ハチと隊長


※この話は実話を元に色々な経緯を分かりやすく再構成しています。詳しい話が知りたい方はwikiがあるので是非そちらをお読みください。




昭和16年の2月の末、当時中国に駐屯していた日本陸軍歩兵第236連隊第8中隊第3小隊長の成岡は産まれたばかりの豹の子供を保護する。そのまだ子猫のようだったヒョウは隊内で丁重に育てられ、ハチと名付けられ皆に可愛がられていた。当初、成岡達は「処分」を言い渡されるのを恐れ、連隊長にハチの事を隠し続けていたが、やがてバレるも、成岡自身がその連隊長の前でハチは危険な存在ではないと証明してみせて、以降は堂々と「連隊のマスコット」としてハチに肉を提供してもらったりするようになった。そしてしばらくハチは成岡達と中国で生活しながら成長していたのだが、やがて1年以上が経って戦局も変わり成岡は危険な戦いにハチを巻き込むわけにはいかないと判断。彼の地元、高知の柳原動物園へ受け入れを求めるが食糧難を理由に断られ、大阪の天王寺動物園にも照会してみたが既に雌雄2頭のヒョウを飼育中だったため受け入れはできないとの返事が来た。そこで以前、慰問団として来て、幼いハチの事を可愛がってくれたダンサーに連絡を取り、その彼女から朝日新聞の記者を通じて東京、恩賜上野動物園へ話を持ち込むも上野動物園側も正式に受け入れを決めるまでには時間を要し、成岡の元に返事が来たのは5月3日、彼らの部隊が出動する二日前の昼の事であった。そこには「是非、送っていただきたい。大いに歓迎する」と書かれており、成岡も部下達もハチが生き永らえる事を心から喜んだ。そしてこの二日間、成岡達はハチとの別れを惜しんだ。部下の一人、橋田はハチのためにノロジカを仕留め、その肉をふるまった。彼らには明日の命も分からぬ自分達の代わりにハチには生を全うしてもらおうという思いもあった。

そしてこの際、中隊の1人から「ハチという軽い名前では可哀想だ」という話が出た。ハチがせっかく東京に行くのにふさわしい名前を付けようという話になり、当時の政府が掲げていたスローガンの「八紘一宇」から取り、八紘の字をあててはどうかという話になり、これには賛同者ばかりでハチは「八紘」と呼ばれる事となった。成岡はハチに東京に送り出す手順等を初年兵係教官の三宮少尉に託して5月5日に部隊とともに出発していった。この時の彼には、まさかこれがハチとの今生の別れとなろうとは知る由もなかった。



数日後


ハチは軍用トラックに乗せられ兵営を後にした。その時のハチは成岡達に置いていかれた事がわかっていたのかしょんぼりとした様子であったという。ハチの輸送の為に大きな竹製の籠が作られて嫌がるハチをその中に押し入れて約15キロ先の石灰窰という地まで送り、当地で憲兵隊長を務めていた赤松大尉の厚意によって軍用犬用の檻を借用、輸送船に積み込まれた。その積み込みの作業の際はハチの事を伝え聞いていた警備隊員や在留日本人などがその姿をひと目見ようと埠頭まで見送りに訪れていた。そして上海で日本行きの船に乗り換えてハチは東京に向かった。船内では船員の服装が兵士と似通った国防色の服と戦闘帽(いわゆる国民服のような格好)だったため、ハチは終始落ち着いた様子であり、人間に育てられ人懐こいハチに船員達も心を開き、上甲板に置かれていた檻の扉は開け放たれ、ハチは船内のあちこちを走り回ったり高いマストのてっぺんまで登ってみせたりと冒険を楽しんでいた様子であった。そしてハチを乗せた船は東シナ海を横断して無事に福岡県八幡市(現北九州市)の日本製鐵の埠頭に到着。ここからハチは列車に揺られ、5月30日に東京汐留駅へ到着。ハチの事については既に報道されていた為、人々の注目を集めていた。

上野動物園へ到着したハチは用意されていた檻を嫌がって移ろうとせず、動物園の係員達が困り果てていると、その様子を見守っていた群衆の中から1人の兵士が進み出て「私にやらせてみてください」と申し出た。その吉村という兵士はかつて成岡の部下としてハチと共に過ごしていた人物だった。彼は数ヶ月前に千葉の陸軍航空隊東部第105部隊に転属となっており、電車を乗り継いで駆けつけてきていたのだ。そして係員の逡巡をよそに彼が「ハチ!」と呼びかけるとハチも彼に気づき、大喜びでじゃれついて再会の喜びをあらわにした。そして吉村はハチを檻へと導いて、ハチも素直に従った。この日からハチは部隊のマスコットから子供達の人気物となった。


3ヶ月後



遂行中だった作戦がほぼ終わり、どうしてもハチの事が気がかりだった成岡は新聞社の支局を訪ねた。彼を出迎えた記者は「あなたが、あの豹を上野動物園に贈ったご本人なのですか!」と即座に反応し、成岡が驚いているとその記者はハチの記事が載った新聞をわざわざ探し出してくれた。その記事を目にした途端、成岡は感謝と安堵の涙を流し、記者の好意でその新聞を貰い、宿舎に帰ってハチの無事を他の兵士たちにも知らせた。その夜、成岡達はハチの幸せを祝って久々に酒を酌み交わし和やかな時を過ごしたという。戦闘が起こる度に仲間が減っていき、次は我が身かもしれぬという境遇の彼ら兵士にとって、ハチが無事だという事は何よりの喜びであった。やがて成岡の元にハチを運んだ船の船長からの手紙が届き、そこに書かれたハチの船旅の内容を読んで、成岡は再び安堵した。その頃、ハチは園内でも有数な人気者で、人懐こくおとなしくて、成岡達を思い出していたのか時折寂しげに彼方を見つめるハチには飼育員をはじめとした動物園関係者も一様に好意を寄せていた。ハチは来園者の中にカーキ色の軍服を見つけると柵に頬ずりして甘えるような仕草を見せることもあった。

翌昭和18年4月16日には上野動物園園長代理、福田が成岡へ向けてハチの幸福を伝え安心させる手紙を書いたりもした。しかしこの頃になると太平洋戦線における日本の優勢は揺らぎ始め、上野動物園では福田が陸軍東部軍司令部獣医部から、非常時における動物園側の対策についての文書提出を求められていた。彼はその求めに応じ「動物園非常処置要綱」を提出。この要綱では園で飼育する動物を「危険度」に応じて4段階に分類。最も危険とされた「第1種危険動物」にはライオン、トラ、ヒョウなどの肉食獣の他、草食獣のインドゾウやカバまでが含まれ、総頭数は49頭にものぼった。

7月1日、「帝都防衛の強化」を理由として東京市は東京府に併合、東京都が発足。8月16日、福田は戻ってきていた園長古賀と共に呼び出され、2人は井下公園課長から「1か月以内にゾウと猛獣類を射殺せよ」との東京都長官大達からの命令を伝達される。射殺命令は園内から銃声がすると周囲の住民に動揺を与えるとの理由で「毒殺」に変更。こうして上野動物園における戦時猛獣処分が開始されることとなった。翌日、福田は職員全員を集め、井下からの命令を伝達した上で、秘密を守るため家族にも口外しないようにと付け加えた。そしてこの日より閉園後に猛獣が数頭ずつ「硝酸ストリキニーネ」という薬物により毒殺されて行った。それから約1か月に渡って「処分」が続き、井下のもとには9月27日付でその総数27頭の処分完了が福田から報告された。その中でハチについては下記のごく短い記述のみであった。



八月十八日 ヒョウ 牡 500 一 硝酸ストリキニーネ 剥製 昭和17年7月寄贈



処分開始後二日目にその生涯を終えさせられたハチ。福田は戦後、自著でその時のハチの様子について語っている。そして「処分」されたハチはその後、剥製にされた。この「処分」をされた動物達のうち、剥製になったのはハチ含めて7頭のみであった。そして成岡は連隊から2ヶ月の特別休暇を許可され8月26日に故郷の高知へ到着。まさかハチがもうこの世にいないとは全く知らない彼は上野動物園の福田あてに電報を打つ。



「ハチ ケンザイナリヤ ナルオカ」



「処分」が続いているさなかの電報に福田は絶句。隠し立てなどはできないと判断して、短い返電を打った。



八ガツ十九ヒ ドクサツス(なぜ日付がズレているのかは不明)



成岡はこの返電にショックを受けた。つい一週間前までは生きていて、自分との再会を楽しみに待っていたであろうハチが既にこの世にはいない。その事実に成岡は打ちのめされて傷心のまま、中国の部隊へ戻って行った。




戦後、終戦の翌年に帰国した成岡は福田の協力もあって当時、都の所有となっていたハチの剥製を引き取り、再びハチと共に暮らす事となった。

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色々短編集 侑李 @yupy

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