第14話 オウトオブ顔中


「――ヴァアッ!?」


 地下用水路にリンスレットの嘔吐えずく声が反響する。

 四方の壁や天井、柱が赤茶けた煉瓦れんがで作られた水路。

 人ひとりが、なんとか歩けるほどのスペースの横。

 そこでは、各家庭から流れ出た生活排水がものすごい臭気を放っていた。

 その中を前からブラピ、俺、リンスレットの順番で並んで歩いていたのだが――


「ヴォッ? ヴォッ! ヴォッ!?」


 俺の後ろ。

 リンスレットが、何かを産み出しそうな勢いで嘔吐えずいている。


「……いや、たしかに臭いけどさ……そこまででは……」


 いや、もはやなにも言うまい。

 現状、あの中を泳いでいないとはいえ、俺だって一度精神的に、物理的に死にかけた臭いだ。

 さらにリンスレットは獣人。

 おそらく人間の俺なんかよりも何倍……何千倍も鼻が利くのだろう。

 その苦痛は推して知るべしだ。


「うぐるるるるぅ……ぅるるるぶしゅぅぅ……ッ!」


 いつもの元気なリンスレットはどこへやら。

 彼女は小さな黒い鼻を指でつまみながら、目を充血させていた。

 死にかけの猛獣。

 それが、リンスレットを見て最初に思ったもの。

 それにしても、なんつー声出してんだよ。

 こえーよ。


「なんで……グゥゥウワ……あんたらは……ヒッグゥゥ……平気……なのよ……!!」

「いや、『グゥゥウワ』とか言っちゃってるし、もう話さないほうがいいって……」

「そうだよ、リンスレット。鼻からじゃなく、口で呼吸したほうがいい」


 前から声が飛んでくる。

 見ると、ブラピが心配そうにリンスレットを見ていた。


「……完全に口からだけ……なんて無理……でしょ……てか、ダイスケはまだ……うぷ、臭そうにしてるけど……あんたは全然じゃない……?」

「たしかに」


 そう言って、俺とリンスレットがブラピを見る。

 そういえば、下水下り・・・・をしている時にも思ったけど、ブラピの……いや、この場合はアン・・だな。

 アンの臭いに対する耐性が高すぎる気がする。

 あの時は特に何も思わなかったけど、ここまで平然としているのはさすがに――


「あれ?」


 ある仮定に思い至り、口から疑問の声が漏れる。

 もしかして――

 俺は、よろよろと歩くリンスレットを尻目に、ブラピの近くまで歩いて行った。


「な、なぁ、ブラピ……」


 口に手をあて、ブラピの耳元で、小さな声で囁く。


「なんだい?」

「ちょっと確認したいことが……」

「確認? いいけど……」

「もしかして、だけど……その男、鼻が使えない・・・・・・んじゃないのか?」


 もうそれしか理由は考えられない。

 たまたまこの姿に決めた……とか言ってたけど、あれは嘘だ。

 どこの世界の少女が、好き好んで中年の男になど変身するんだ。


「……よくわかったね」

「やっぱり」


 案外、認めるのが早かったな。

 というか、この無駄にいい声も鼻声なのだとすれば、得心もいく。


「でも、それがどうかしたのかい?」

「……アンの能力だけど、他人には使えないのかなって」

「使えるけど……ああ、なるほど。そういうことか。うん、いいよ。やってみよう」


 ◇


「――わあ! すごいすごい! さっきまでの悪臭が全然しないわ!」


 ぴょんぴょん。

 リンスレット(?)が嬉しそうにその場で飛び跳ねる。

 これで問題は解決し、俺たちは城へ行くことが出来るようになった。

 ……のだが、俺はいま、一体何を見せられているのだろう?


 激臭のミィミ国地下下水道にて、ブラピがふたり。


 正確にはアンとリンスレットなのだが……あれほどまでにすらりと、しなやかな体のリンスレットが、たぷたぷと腹肉を揺らしながら喜んでいる。

 地獄かな?

 誰だこんなことを提案したやつは。

 俺だった。


「……うん? どうかしたの? ダイスケ?」

「きみも、この姿に変装しておくかい?」


 同じ顔。

 同じ声。

 同じ腹の男に、同時に話しかけられる。

 一瞬頭がバグりそうになったが、俺は心を強く持った。


「いや、俺は俺のままで頑張るよ」

「そう? 残念だな……」


 ブラピが残念じゃなさそう・・・・・・に言う。


「……それよりも、リンスレットはそれでいいのか?」

「それって?」

「もちろんそのだらしない体だよ」

「なに言ってんのよ、ベストよベ・ス・ト」

「なわけねえだろ」

「まぁ、ちょっと体が重くて、頭に毛がないぶん寒いけど、これはこれで悪かないわ」

「いや、俺が言ってるのはそういう意味じゃなくて……」

「え? なに?」

「その、ブラピのブラピ・・・がまるだしで大丈夫なのかなって意味なんだけど」

「ああー……」


 どうやら察してくれたようだ。


「リンスレットって、男になるのは初めてなんだろ?」


 口をへの字に曲げて俺を見るブラピリンスレット


 ……おい、なんだこのルビは。

 ややこしすぎる。

 こんな表記じゃ混乱してしまうだろう。


────────────

 突然失礼します。作者の水無土豆です。


※以降はブラピ形態のアンは〝ブラピ〟

 ブラピ形態のリンスレットは〝リンスレット〟と表記させて頂きます。

 読者様におかれましては面倒をおかけしてしまいますが、ご容赦ください。


 以上、注釈でした。

────────────


「――うん、俯かなきゃいいだけだし」

「そういう問題なのか?」

「というか、まぁ……ブラピのブラピは、見慣れてるしね」

「……そういう問題なのか?」

「それよりも二人とも、問題も解決したんだし、さっさとここを抜けるよ」

「それもそうだ。……エルネストたちの頑張りに恥じないようにしないと」


 俺たちが地下下水道に入ってから、それなりの時間が経つ。

 しかし、さきほどから兵士のひとりも俺たちを追ってこない。

 つまりこれは、エルネストたちが踏ん張ってくれているということだ。

 俺たちは改めて、縦一列になって、先を急いだ。


 ◇


「――さて……止まるんだ。二人とも」


 ブラピがそう言って足を止める。

 ここが終着点なのだろうか?

 俺はブラピのさらに前方を見た。

 その先は行き止まり。

 垂直に立てられた梯子があり、おそらくあれを抜けると、王城へ着く――

 筈なのだが、それよりも、目を引くひとり・・・


「――やっぱりね。ここを使うって思ってた」

「アレイダ……!」


 俺の後ろから、リンスレットの絞り出すような声が響く。


「なぜ裏切った! アレイダ……!!」

「え、ぶ、ブラピ……? あんた、なんで二人もいるのよ?」


 ……まあ、そういう反応になるよな。

 しかしそんなことはお構いなし。

 リンスレットは憤怒の形相を浮かべながら、俺を押しのけ、ブラピの隣まで移動する。


「……ブラピ、あたしの変装を解いて」

「だけど、いいのかい?」

「はやく……ッ!」


 ブラピはため息をつくと、リンスレットの額に手で触れる。

 その瞬間、リンスレットが元の獣人の姿に戻った。


「な、なるほど……これがブラピの……」


 アレイダが驚いたような顔で、口に手をあてる。


「よくあたしの前に姿をだせたわね、アレイダ……!」


 ブラピを押しのけ、前へ進もうとするリンスレット。

 しかし――

 がしっ。

 今度はブラピがリンスレットの腕をしっかりと掴んだ。


「リンスレット。冷静になるんだ。これはどう考えても罠だ」

「わかってる!」


 

 その言葉に直前――エルネストのくれた情報が、俺の中で思い起こされる。

〝オリジナルの爆弾〟

 威力を落としていない爆弾。

 ブラピの言うとおり、この状況でアレイダに不用意に近づくのは危ない。


「だめだリンスレット。おまえもエルネストから聞いただろ? アレイダは間違いなく――」

「あたしは!」


 俺の二の句が、リンスレットの声にかき消される。


「リンスレット……」

「それでも、あいつをぶん殴らないと気が済まないの……!」


 それを聞いたブラピが俺の顔を見る。

 俺はゆっくりと、首を横に振ってみせた。


 わかってる。

 本来はここで、是が非でもリンスレットを抑えなきゃならない。


 ――しかし。


 たとえ大局を見失っても、人には超えなきゃならない壁がある。

 無視できない物事がある。

 リンスレットとっては、これ・・それ・・なのだ。

 ブラピもそれを察したのか、リンスレットの腕から、ゆっくりと手を離す。

 ズン!

 ズン!!

 ズン……!!

 リンスレットは大股で、物怖じすることなくアレイダに近づいていく。

 俺とブラピも、来たるべき衝撃に備え、身を屈めるが――


「……あれ?」


 俺とブラピが声を漏らす。

 何も発動しない。

 どういうことだ?

 罠じゃなかったのか?

 そんなことを考えながらも、リンスレットはアレイダとの距離を詰めていく。

 そして――


「……いい度胸してんじゃん」


 アレイダを見下ろすリンスレット。


「あんたこそ……」


 リンスレットを見上げるアレイダ。

 一触即発である。

 両者はもはや、互いの息がかかるほどまで近づいていた。

 

「あんた、ぶっとばされる覚悟はできてるんだよね?」

「誰に向かって言ってんだか……」

「あんた以外ここには誰もいないでしょ」

「望むところよ。あんたこそ、覚悟はできてるんでしょうね」

「ふん、悪いけど手加減できな……」


 まるで一時停止をするように、突然リンスレットが硬直する。


「あ、ごめ、ちょっと待って……」


 リンスレットはそのままの体勢で、アレイダを見下ろしながら言う。


「はあ? なに?」

「ごめん」

「だから、なにがって――」

「オロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ……!!」


 びちゃびちゃびちゃ。

 リンスレットの声と、粘り気を含んだ水音だけが下水道にこだまする。

 両者なぜか直立不動のまま。

 アレイダに至っては顔面で、それ・・を正面から受け止めている。

 最悪だ。

 ……いや、まあ、わかる。

 解除した途端、嗅覚も戻ったのだろう。

 アレイダと話したぶん、いっぱい吸いこんだのだろう。


 だけど、今はそういう空気じゃないじゃん。


 そしてそれ・・は、リンスレットの胃の中のものを全て出しきるまで続いた。

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