第36話

 中年女は僕を見るなり「あら」と、さも驚いたような声をあげたものの、カウンターの奥に座ったまま灰となっていく煙草を咥えたままだった。



「今日はあのろくでなしはいないのね」



 ろくでなしというのは無論、木内の事でるから、僕は「はい」と頷き、先週と同じカウンターに座りビールを頼んだ。



「安いボトルじゃないから助かるわ」



 その言葉の真意は木内への当て付けである。だが、ここにいない人間にそれを向けたところで、返ってくるのは反響と僕の愛想笑いくらいしかなく、嫌味も空振りにしかならない。

 にも関わらず女がわざわざ奴のビジョンを持ち出したのは、互いに知り合って間もない、他人でしかない僕との共通項を強調し居た堪れない沈黙を回避しようとしたからだろう。店に誰もいないのであれば否応なく僕の存在を意識しなければならないのだからそれも止むを得ず、申し訳なかった。



「まだ付き合ってるのかい。あんなのと」



 問いに肯定すると女は露骨な溜息を落とし、根本まで火が差し掛かっていた煙草を灰皿に捨てて鼻を鳴らした。



「やめときなよ、あんなのは。あれはね。人間のクズなんだから」



 人間のクズとはなんだろうか。疑問を挟む余地もなしに、女は続けて口を開く。



「あれはね。どうしようもないんだよ。酒飲んで暴れるし、女は殴るし。この前だってね。入れ込んだ店の女に体よくあしらわれていたら、怒鳴り散らした挙句に追い出されたんだから。いい歳して、情けないよ」



 聞いてもいない話だったしさして興味もなかったが、木内がしきりに女はいらないと喚いていた理由が分かった。奴はどうしようもなく寂しく、また、肥大化した自尊心を満たさずにはいられないのだ。だから僕に敬われようと金を使い、女を求めるのである。自身より弱い者を側に置き仮初の自分を演じねば、生きてはいけないのだ。



「可哀想ですね」



 嘲笑い、呟く。

 それは皮肉をこめた小さな批判のつもりだったが女には伝わらず、「可哀想なもんかい」と忌々しげに吐き捨てられた。紫煙の臭いのする口が不快だった。


 この女も僕も木内を批判できる立場にない。僕らは等しくろくでなしで、クズである。だが、だからこそ同族を嫌悪せねばならないのだ。木内も、女も、僕も、そうしなければ、誰とも繋がれないのだから。

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