第37話

 女の店では結局ビールを一瓶空けただけだったが、飲んでいる間、女はひっきりなしに木内を非難し続けたうえ、会計を頼むと「もう帰るのかい」と、体内に溜まった毒を吐き出しきれない様子で名残惜しそうにしていた。

 僕は「はい」とだけ答え、金を出して別れを告げた。

 往来に出ると夜は深まり人は疎らだった。薄い街灯がぼぅ、ぼぅ、と辺りを照らし、これまでと違う風に見えた。それは幻想的でもあり恐ろしくもあったが、酔っ払った人間の鼻歌や奇声などを聞くとただの貧乏臭い飲み屋街へと戻り、再び僕を落ち込ませるのだった。忘れかけていた、女を買ったという罪悪感が身を縮ませるのだ。

 恥ずかしい、恥ずかしいと責められているような気分となり、夜長開いていた酒屋へ駆け込むと、いつも手にする安いウィスキーを買って走った。

 一刻も早く遠ざかりたかった。一秒でも外にいたくなかった。どれだけ置屋から離れても自己嫌悪が消えるわけもなく、罪(この時僕は自分を罪人だと信じていた)が軽くなるわけでもない、発作的な逃亡。何度も転び、至る所を擦りむいたり打ち身になったりしながら自室へと戻り、肩で息をしながらウィスキーを下して倒れたのだった。


 それから何時間経った知れない。硬い床に寝そべり、たまにウィスキーを飲んだり居眠りをしたり、また起きたりしていると徐々に夜の臭いが薄れていき、日差しが差し込み、照らす。明るみとなった僕の身体は酷いもので、乾いた血と痣が牡丹のように咲き乱れて、滅多打ちにされて殺された死体みたくなっていた。


 ぼやぼやした意識の中で、僕は傷口にウィスキーをかけて、痛みに顔を歪めながら笑った。酔っ払っていたのか単なる自棄なのかは判断はできない。けれど、正気でいたくないという願望があったのは確かである。痛みと同時に、僕は女の肉の柔らかさを思い出していた。あれほど苦しんだ悩みは既に薄れつつあった。

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