煮〆と酒

 漱石の『夢十夜』の「第四夜」にこんな場面がある。


   *   *   *   *   *   *


 片隅には四角な膳を前に置いて爺さんが一人で酒を飮んでゐる。肴は煮しめらしい。---(中略)---爺さんは頰張つた煮〆を呑み込んで、

幾年いくつか忘れたよ」と澄ましてゐた。---(中略)---爺さんは茶碗のやうな大きなもので酒をぐいと飮んで、さうして、ふうと長い息を白い髯の閒から吹き出した。---(中略)---かみさんは手を細い帶の閒に突込んだまま、

「どこへ行くかね」と又聞いた。すると爺さんが、又茶碗のやうな大きなもので熱い酒をぐいと飮んで前のやうな息をふうと吹いて、

「あつちへ行くよ」と云つた。

眞直まつすぐかい」と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を拔けて、河原の方へ眞直に行つた。


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 僕がこれを初めて読んだのは、高校生の頃だったので、酒を嗜み始める前のことである。しかし、爺さんが煮〆を肴に旨そうに酒を呑む情景は印象的で惹かれるものがあった。得体の知れない爺さんの神秘性と相俟って、酒の楽しみというものへの通じ方、その年輪の厚みなどが、一種の憧憬と共に好もしく記憶された。

 僕の郷里は九州の山間部であり、田舎なので、少時から煮〆という食べ物に接する機会が多かった。盆や正月など、親戚縁者が集まる機会に出される料理と言えば、煮〆が筆頭格である。それも、手作りであることが当然で、盆前や年末などの忙しい時期に、夜も明けぬうちから大鍋に煮〆を拵えていた母の姿が、醤油で炊かれる昆布や干椎茸、根菜などの匂いを伴って思い出される。

 しかし、昭和の子供にとっての好物と言えば「ハイカラ」な洋食。醤油や味噌よりも、断然ソースやケチャップの味である。とりわけ僕は偏食が激しかったので、煮〆には何らの魅力も感じることはなかった。煮〆を食べるぐらいなら、ご飯に胡麻塩をかけて、お茶漬けにする方が良かった。

 その頃、家は食料品や雑貨品を売る、いわゆる「万屋よろずや」的な店をやっていたので、時折、商品の卸売りを行う「卸屋おろしやさん」が注文を取りに来ていた。普段であれば、父や母が応対していたが、或る時、何らかの事情で両親が共に不在となり、代りに隠居している祖母が、中継ぎ的に卸屋さんの相手をしたことがあった。

 卸屋おろしやさんにもいろいろな人が居て、陽気で遠慮が無く、夕食後の時間帯にやって来て父と一緒に酒を呑んで帰って行くような人もあれば、ちょっと強面の、怖いような雰囲気のある荒物の卸屋さんなども居た。

 例の父母が不在の時に遣って来た卸屋さんは、俳優のように男前で、真面目な印象の人だった。ちょうど昼時だったのだろう、祖母はその人に昼飯を食べて行くように勧めた。おそらく、初めは卸屋さんも遠慮したのだろうが、年寄の再三の勧めに最後は首を縦に振ったのだと思う。その時のおかずが煮〆だった。

 卸屋さんは、たいてい県庁所在地である都市部から来る人が多かったので、僕は田舎料理の煮〆などを出して大丈夫なのか、口に合わぬのではといささか胸中心配をしたが、その人はおいしそうにその煮〆で食事をした。殊に、里芋を頬張った時の様子が妙に印象に残っていて、その一件以来、僕はそれまで毛嫌いしていた煮〆を、里芋などから少しずつ食べるようになって行った。

 冒頭に言及した、漱石の『夢十夜』の「爺さんは頰張つた煮〆を呑み込んで」という描写を読み返すたびに、僕にはあの卸屋さんが里芋を頬張った時の記憶が、二重写しのような映像となって甦る。

 今では煮〆は僕の好物の一つであり、吾が家の正月料理にはこれが欠かせない。ただ、僕は専ら食べるだけで、拵える方はすっかり家人に任せている。色々な食材を切り揃え、それぞれの硬さなどに応じて煮込んで行く手間は大変なものであろう。ありがたいことである。

 さて、このエッセイのテーマは「煮〆と酒」であるが、色々と美味しいものがあふれている現代人の感覚としては、煮〆と酒とが非常に良い相性であると言っても、中々首肯してはもらえぬだろう。煮〆を肴に酒を呑むという様子はどうも現代的ではない。近世から近代にかけての匂いがする。

 『夢十夜』の他に落語の「らくだ」にも、酒肴としての煮〆が登場する。すなわち、屍人にかんかんのうを踊らせて大家を脅かし、酒と煮〆をせしめるというくだりである。多くの人が貧しく、日々のおかずとしてはせいぜい漬物程度しか無かった時代、煮〆でさえも御馳走の範疇に分類されていたような時代の話である。

 徳川時代の江戸は、女性が少なく男性の人口が圧倒的に多かった。そのため、煮魚や煮豆、蒟蒻や野菜の煮〆などの総菜を商う煮売屋というものが、調理の手間いらずということで非常に重宝されたが、総菜の他にだんだんと酒も立ち飲みで売るようになり、更には、店を構えた居酒屋にも発展して行ったらしい。したがって、近世から近代の初めにかけて、居酒屋の酒肴と言えば、煮〆が大きな地位を占めていた。

 このような時代的な趣味を解さぬ人に、煮〆を肴に酒を呑む妙味を楽しめと言っても難しかろうが、旧弊な時代錯誤アナクロニズムをこよなく愛する僕としては、煮〆という酒肴は、実に好もしく懐かしいものである。現代的ではないということからして、僕にとっては実に文学的興趣に溢れている。旨い不味いの問題ではない。煮〆を肴に酒を呑むという行為は、舌先で味わうものに非ず。文学的な感興を伴って、脳において堪能すべきものである。即物的に腹を満たすものではなく、懐旧と共に胸中を満足せしめるものである。

 ところで、煮〆に合う酒と言えば、勿論日本酒だろうが、冷で飲むスタイルよりも燗の方が似つかわしいように思う。平生の僕は、上燗の酒が好みだが、煮〆にはむしろ野暮な熱燗の方が好いかも知れない。夢十夜の爺さんよろしく、頬張った煮〆を呑み込んだところに、熱い酒をぐいと呷り、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を抜け、河原の方へ真っ直ぐ向かって行ったら、こんなに愉快なことはない。



                         <了>





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