第38話

 木内とは度々繁華街へ足を運ぶようになっていたが、女を買ったのはあの日だけだった。


 幾らか打ち解けて、ごく自然に下世話な会話ができるようになっていたけれど、奴も僕も、どこか物足りない風に黙りこくる時間があった。酒気に塗れ、理性と感情の狭間に漂いながら、そこにない女の色艶を求めていたのである。少なくとも僕の中ではあの日の夜が忘れえぬ快楽の象徴として胸の中で怪しく光り続けていた。あの時に感じた恥の傷は既に癒えていて、背負っていた罪の十字架もすっかりおろし身軽だった。そればかりか、進んで悪徳へ走り自らの精神を汚したいとさえ思っていた。罪悪に対する意識が反転したのか欲望が自律を圧倒したのかは分からなかったが、理由などどうでもよく、どの道肉を求めている事に変わりなかった。


しかし、僕としては自分から「また置屋へ行こう」と言うわけにもいかなかったし、木内の方も誘えば自分が金を出さねばならないから(現に酒代はほとんど木内が持つか、払っても少額だった)奴から切り出すという事もなく、途方もなく酒ばかりを煽っていた。



 互いに何か言いた気に口をもごつかせるも心の内を晒す事はない。恥が、見栄が、金のなさが僕らから声を奪い、いい知れぬ落ち着きのながさらに無言を拗らせて、そのままそわりと別れるのである。






「そろそろ行こうか」



 その日も僕は木内と安い酒場へ来て安い酒を飲んでいたのだが、ボトルが空になる前に件の無言が訪れ、堪りかねたとみえる木内が席を立った。「まだ残っている」と渋るも、「今日はよそう」と頑なに言って憚らないものだから、僕は店を出て、足早に去っていく木内を見送り、街頭に照らされていた。



 どこか一人で飲もうか。

 さも慣れた風な、まるで放蕩者のような言葉を秘めて発したが、それまで木内としか歩いた事のない繁華街をふらついてみるとどこもかしこも獣の巣窟みたいに見えてしまって足を踏み込むのは戸惑われた。ならばあの中年女の店かなと思い立ち進んでみると暖簾が仕舞われている。行きどころなく怖気付いた僕は、いつものように酒を買って帰ろうと踵を返すと、急に肩を掴まれ、グイと引き寄せられた。



「兄さん。遊んできなよ」



 引っ張られた先には、厚い化粧をした女の顔があった。肌に布を貼り付けたような姿をした女だった。

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