第4話

「ハンカチ。涙と鼻水に」


 青年は、女性的な印象すら受ける整った容貌をしていたが、声は見た目の想像よりずっと低かった。


「ありがとうございます……」


 受け取ろうとすると、代わりに手から読み終えた本を抜き取られる。

 意図を探るようにマリーナが視線を向ければ、しっかりと頷かれた。


「いいから、まずは存分に拭いて。ずいぶん泣いたみたいだけど」


 涙と鼻水で顔が悲惨なことになっているらしい、というのはわかった。

 マリーナは目元や頬、鼻周りや手の甲を拭き取ってみた。

 青年はその間に「『モンタギュー家の晩餐』か。読んだことないな」と本をためつすがめつしていた。


「ものすごく、泣きますよ、それ。ほんとに。最後に、ぶわってきます」

「君を見ればわかる。深夜に結末が気になって読みにきたのかな。ひとりで」

「気になります、本当に気になって。生き別れの……、ああ、ネタバレは言えない。あなたこれから読むんですよね? というかあなたは誰です?」


 本の説明に熱が入りかけたところで、ようやく気付いて誰何すいかした。

 青年は、翠の瞳を細めて、真面目くさった調子で言った。


「本の妖精だよ。夜にだけ出てくるんだ。君、今まで俺に会ったことなかっただろ?」

「本当に?」

「もちろん。俺が人間ではなく、妖精だから君もここにいるんじゃないのか。ふつう、夜の図書室にひとりで来て、見知らぬ男がいたら気づかれる前に出ていくだろ。しかし君は、俺が寝ていることを確認したら、本を読み始めた。豪胆にも程がある。おかげで、いつまで寝ているふりをしていれば良いのか、わからなくなった。そのうちに滅茶苦茶泣き始めるし。これはもう妖精の出番だと腹をくくったね」


 手にしたハンカチを握りしめたまま、マリーナは青年の顔をじっと見つめた。


「妖精なんですか?」

「そういうことにしておこう。じゃないと、君は夜に部屋を抜け出し、図書室で男と密会をしていたことになる。あまりよくないんじゃないのか。というか、君は誰なんだ」


 尋ねられて、マリーナもまた、すうっと目を細めた。


「こんなに毎日図書室に来ているわたくしを知らないだなんて、あなたもぐりの妖精ね」

「開き直ったな」

「いいえ。それより、泣ける本を探しているなら、いくつか見繕って差し上げるのもやぶさかではないわ。それとも、何か希望はある? わたくし、この図書室にはだいぶ詳しくなったの。本のことなら、なんでも聞いて」


 青年はくすりと笑って、マリーナの目をまっすぐに見つめた。


「本のことしか聞けないのが残念だ。君のことをもう少し知りたかったんだけど」

「わたくしのこと?」

「そう。ここ二週間ばかりは本気で上官に殺意が湧いたよ。いっそ職場が燃えたら家に帰れるのかなって思った。そんなことになれば仕事が激増するだけだと知っているから、仕事をするしかないわけだが。ようやく家に帰り着いてみれば、こんな夜中だ。会いたい相手に目通りもかなわない」

「ずいぶんとお忙しいのね。まるで、わたくしの会ったこともない婚約者のよう」


 言い終えたところで、口の端を吊り上げた青年に、声もなく笑われた。


 ここは、そもそもその婚約者の屋敷。

 妖精を名乗る彼は、これまでマリーナが会ったことのない人物。

 普段は多忙を極めているとのこと。

 導かれるは、簡単な事実。


(でも大きな問題が……。正体を知らなかったとはいえ、わたくし、言い訳ができないくらい「男性との密会」状態だわ。ふつうなら、婚約者でもない限りありえない。婚約者でも、結婚前にこれは……)


 互いに、今はまだその正体を明かせない状況らしい、と悟る。


「わ、わたくしも、実は本の妖精なんです」

「ほう?」

「ですので、本のことなら。本の会話に限ってならできます。それ以外はちょっと」

「了解した。では手始めに、何かすすめてもらおうかな。最近この図書室に蒐集された新しい本のことでも教えてもらおう」

「任せてください、よくわかっています」


 足早に歩き出したところで、毛足の長い絨毯につま先が埋まり、転びかけた。


「おっと」


 横から手を出してきた銀色の妖精が、危なげなく体を支えてくる。

 触れられたのはほんの一瞬。すぐに腕は離れていく。


「ありがとうございます」

「どういたしまして。そそっかしい妖精さん、気をつけて」


 つい、その笑顔を見上げてマリーナは尋ねてしまった。


「本当に仕事だったんですか」

「本当に仕事。君さえよければ手伝って欲しいくらいだ。今度王宮に幽閉されたらいっそ君も来てくれ。結婚自体は政略によるものと理解しているが、仲良くやっていきたいと思っている。ああ、いや、これはひとりごと。本の話をしよう」

「そうですね」 


 それから、本の話をした。

 以前はこの図書室に入り浸っていたという青年妖精は、古い本に詳しく次から次へとマリーナにすすめてくる。マリーナもまた、仕入れたばかりの知識を総動員して、青年の知らない本をすすめ続けた。

 趣味が合うというより、二人ともなんでも読むということだけはよくわかった。


 燭台の火は燃え尽き、窓の外が白みはじめたところで、ようやく解散する時間だと互いに気付いた。

 すでに朝、別れの挨拶は何が適当なのか。

 迷うマリーナに構わず、青年は少しだけ眠そうな目をして言ってきた。


「おやすみ」


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