第5話

 部屋に帰って、少しだけのつもりだったのに、ぐっすりと寝込んでしまった。

 侍女によると「起こさなくて良い」という指示が、久しぶりに屋敷に帰った若様からあったという。

 おかげで昼過ぎまで寝過ごした。


 身支度は、いつもより念入りだった。

 湯浴みを済ませ、長い金髪を卵の黄身で洗い、体中に良い匂いのするクリームを練り込まれる。

 ドレスは慎重に選ばれた。薄紅色の瞳に合わせた可憐なピンク。梳いた髪は花やリボンで飾られていく。


「初のお顔合わせですからね、姫様のお可愛らしさで相手を魅了してください!」


 意気込んだ侍女たちに「実は」と言い出すことはできずに、されるがまま身を任せた。

 ようやく準備ができたのは、あと小一時間ばかりで晩餐という夕刻。

 マリーナは「少しだけ出てくるわね」と言い残して、図書室に向かう。


 予感があった。

 果たしてその場所には、正装を身に着けた銀色の妖精がいた。


「目が赤いわ。寝なかったの?」

「残業続きのときは三日三晩寝なかったこともある。死ぬかと思った」

「それは大変でしたこと。体に良くないと思うわ。あなたの職場には厳重抗議をしたいところね。ところで昨日は?」

「寝て起きて本を読んでいた。本当に泣くね、この本。もう号泣」


 昨日マリーナが読み終えた本を、ちょうど読み終えたところのようだった。


「ハンカチあるわよ。使って」


 差し出すと、微笑を浮かべたまま、青年はさりげない様子で口を開いた。


「『この背に恋の翼があったなら、疾くあなたのもとへ』」

「きゃああああああああ」


 以前一度だけ婚約者へと送りつけた恋文の詩句を暗唱され、マリーナは思わず悲鳴でかき消す。

 非難がましくにらみつけると青年は「ごめん」と笑いながら、詫びてきた。


「これは、惹かれ合い、愛し合うのに結婚できずに終わる恋人たちの悲劇を描いた作品のオマージュだよね? もらってからすごく悩んじゃって。この結婚に賛成なのか、反対なのか。もしかして嫌なのかなって思ったんだけど、恋文の内容がものすごく面白くて、結局話を進めてしまった。大丈夫だった?」

「いまさら……、いまさらそれを聞きますか!! わたくしは、あなたから返事もないですし、お会いすることもできませんし、開幕・別居という仕打ちだったので、あなたこそこの結婚に不服なのかと……」


 マリーナに対して、青年は破顔してから跪き、その手を取った。


「ずっと会いたかった。今日の妖精さん、いや、婚約者殿は本当に綺麗だ。上官と職場には厳重抗議の上、今後はなるべく家に帰れるようにしたいと思う。結婚の話を受けてくれてありがとう」


 手の甲に羽のように軽く口付けてから、厳かに続けた。


 あの手紙はこの図書室に保管してあるから、この先子々孫々伝える家宝にしようね、と。


 悪気などかけらもなさそうなその笑顔を前に、「やめてくださいっ」とマリーナは悲鳴を上げることになった。


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このたび、別居婚となりました。 有沢真尋 @mahiroA

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