いた。

「知っていることもあるし、知らないこともある。多くの人と同じようにね。でも砂原くん。あなたはそうじゃない。認めてないのよ」

「認めてないのは死と同じなのかな」

 土手の上を歩く子供たちの姿を見てから、彼女は缶を目の前に振って内にある量を確かめた。

「ソクラテスは死んだけど、あなたは生きるわ。ずっとひっそりとした道を孤独に歩くことになる。果てしない道のりを、それもたった一人でね」

 こんなに忌憚なく他人に物言いをする人物と相対したことがなかったと彼は過去を振り返りながら思った。藤村は人が遠回りする地帯を気にせず突き進んでいくような性格の持ち主だった。じっとしながら心の刃を尖らせ、物事を矯めつ眇めつ捉えることのできる彼女に砂原は信頼にも似た情を抱くのであった。


 自分の内側にのみ居場所を定めようとした砂原が自分自身を食い止め、辛うじて問題のない素行を持続できたのは藤村あればこそであった。彼は彼女と会えることを生活の支えとして、レポートを書き、本を読み、喧騒に紛れ、夜にはホルマリン漬けの蛙を思い出して眠った。

 テストも終わりかけた学期末に学科内のクラスで飲み屋に行こうという話が持ち上がって、取り仕切る女に「来てくれれば一人一人の払う金額が減るのよ」と粘られ、気の進まない砂原だったが重い腰を上げることにした。

 夕方に始まった大学の近くの飲み屋で、席に着くと隣にいた細い目をした瀬谷という男が口を開いた。

「なんや、付き合いの悪い砂やんが来るなんて珍しいな」

「ひどい言われようだ」

 砂原は、そう返すと店員からおしぼりを受け取って、ウーロン茶を注文した。乾杯の音頭を仕切り役の女が取って、二十名ほどの男女はそれぞれテストの難問や先生の癖なんかを話題の皮切りに、浮かれた調子で近くの者同士と喋り始めた。男の多くはビールを飲み、女も半分ほどはカクテルを注文していた。親しげに身を寄せ合い言葉を交わし合う男女を横目に、彼はシーザーサラダと唐揚げをひとりつまんではウーロン茶で飲み下していた。

 しばらくすると隣のそばかすを頬に散りばめた女子と話していた瀬谷は隅で小さくなっている砂原に独特のイントネーションで話しかけた。砂原はまだ関西弁を話す人間に現実感を付与できていないところがあった。意味は分かるのだが、どこか宇宙人と話しているような感覚が付き纏う。ビールを飲んでいた瀬谷はいくらか酔いが回っているようだった。

「なあ、やっぱ砂やんも恋とかしてんか?」

「なんだそれは、藪から棒に」

「いやな、砂やんはあんま喋らへんやろ。たぶん俺らみたいに騒ぐんが好きちゃうんやろなあ。せやから、恋愛に対する価値観もちゃうんちゃうかってな。もしかしたら俺らなんかより、もっと女の本質っちゅうもんを分かっとるかもしれんやんか」

「どうだろう」砂原は慣れない笑みを浮かべた。相手の調子に合わせようとするといつも頬に変な力が加わるのだった。「恋愛は自分と相手の間にある雰囲気、空気感をいかに調和させるかだと思うから、人によってそれは違うんだろうと思うよ」

「砂やんもそういうのに困ったことあるん?」

「もちろんあるよ」

「さよか」と瀬谷は頷いたあと、「せやけど、想像つかへんなあ」とビールを呷りながらひとりごちた。

「どうしたんだ。女に困っているのかい?」

「まあ、せやなあ。星の数ほどぎょうさんおるからな。面倒なことはひっきりなしにあるよ」

「でも表面のへこみ方や重力は様々だ」

「そらそや」瀬谷はふと砂原に顔を近づけ、些か声のトーンを落として言った。「でもな、一番思うんは、女が鏡になる、いうことや。これはあかんで」

「鏡?」砂原はつい箸を止めて訊き返した。

「そうや、女と付き合うやろ。それでうまくいったら、ええ感じのムードにもなるわな」砂原が頷くのを見ると、瀬谷は続けた。「その二人の距離が接近する、ああうまくいった、儲けもんや、これでしばらくはいい思いができると信じ込んだ折にやな、すっと相手の顔におのれの顔が写り込むんや。気づいたときにはもう遅い。柔らかい身体も鼻につく匂いも女のままや。けどな、顔だけは丸っきり飽きるほど見てもう見たくもないおのれの顔にすり変わっとる。近づくほどよう見える。くっきりとな。鏡が差し挟まれたというよりも、そいつが鏡になってまうねや。なあ、信じられるか? 今まさに手に入れようと思ったもんが自分になるんや。こんな落胆することは、そうないで。なにが嬉しくて自分とキスせなあかんねんって話や」

 それは確かにぞっとしない風景だった。想像するのに耐えかねて砂原は訊いた。

「おい、そんなことよくあるのか?」

「ちょっと、この頃な……。でも、毎度毎度そんなこと起きてるわけやないし。たまにいやあな気分になるだけや」瀬谷は自らに横たわる深淵を覗き込むような目つきをしたが、ふっと我に帰ると、皿に余った唐揚げの下敷きになっていたレタスを食べた。砂原はグラスを傾けると、店内にかかっているジャズの音色に耳を澄ませた。


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