第24話 死に難いは地獄

 水の匂いにハッと目を覚ますと、後頸部に重石をつけられでもしているかのような身体の不自由さに軽く唸り声を上げるしかない。

 体重の何十倍の重力が加えられているのかわからない。押し付けられ、下側になっている頬の皮膚が傷ついているのは容易にわかる。

 誰かの足で直接的に踏みつけられているような感覚ではなく、重すぎる空気がのしかかっているそんな感じがする。

 湿気をはらんだ生暖かい空気がじっとりとした汗と混ざりあい、体温をじわりじわりと奪っていく。

 頭を上げることが叶わない。右腕もダメだ。足はどうだ。足も動かない。

 なるほど、左腕だけはまだ幾分自由が効くのか。

 味方と判ずるには何一つ要素のない引き摺り込まれ方だったと苦笑いするしかない。

 光が差し込むことのないこの場はあまりに暗すぎて、周囲の状況を掴むことができないどころか、自分が今どんな状況にあるのかもわからない。

 えげつない環境にぶち込まれたのは想像にやすいが、意外なほどにこの場を満たしているのは澱んだ空気でもないし、水の匂いも正常だ。

 寝転がっているこの地面は硬く、ゴツゴツしている岩肌だろうなと推測しながら、左腕に渾身の力をこめて上半身を起こすことに成功した。

 一度、身体を動かすと数秒前まで感じていた重さが吹き飛んでいた。

 そういうことかと俺は小さく息を吐いた。

 何十倍もの重力がかかっていたのではなく、痺れていたのだ。

 高所から叩きつけられたのが原因か、はたまた毒を食らったか。

 なんとなく後者である気がした。

 敵側には毒を持つ妖魔を操る輩がいる。でも、かつてこちら側にいたとある有名人もまた妖魔・妖獣を操ることができたと聞いた。そして、こちら側にいた輩がさらに厄介なのは無味無臭の猛毒を息をするより簡単に獲物の皮膚の内側へ痛みを感じさせることもないままに盛る。殊に、彼が行使する神経麻痺毒はいつ、どこで、それを体内にうちこまれたのかがわからず、毒のまわり方も千差満別、解毒方法を読み解くまでに時間がかかりすぎて首を落とされる可能性が爆あがりするという危険極まりないもの。

 だけれど、ある特定の要件を身に宿しておくことで、その厄介なはずの猛毒の解毒が瞬く間に完了できる。

 念には念を入れておこうと言ってくれていた師匠、公介のドヤ顔が脳裏に簡単に浮かんでくる。

 俺が口にするもの全てに公介は宗像貴一の血液を少量ずつ混ぜていた。貴一の血液は良薬ではなく、むしろ猛毒の類。だけれど、彼の麾下にある者にはありとあらゆる毒への耐性を恐ろしいまでに跳ね上げる作用があるらしい。

 貴一の血液を摂取し続けていた俺ですらこれほどの痺れに襲われるということは、貴一に匹敵するレベルの人間が仕掛けてきたということと理解しておくべきだなと小さく息を吐いた。

 

「ようこそ、月の無限地獄へ」


 男の声が反響して聞こえる。

 閉鎖空間に投げ込まれたことだけは確認できた。

 前方からゆったりとした足取りで近づいてくる誰かがかつての自分の守護者であることも理解できた。

 それほどに男の声は美しい響きを持っており、かつての経緯がなければ俺はこの男の声にきっと今でも安堵と喜びの声をあげていただろうと思う。

 だけれど、今は恐怖の対象でしかない声だと身構えた。

 目でその姿を確認できない以上、視覚に頼らず空気がわずかに揺れるその振動をうまく感じ取るしかない。

 目隠しをして相手の気配を読み、身を引き離して避けるなんて稽古がいるのかと疑問だらけだったが、さすがは俺の師匠だとため息だ。

 公介はそこらによくいるそこそこの黄泉使いだと自分のことを評価していたが、あの貴一が『公介クラスがそこかしこにいられては困る』と苦笑いするほどの男だ。

 

『君の師匠より強い相手は指の数ほどもいないから、もし敵側の誰かと会敵した時はびびらずに行け』


 貴一がそう言ってくれたのを思い出して、心を落ち着かせるように長い息を吐いた。

 一緒に引きずり込まれたはずの二人の気配を近くに感じ取れないから、ここは自分一人でなんとかしないといけない場面だ。

 シュンと風を着る音がして、咄嗟に首をのけぞらせた。

 音に遅れること、1秒もないほどで繰り出されてきた拳を両腕でガードしながら、後方へと飛び退った。ガードした腕に走る痛みは思った以上に軽い。本気で打ち込まれていないことだけがよくわかる。相手は様子見しているのだ。

 

「どれが本当の貴方なのか、教えてください」


 俺の問いに応えるように周囲に灯火が複数現れ、男の姿を映し出した。

 皮膚は蒼白く、とても血が通っているとは思いがたい。

 薄い唇もまた紫色に近い赤だ。

 すらりと伸びた四肢、身長は宗像の男たちよりは一回り小柄だが、170後半といったところか。確実に俺よりは高いのがほんの少し癪に触った。

 長く伸びた硬質の髪は塗れば烏、貴一の髪色と似ているのに光沢がない。

 瞳の色は琥珀色と淡い蒼色と片方ずつ色が違う。いや、違うな。淡い蒼色に見える方はおそらく見えていない。常に漆黒の眼帯をしていた姿が朧げながら記憶の片隅から溢れ出してきた。


「博雅春子」


 目の前の男の名が自然にこぼれ落ちた。

 ほおというように男が面白そうに片方だけ口角を上げている。

 貴一同様に春の号を持っているのに、この男には俺を眷属にして行使するだけの核たる魂がなかった。それ故、俺は貴方は違うのだとその手を振り払った。そして、ほぼ抹殺されたに近い状態に追い詰められた。


「大したものだね。 あれだけ幼かった君が、私を覚えていたとはあっぱれだね。 私はね、月の勝利を願って、君という存在の受け皿という受け皿を全てに置いてはじき切っておくつもりだったのに、邪魔が入りすぎたものだから、こうも事がややこしくなってしまった」


 機能していないはずの右の眼が怪しい光を灯し始める。

 喉が焼け付くような痛みが急激に走り、俺はあっと声を上げるしかなかった。

 目の前に立っている男との距離は確実に10メートル以上あるのに、俺の喉元に白い手が絡みついて締め付けてくる。

 現実を理解できず、その腕の締め付けから抗うように後退しつつ、男との距離を確認する。

 おかしい。確実に距離はあるのに、どうしてこんなことができる。

 もがいても、もがいても絡みついてくる腕を解く事ができない。

 無線から漏れてくる音のような誰かの声がする。

 直接的に脳裏に響いてくるのだけれど、音が割れてしまい、言葉を聞き取る事ができない。


【絡みついている腕に意識を向けて、一気に焼ききれ】


 音の断片をつなぎ合わせると、ようやくメッセージであることがわかった。

 一気に焼き切れと言われても、どうやってすれば良いのかわからない。

 炎で一気に悪鬼を焼き尽くしてしまうのは宗像の技だ。

 貴一も雅も公介も泰介も、皆、美しい花が咲き乱れるような炎を扱う。

 それを俺がどうやってやれば良いのか。


【念じろ】


 誰の声だ。

 音が割れているから、本当にわからない。

 だけれど、もうそれを信じるしかない。


「燃えやがれ!」


 腕を睨んで言葉に乗せても何も起こらない。

 くそう、酸欠だ。意識が朦朧としてきた。

 視界が大きく歪み、霞ががってくる。


「終わりだよ」


 グサリと鋭利な刃物が胸に突き立てられた感覚がする。

 痛いという感覚より、一気に迫り上がってくる温かい流れが喉を占拠し、口腔から溢れ出したことへの驚きと焦りが先行していた。痛みより息苦しさが勝り、幼いあの日に体感した恐怖など可愛らしいものだったのだと理解した。

 

「世界にはバランスというものが必要だ。 善も悪もバランス良く均等。 強弱もまた同じこと。 月は君という大きすぎる僥倖を失うという途轍もないマイナスを被ることで悲劇を回避する」


 グサリと2度目の衝撃を身に受けながら、歯を食いしばって男を見た。

 能面のように表情のない彼の顔。

 かつての記憶が蘇り、俺は小さな笑い声が漏れた。

 俺が知っている彼は博雅春子の王号をもつ明珠という名の傑物。誰よりも理知的で、静かな男。微笑むことも怒ることもほとんどなく、情緒の乱れも感じ得ない。

 ただ穏やかな波動はぬるま湯のようで、寒さも暑さも感じる事がなく、危機感など微塵も覚えることもない。今思えば戦慄が走るほどに飼い慣らされていた。

 即座に俺を殺さなかった理由は、俺がどう判断し、資格を彼に与えうるか否かをただ待っていたのだろう。 

 俺はこの目の前の男の手を振り払った。それが死刑執行の条件だったというわけか。


「解毒能を身に付けたのはさすがと言わざるを得ないけれど、夜を統べる者の血を受けすぎたことが仇となったね。 貴一を恨んで、死ぬが良いよ。 彼が死んでいてくれていたら、君は血を受けることもなく、もっと楽に死ねたんだ」


 死に難いというのは苦痛でしかないからねと彼は笑った。

 宗像貴一は害でしかないと呟く時に初めて、彼の表情がわずかに乱れた。

 

「天眼は害でしかない。 そして、君もまた大禍だ。 月にとって、最も出会ってはいけない組み合わせだったのに、太陽の輩は上手くやってくれたよ。 君を守護した太陽の王は君を生かすことで、月のバランスを突き崩す戦法を取ったのだよ。 前にも教えてあげたでしょう? どちらにもなれるが、どちらにもなれない。 愛されていると思っていたとしたら、君の頭の中はお花畑だよ」


 3度目の衝撃がくる。

 今度は確実に深い部分に届いた。あまりの激痛に俺は思わず呻き声をあげてしまった。滴下音がして、足下に目をやるとこぼれ落ちる血液が足下に溜まりを作り始めていた。足が30cmほど浮いている。首に絡みついたままの腕が俺の体を持ち上げていたのか、どうりで苦しいわけだ。


「明珠などと期待された名を持つというのに貴方はつまらないな」

「それを言うのなら、君の穎秀という名はまるでお飾りじゃないか。 この状況で、ちっとも利口とは言い難い発言をしているじゃないか? 死にきれるまでどれほどの時間がかかろうとも付き合ってあげるよ。 殺して欲しいと懇願し続け、あの時、落命しておくべきだったと後悔するまでいくらでも。 良いかい? 得てばかりでは必ず痛い目を被る未来がくる」

「まだ分かりもしない未来に怯えて、今を疎かにする。 だから、貴方は違うというんだ。 物事にバランスなんて考えないのが本物だ。 いくつ名をお持ちですか? 明珠、万葉、まだあるのだろうが、どの名を持ってしても本物になれんかったとしたら、たいそう哀れだ」


 俺は貴一を、静を思い、ニヤリと笑んだ。

 彼らは本物だ。だから、明珠など軽く超える存在となれる。

 やけに冷静な自分にきづき、死に難いと言った目の前の男の言葉を思い出した。

 月は不死に近い存在と評される。

 ならば、どれくらいまで俺の身体は持ち堪える事ができるのだろう。

 心が折れて、魂を砕かれるその時までこの苦痛がひっきりなしに続くのだろうか。

 

「死に難いって地獄だけれど、意外と有難いな」


 俺は4度目の衝撃を受け止めながら、明珠の肩口を掴んで引き寄せた。

 ここまできたのなら、もう本能に頼れ。

 喰らえと本能が叫んでいる。

 今ならいける。

 明珠の首筋に噛み付けば良い。魔に落ちた者なのだから、糧に変えても罪はないはずだ。俺の本能は獣だ。穢らわしい物でも食せばただの糧。後に百害しかないだろうが、それでも死に難いのなら大丈夫だろう。

 武装すべき論理はこれで良いと踏み切ることにした。

 大きく口を開けて噛みつこうとした瞬間に、俺の左目に針が刺さるような痛みが襲った。その直後、凄まじい風圧の砂埃に飲まれ、身体が勢いよく吹っ飛ばされた。洞窟の岩肌に打ち付けられ、強烈な背の痛みに呼吸の仕方を忘れた。そのまま横倒しになる身体を支える余力もないまま、思いっきり地面に激突した。


「新! 息をして!」


 美蘭の甲高い声がして、俺の上半身は勢いよく、抱き起こされた。呼吸をしろと、優しく背をさすってくれる美蘭の袖口を無意識に握りしめていた。


「もう大丈夫だ、息をして」

 

 真規の声がして、のろりと視線を上げるとすぐ右横に幼馴染の顔が見えた。

 あまりの安堵感から息が漏れた。それをきっかけに呼吸の仕方を思い出し、俺は必死に息を吸った。

 首にまとわりついた腕は赤黒く焦げており、真規が手で払うと、ずるりと地に崩れ落ちていった。

 再度、爆風が洞窟中に吹き荒れ、その爆発的な破裂音が閉鎖空間に反響して、鼓膜が揺れた。美蘭が吹き戻される風から守るように咄嗟に抱きしめてくれたが、彼女の小柄な体躯では覆いきれず、余すことなく砂の礫を浴びた。

 ごめんと美蘭が苦笑いするから、俺はそれに肩を竦めるだけだ。

 差し伸べられた真規の手につかまって、俺はゆるゆると立ち上がったが、すぐに膝折れしてしまった。真規が心得ていたように腰の辺りに腕を回して立たせてくれたから、すっ転ばずに済んだ。

 何が起こったのか掴めず、目を凝らすと、10m以上離れている場所に大柄の男の背が見えた。


「お前の狙い通りにはさせへんで?」


 190cm手前の偉丈夫は、俺を貫いていた刃をもぎ取っており、絶対強者に思えていた明珠の胸の上に片足を置き、その首元にそれを突きつけている。

 白色の長衣の袖は泥に塗れ、裾は破れたままだ。

 背に流れ落ちている白銀の長い髪は柔らかく波打つ曲線を描いており、その髪もまた乱れたままで、ところどころに泥に塗れていると言うのに、光を弾く。


「しーちゃん」


 おう、とその人物がこちらを見てニカっと笑っている。

 静の左目が赤くみえる。血を流しているのだろうか。

 肩口もざっくりとやられているではないか。

 明珠をぐりぐりと踏みつけながら、静は声高らかに語った。


「色々考えんのは向いてへんから辞退したわ。 俺が動いたら、誰かが死ぬような連動システムが組んであったとしても! もういっか、どなたか存じませんが、死んでくれ、ごめんやでって感じや。 そもそも! 他所様に気遣って、この俺様が大人しくする必要ある? いや、ないやん? せやから、ぶっ壊すことにした」


 この俺様至上主義発言はまごう事なき高階静だ。

 だけれど、俺の知らないもう一人の静の姿がそこにはあった。


「最低限、新がやられた分は刺す」


 静は新の分と抑揚ない声で呟きながら、取り上げた日本刀で明珠の右肩を思い切り突き刺した。そして、その次は左肩、両掌、そして、最後に俺からのご挨拶と下腹部に容赦のかけらも無いほど深く深く突き刺している。

 あの明珠が身動き一つ取れないのは、玉三郎だ。

 目を凝らすと、玉三郎が変じている特殊な杭が明珠の四肢を地面に打ち付けているのだ。

 

「おい、万葉。 お前を何回刺したって今ここで死んでくれんのはようわかってんねん。 いつまで痛いふりしてんの? もしかして、ひょっとしたら死ねるかもとか思ってる?」


 首に目がけて刃を振り下ろした瞬間、明珠がその刃を手で受け、のろりと身体を起こした。


「こいつ、無限地獄継続中やから普通に切り刻んでもまた復活すんのよね。 何体あるかもわからんし、とどめの刺し方もわからん。 月も災難やな、こんなとんでもない化物くんを抱えてんのやから。 何を狙って、何を待ってるのかわからんが、一つ言っておくとしたら、お前、俺を本気で怒らせたでってことな」


 玉三郎がひょいと静の肩の上に登ると、思い切り、あくびをした。


「静はそもそもやる気あらへん王ってことで通ってんのやで? それがやる気出してしまうかも知れへんって、この意味、あんた、一刻もはよう理解しておいた方がええよ?」 


 明珠が薄く笑んで、静との力比べに転じた。

 素手だというのに、日本刀の刃を押し上げて、静の身体を数メートル吹き飛ばした。


「始まりの黄泉使いとして潜り込んできた時から私は君が一番嫌いだよ」


 手を軽く払う仕草をすると、明珠の手にはもう傷がない。

 恐ろしいほどの回復力だ。


「意思疎通バッチリやん? 黄泉使いは好みの連中ばかりやったけど、俺もあんたみたいなお利口おバカは大嫌いやったで?」


 お利口おバカという静の表現に俺は何となくわかるかもと笑ってしまった。

 賢すぎると愚かになる。静はそう言いたいのだろうが、如何せん、語彙が不足している。


「貴一があれほどまで無防備に深い眠りに入ってくれるとは好都合だと踏んだというのに、天は嫌になるほどに鳳凰殿に肩入れする。 宗像暉? それとも、高階静? それとも、緋賢? どれで呼ぶのがお好み?」


「どれでも結構や。 不毛などつき合いやってわかってるけれど、こっからあちらへ戻らなあかんから、お前、一旦、ボコボコにするわ」


 静はふっと息を吐いて、玉三郎を双刃の槍に変えた。

 礼儀として槍でぶっ殺し合いましょうやと静が明珠に向かって飛びかかっていった。

 


 

   


 

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天は黎明の雷を知る ちい @chienosuke727

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