第27話

 誰かの泣き声が聞こえ、ヒオリは重い瞼を薄っすらと開けた。

 目の前にあったのは飲み込まれそうなほど澄み切った真っ青な海……ではなく、涙を湛えた深い色の瞳である。


 青い瞳が瞬きをするたびに雫は頬を伝い、自分の体を抱く彼の腕に落ちていく。

 ヒオリは地べたに座るニールの腕に守られるように抱かれながら、目を覚ましていた。


 視線だけで周りを見回すと、自分たちがいるのはあの可愛らしい内装の教室ではない。

 薬品部門棟にある、見慣れたアロマ研究室の中だった。


 周りにはメルやハオラン室長など同僚たちも倒れており、恐らく自分も彼らと同じようにリリアン女史の魔法にかかり眠っていたのだろう。


 温室の扉は破られ、壁や床にも大小さまざまなひびが入っている。だがあの恐ろしい植物の姿はどこにもない。

 取り合えず命の危機はないらしいと安堵して、改めて青年を見上げた。


「ニール」

「……ヒオリ殿」


 名を呼ぶと、はっとした表情でニールが己の顔をのぞき込んだ。

 美しい顔が子供のようにぐしゃぐしゃに歪んでいるのは少しおかしかったが、ヒオリは笑うことなくその頬に手を伸ばす。


「泣かないで」

「泣いていません」

「私たち、子供の時に会ってたのね……」


 そこで真っ赤に腫れた彼の目が大きく見開かれ、そしてぐっと眉間にしわが寄る。

 険しい顔、と言うよりは切なげな顔だった。


「……思い、出してしまったのですね」

「うん。私は貴方の魔法に巻き込まれて気を失ったんだったわね」


 ニールが目を伏せて、やおらこくりと頷く。

 まるで失敗を怒られた子供のような仕草に、ヒオリは彼が何を思っているかを想像し胸を痛めた。


 先ほどの夢とともに色鮮やかによみがえったのは、幼い日に二人が出会った記憶。そして彼の周りで炎が暴発したように吹き上がった瞬間だった。

 あれは恐らく、彼の魔法の失敗だったのだろう。炎に怯えて震えるニールは、何の対処も出来ないようだったから。


 ヒオリは彼を放ってはおけず、炎の中へ飛び込んでしまった。運のいいことに、己の行動に驚いたのだろうニールの魔法は解ける。

 そして酷い火傷を負って死の間際を彷徨う自分を、ニールが癒してくれた。

 この日初めてヒオリは、『魔術師』の力を扱うものが現代にも残っていることを知ったのである。


「今回も私の怪我を治してくれたの?」

「……夢で負った怪我は現実では体ではなく心に影響を受けますから。ああ、きっと私の魔法に触れたから、記憶封じが利かなくなってしまったんだ」

「そうかもしれないわ。貴方の香水をつけたときにも昔の夢を見たし」


 ニールは目を開き、そして眉毛をたれ下げる。

 己を抱く腕に少しだけ力がこもったことを感じていると、震える声で彼は語りだした。


「ヒオリ殿、恐ろしい思いをさせて申し訳ありませんでした。今回のことも、昔のことも……」

「何を言っているの。これは私が決めたこと。誰かに謝ってもらったり、責任を感じてもらう必要はないわ」

「ですが……!」


 首を横に振るヒオリに、ニールは言い募ろうとする。

 だが己が欲しいのは謝罪や後悔の言葉ではない。いつものように胡散臭くも優雅に微笑む彼の顔が見たかった。


 子供の時にも同じようなことがあった。あの時も大切な友人にただ笑って欲しかっただけなのに、やはり自分は無力だなと苦笑する。

 ため息をついて、今一度彼の頬に手を伸ばして涙をあとを指でなぞる。

 青い目は瞬き、再び大粒の涙がこぼれた。


「ずっと貴方を思い出したかったの。だから、こうなれて良かったんだわ」

「……っ!」


 腕の力はさらに込められ、ヒオリの体はニールの胸元に抱き寄せられる。

 柔らかな体温と鼻孔に届いたマリンノートの彼の香りは、以前よりも己の心を落ち着かせてくれた。


 視界のすみできらりと光が溢れる。窓から差し込む朝日が、夜明けを告げていた。



 二人落ち着いたあと、改めて事態を把握するためにアロマ研究室を調べ始めた。

 倒れた研究員たちに声を駆けたり揺さぶったりを試したが、眠りが深くしばらく目を覚ましそうにない。


 医務室へ運んだ方がいいだろうとニールは警備員室へ電話し、ヒオリはメルたちが苦しくないように体勢を整えて仮眠用のブランケットをかけてやっていた。

 大きな騒ぎになっているのに誰もやってこないのは、やはりヴィクトルやクロードの息がかかっているからか。


「メルたちは大丈夫なの?」

「リリアンさんの目的は自分の味方を作ることですから、命の危険は無いでしょう。しかしこのままでは彼らも同じく操られてしまう」


 玩具研究室の博士たちを思い出し、ヒオリは唸る。

 見知った同僚たちがああなってしまう様子など見たくない。早急に助け出したいが、どうすればいいのか。


(強制的に魔法を解く方法があれば……)


 そこまで考えて、ふとヒオリは研究室の中に積まれていたはずの植物の姿が、一切なくなっていることに気が付く。

 リリアン女史が先ほど回収に来たようなことを言っていたから、全部持って行いかれてしまったのだろう。

 蔦一つ残ったものも無いことを確認しながら小さく唸り、ヒオリは懸命に思考した。


(植物の根はまだ温室に残っているのかな……?いや、たぶんもう……、いや、そう言えば)


 頭の中でにわかに考えが閃いた瞬間、電話を終えたニールがこちらを振り返り声をかけて来た。


「ヒオリ殿、私に一つ考えがあります。彼女が協力してくださるかは謎ですが」


 その言葉でヒオリも思いつくことがあって、あごに手を当てて唸る。

 恐らく己の思い浮かべた人物はニールと同じであり、何かを知っていることは確実だろう。

 しかし彼女は自分たちに協力する気はあるのか……それがわからなかった。


§


 警備員たちにメルたちの身を任せ、ヒオリたちはアロマ研究室を後にしていた。

 ディアトン国立魔法研究所には自分たち以外に人の気配は無く、二人は速足で研究棟を出、正門を目指す。


 目的の人物に電話を入れるとやはり相手はすでに起床しており、研究所前で待つとはっきり伝えられていた。


 まだ出勤する者のいない研究所前。誰にも汚されていない清涼な朝の空気の中二人を待っていたのは、炎のように真っ赤な髪を持った、背の高い美女であった。

 研究所から現れたこちらの姿を見つけ、その美女……ヴェロニカは艶やかに微笑む。


「……ヴェロニカ女史、お待たせいたしました」

「あら、ふふふ。おはようございます、ヒオリさん、ニールさん」


 ヒオリは彼女の前に立つと、その瞳を真っ直ぐに見据えた。

 怯むことなくヴェロニカは己の視線を受け止め、「昨夜は大変でしたわね」と何事もなかったようにねぎらう。

 思わず口元に嫌みな笑みが浮かび上がったが、この朝の景色を壊さぬようなるべく棘を押さえて告げた。


「ええ、大変でした。命の危機にも瀕しましたよ。ヴェロニカ女史はとっくにお姿を消していたようですが」

「もうあの夢で必要なことは知れましたもの。身の危険がある場所に長くいるわけはないでしょう」

「……あれから何か情報はつかめましたか?」


 悪びれもしないヴェロニカに嘆息し、肩を竦めながら問うと、彼女はころころと微笑み頬に手を当てて答える。


「リリアンさんのデスクを少々調べさせてもらいましたわ。それとお義父様のことも……もっともこちらはあまり収穫は無かったのですけど」

「前所長がそう簡単に尻尾を出すわけもないでしょうね……、ところで私たちが貴女を呼び出したのは聞きたいことがあったからです」


 ヒオリがそう口にしたとき、その言葉を受けつぐように一歩ニールが前に出る。

 いつもとは違う厳しい表情でヴェロニカ女史と相対し、その一挙一動を観察する眼光で見据えながら口を開いた。


「リリアン殿の夢の中で貴女は自由に動き回っていましたね。しかもあの方の魔法の影響をまったく受けていない。彼女が貴女の人形を作り、劇場で悪女を演じさせていたにも関わらず」

「ふうん。そういう貴方もリリアンさんの夢に自由に出入りしていたようですけれど」

「それは後程ご説明させていただきます。だから貴女も知っていることをお話しいただきたいんです」


 ヴェロニカは口元に優雅な笑みをたたえたまま、冷たい眼差しでニールを見返していた。

 その表情からは彼女が何を考えているのか想像することしか出来ないが……恐らくヒオリたちが敵か味方か、否、利用できるか使えるかを考えているのだろう。


 合理的で理知的なヴェロニカらしい計算がその頭の中で渦巻いているならば、彼女が望む筋を示してやればいい。

 ヒオリは「ヴェロニカ女史」と挑むように彼女の名を呼び、その瞳がこちらを向いたのを確認して告げた。


「リリアン女史とヴィクトル前所長を止めると言う目的をお持ちなら、今は貴女の敵にはならないとお約束しましょう」

「……まあ」

「私は魔法研究協会ディアトン国支部の職員です。貴方の欲している情報は持っていると思いますよ」


 ヒオリに続き、ニールが言った言葉に初めてヴェロニカの眉がぴくりと動く。

 彼女はニールを見、そして己を見る。興味をひかれた様子だった。探るような鋭さを持つ光が彼女の瞳にきらりと宿る。


 その後彼女は目を伏せて何事かをしばらく考えたあと、結論付けたのか一つ頷いて自分たちと向き直る。


「貴女がたがご満足できるお話があるかはわかりませんが」

「お願いします」


 ヒオリとニールが頭を下げると、ヴェロニカは一つ頷き「歩きながらでよろしいかしら?」と訊ねた。

 二人が同意すると、彼女は笑みを浮かべて踵を返し、歩道を歩き出す。


 ディアトン国立魔法研究所の正門から続く道には街路樹が等間隔で植えられており、さわさわと爽やかな風に揺れている。

 自分たち以外に人はおらず、車も少ない。秘密の話をするにはちょうど良かった。


 イチョウの葉の影から覗く朝日を見上げたヴェロニカ女史は、一つため息を落として語りだす。


「数か月前、リリアンさんがこの研究所に来てからクロード様の様子がおかしくなりました。最初は彼女に心変わりをしたのだと思っていましたが、何か妙で」

「妙と言うのは、例えば?」

「普段からぼんやりしていたり、怒りっぽくなったり、記憶が飛んでいたり……色々ですわね。あと、昔からの私の愛称を忘れていたときは驚きましたわ」

「昔からの?」


 首を傾げるヒオリに、ヴェロニカは肩越しに振り返り目を細めた。


「あら、知りませんでした?私たちは幼馴染だったんですのよ。当時からの呼び方があったんです」


 懐かしむようにたおやかに微笑むヴェロニカに、ヒオリは目を瞬かせる。

 彼女とクロード所長の婚約は研究所の将来のためのものと決めつけていたが、案外他に情熱的な理由があるのかもしれない。


 再び顔を前に向けたヴェロニカは、薄く笑ったまま話し続けた。

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