3日目 任務は徒然なるままに ①

 三月某日木曜日。

 窓が閉まっていても外からはあいにくの雨音が響いている。

 中条さんのスマホのアラームが鳴り出した。起床時間だ。

「……んぅ?」

 中条さんはアラームの音をかすかに認知したのか、まぶたがぴくぴく動いている。

「んん~っ……」

 けれど、まぶたが開かれることはなく、彼女は鼻先まで毛布をかぶった。

(無防備だなぁ……)

 こんな中条さんを、ご家族以外でお目にかかれてる男は僕だけなのか。

 ……いかん。よからぬ思考にふけるところだった。

「中条さん、朝ですよ。起きてください」

 彼女の身体を優しくゆする。乱暴にゆすると壊れてしまう気がして。

「やぁだぁ。まだ寝るぅ~……」

 しかし中条さんは駄々をこねる子供のように顔を歪ませて、ついに頭にまで毛布をかぶってしまった。

「遅刻してしまいますよ」

「はっ! 仕事!」

 遅刻のワードを耳に入れた瞬間、即座に覚醒した。

 がばっと毛布を引きはがして起き上がり、アラームを解除した。

「……あ。お、おはよう、蓑田君」

「おはようございます」

 中条さんは僕の顔を見るなり咳払いをして呼吸を整えた。

 朝の諸々の準備を終え、傘を持って玄関を出た。


「雨だとこんな弊害もあるんですね」

「弊害?」

「相合傘しなければいけません」

 僕たちは一つ傘の下で二人並んでいる。早い話が相合傘だ。

 中条さんが所持しているビニール傘はさほど大きくない。お互い密着しないといとも簡単に雨にやられてしまう。

「私と相合傘するの、嫌なの?」

「そんなことは……」

 拗ねてしまったのか、中条さんは更に身体を僕に寄せてきた。これはとんでもない反乱だぞ。

「もっとくっつかないと、お互い濡れちゃうでしょ」

「そ、そうですね」

 二人で傘を支える。僕は右手、中条さんは左手で。

 雨と傘のおかげか、今までと比べて周囲からの奇異な視線は少ない。

 ただし、相変わらず中条さんに注がれる熱い視線は多い。彼女の魅力に手錠も相合傘も関係ないのだ。


    ◆


「中条先輩、蓑田さん、おはようございます!」

 今日も先に出勤していた平木田さんと挨拶を交わすと、彼女は僕たちを交互に見て小首を傾げた。

「お二人とも、今日は雨ですけどどうやって傘を差したんですか?」

「相合傘よ。この状態だからね」

 中条さんが手錠の鎖部分を揺らすと、カチャリと無機質な音が響いた。

「ふぅーん……」

 平木田さんはジト目で僕を睨んできた。

「そんなにジロジロ見てどうしたの?」

「失神してただけでーす」

 彼女は不機嫌そうに目を逸らす。

 目を開けたまま気軽に失神するって結構ヤバくない? 病院行くべきでは?

 心配になった僕が平木田さんを見つめると、

「わ、私の顔をあまりジロジロ見ないでくださいっ」

「ご、ごめん」

 顔を真っ赤に染めた平木田さんに注意されてしまった。

 なにこのやりとり。


「パトロールに行ってきます」

「はい、頼んだよ」

 今日の当直担当は平林所長とのこと。昨日もずっといたけどよく身体持つな。

 平木田さんは今日もパソコンとにらめっこしており、村上さんは交番の外で立番たちばんをしている。当直明けの岩船さんは既に退勤した。

 ……なんで村上さんがいるんだろう? 非番じゃないの? まぁ、いいか……。

 僕たちは相合傘でパトロールに出た。パトロール手段は徒歩だ。

「雨の日はさすがに自転車には乗れませんよね」

「それ以前に昨日のバイクの運転も危ない橋を渡ってたからね」

 手錠で繋がったままの二人乗り運転は非常にリスキーだった。現行犯を取り逃がさないために取った苦肉の策ではあったけど、本来なら選ばない選択肢だった。

「中条さんの運転、お見事でした」

「運転には自信があるからね」

 それでも彼女がバイク二人乗りを選択したのは絶対的な自信があったからこそだ。僕の身を背負っていてもなお、事故を起こす気がしなかった。自信は人の行動を後押ししてくれる。

「運転が上手い女性ってカッコいいですね」

「性別は関係ないわよ――ん? あの人……」

 会話を中断させた中条さんは前方に目を留めた。

 そこでは、後ろ姿の人がしゃがみ込んで地面を見ていた。

「どうかされましたか?」

「あっ、お巡りさん」

 中条さんの声に顔を上げたのは三十代くらいの男性。口調も表情も柔らかくて温厚そうな人だ。

「コンタクトを落としてしまって。ハードのやつを」

 本当に困っているようで、苦笑しつつも手は止めない。

「俺、目が悪いからコンタクトがないと特に遠くが見えなくて困るんです」

 男性は遠視だった。そりゃコンタクトがないと困るよね。

「事情は分かりました。一緒に探しましょう。範囲はどこまでですか?」

「ええっと――今僕がいる辺りだけです」

「了解しました」

 ハンカチなどとは異なり、コンタクトレンズはひとたび外れればすぐさま視界に違和感を抱く。ゆえにすぐに気がつくため捜索範囲が狭いのが幸いだ。

 今いる場所は人通りがほとんどない脇の小道。探してる最中に事故に遭う確率がかなり低いのも好環境だ。きっとこの人の日頃の行いがよいのだろう。

「あっ! これじゃないですか!?」

 三人でしばらく探していると、透明の丸い物体を発見した。

「ああっ、これです! ありがとうございます!」

 男性は洗浄液でコンタクトレンズを洗って目に装着した。

「って、あれ? その手錠……」

 復活した瞳がはじめに捉えたのは、僕たちを繋ぐ無機質な器具。

「これは――」

 例によって中条さんが事情を説明してくれる。

「そうだったんですか。まぁ、美人警官も一人の人間ですもんね。完璧である必要は一切ありません」

「いいこと言いますね」

「美男美女が完璧でないといけないなんて幻想は本人たちに余計な負荷をかけるだけです」

おっしゃる通りです」

 僕と男性は笑顔で頷き合った。

「………………」

 しかし中条さんは優れない表情で押し黙っていた。

 気にかかるけど、僕には深入りする度胸はなかった。

 男性と別れた後もパトロールを続けた。


「ただいま戻りました」

「お疲れ、二人とも。村上が日帰り旅行のお土産を持ってきてくれてるよ」

 交番に戻ると平林所長が笑顔で出迎えてくれた。

「ほい、二人とも。これ食べて体力回復するッスよ!」

「ありがとうございます」

 村上さんが僕たちの手に乗せてくれたのはびんの容器だった。中身はベージュ色の何かだ。

「これは――熱海あたみプリンですか」

「さすが中条さんッス! そうなんスよ、昨日退勤してすぐに熱海あたみまで温泉入りに行ってきました!」

 へぇ、温泉。この時期の温泉は気持ちいいだろうなぁ。あと村上さんフットワーク軽いな。

 熱海あたみは温泉を中心とした観光地として有名だ。お土産屋さんは駅前をはじめ様々な場所にあり、お土産の種類も豊富だ。

 熱海あたみプリンは食べたことなかったけど、とろける甘味と食感でとても美味しい。

「村上さーん、もっとくださいなー」

 乞食と化した平木田さんが村上さんにおねだりしている。

「デートしてくれたらいいッスよー」

「……さあってと、お仕事再開しますかー」

 平木田さんはキラキラした視線を送りつける村上さんから目を逸らして事務机へと戻った。

「……平木田さんはあの調子で大丈夫なんですか?」

 中条さんに小声で尋ねてみた。警察官とは思えぬフリーダムっぷりに、僕は彼女の将来が不安になる。

 けれど中条さんは穏やかな表情でプリンを飲み込んだ。

「心配してないわ。あの子はお調子者だけど仕事はちゃんとするし、憎めないキャラだからむしろ世渡りは私より上手なんじゃないかしら」

 個人的には世渡りよりも町を守ることに注力していただきたいですけどね。

「けれど、蓑田君が来てから彼女のお喋りがパワーアップした感はあるわ」

「僕のせいでしたか」

 まさか僕が元凶だったとは。いたたまれない気持ちになる。

「歳も一つしか違わないし、同郷どうきょうなのも大きいんじゃないかしら」

「物好きですね――ん? 同郷どうきょう?」

 知らない情報が飛び出してきたような?

「彼女もあなたと同じ朝霞あさか出身の伊勢原いせはら育ちよ」

「そうだったんですか」

「生まれも育ちも同じ同世代と出会えて嬉しいんでしょうね」

 なるほど。それで僕にフレンドリーに接してくるわけか。

「プリン食べたら仕事に戻ってね。警察官たるもの、気を引き締めるべし」

 平林所長が緩んだ空気を引き締めたので、各々が仕事へと戻る。

 僕と中条さんはパトロールの続きを行うべく交番を出た。


 十分ほど小休憩していた間に雨は止んでいた。傘を差す手間が省けたのは嬉しい。

「パトロールの比率って結構高いんですね」

「こうして警察官が巡回していると悪い連中が警戒するからね」

 なるほど。日常的に警察官が出張っていると犯罪の抑止力になる。

「犯罪を少しでも起こさぬよう、目を光らせるのは大切だわ」

「そうですね――」

「ああっ中条ちゃん、ちょっと聞いとくれよ!」

 町を歩いていると、年配女性が中条さんに話しかけてきた。

佐々木ささきのおばあちゃん。どうかした?」

「旦那がまた私を置いて考古学の調査とかで海外に飛んでっちまったんだよ」

「相変わらずアクティブな旦那様ね」

 二人は親しげな雰囲気で会話している。中条さんも普段よりも砕けた話し方だ。

「残された私からしたらたまったもんじゃないよ、まったく……」

「ふふ、猪突猛進ちょとつもうしんなのも考えものよね」

 ほがらかな雑談が続いたけど、佐々木さんが今更ながら僕を見て会話を止めた。

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