第26話

 彼の瞳を見た瞬間、ヒオリの頭に「まずい」と言う三文字が点滅する。

 視線を逸らさずじりりじりりと後ずさるが、ニールも己から目を離さずに一歩こちらへ踏み出した。


 ひやりと肝が冷える、瞬間、ニールがすっと右手を突き出して『力の言葉』を紡いだ。


「【φλόγαフロガ】」

「っ!!」


 彼の手のひらから生まれ出た炎が渦となってヒオリに迫る。

 慌てて体を倒し、灼熱の業火を避けるがその拍子に床に膝を強かに打ち付けた。


 痛みに呻く己にも、青い瞳は何の反応も示さず冷徹に見下ろすだけ。

 ニールの精神が完全にリリアンの魔法に囚われてしまっていることを理解し、ヒオリは歯噛みした。


 緊張が走る中、「きゃははははは」と、背後で甲高く耳障りなリリアンの哄笑が響く。


「いい気味だわ!これでニールさんも私を支持するようになるんだから!貴女もヴェロニカさんももう終わりよ!!」


 立ちふさがるニールを気にしながらも、肩越しに振り返って蔦に覆われたその姿を睨み見る。

 リリアンの体にまとわりつく蔦は喜びに踊るようにうねり、葉の中から見える顔は狂喜に歪んでいた。


 一種の異形の美すら感じる彼女に畏怖の念を抱きながらも、挑むように問いかける。


「こんなことをして何になるのよ?貴女、このまま好いたものだけで身を固めて、気にいらないものを排除しつづけるつもりなの?」

「はあ?うるさいわね。これはわたしに与えられた正義の魔法なの。正しいことをしているために使っているのよ」

「貴女に魔法を与えてくれた人はこんなことを喜ぶと思うの?」


 再度訊ねると、リリアンは一瞬きょとんと眼を見開き、やがて大きな声で笑い始めた。


「喜ぶも何も、その方がわたしの好きにしたらいいとおっしゃって下さったのよ!わたしは今まで可哀想だったんだから!だからこれは正義なのよ!」


 こちらを嘲るような口調だったが、その瞳は真剣で軽口を叩いているようには見えない。

 嘘偽りではなく彼女は本気でそう思っているだと理解し、ヒオリは嫌悪感と恐怖に顔を歪めた。


 自分が決めつけた正義こそが真実で、邪魔をするヒオリたちは悪人で加害者。だから魔法で無理矢理配役を作り、悪役断罪物語を演じる。

 ───実際にはリリアンが自分勝手ゆえに見捨てられただけとは気づかずに、だ。


(ヴィクトル前所長は何を考えているの?リリアン女史を放っておけばいずれ破滅に向かうのに……!)


 これを繰り返していけばいずれ組織は……否、魔法研究会全てが崩壊してもおかしくない。

 ヴィクトルは彼女を自分が作り上げた『魔術師』だから好きにさせているのだろうか?

 しかしそれ以外にも何か策略があるような気がして、思考が巡り始めた。が、すぐそばでかつりと革靴の音が聞こえ、はっと我に返る。


 顔を前に戻すと、先ほどよりずっと近くに立っていたニールが無表情で己を見下ろしている。


「……ニールさん」

「…………」


 呼びかけにもやはり、青い瞳の青年は答えない。

 冷たい表情で己を見つめ、再び無表情で右腕をこちらに突き出した。


 またあの炎の魔法が放たれてしまう。

 どうすれば逃げられるかと目だけを動かし、部屋を観察する。

 教室のような部屋にはしかし、身を守れそうな武器はなく、机に隠れたところですぐにそれごと燃やされてしまうだろう。


 扉付近ではリリアンが笑いながら立っており、そこから飛び出せそうもない。

 彼女の周り……天井や床、壁には伸びた蔦に侵食されおり、かきわけているうちに背後から攻撃されることは間違いなかった。


(……何度も運よく炎は避けられないわね。なら、仕方ない)


 覚悟を決めてヒオリはニールを見据える。

 彼は唇を再び動かし、『力の言葉』を発する。その腕先に熱と光が生まれた刹那、ヒオリは勢いよく立ち上がりニールに背を向けた。


「何をっ……!!」


 驚愕するリリアンの悲鳴を聞き、彼女の方へ向かって走り出す。が、しかし炎は己の足より速い。容赦なく放たれた渦は翻った白衣にぶつかった。


「うっ……!」


 水分が蒸発していく感覚。皮膚近くに感じる熱に恐怖が生まれ、冷や汗が流れる。

 燃え移った火は次第に服をなめて背中に上っていくが、それでもヒオリは走った。


 リリアンの顔からは笑顔が消えており、ぎょっとしたように体をのけ反らせる。

 しかし壁や床に這ったままの蔦がはがれるのは遅く、部屋から遠ざかることは出来ないようだった。


「あ、あんた、まさか!やめなさい!来ないで!!」


 同情を誘うような怯えた表情を見せたリリアンだったが、ヒオリは止まることなく一息に接近する。

 痛みのように感じる熱を白衣ごと脱ぎ棄て、その緑の体に打ち付けた。


「いやあああっ!!」


 彼女の体に、蔦に、葉に、真紅の炎は燃え移る。

 熱さのせいか叫びながらばたばたとのたうち回るリリアンの腕部分から、巻かれた蔦とともにニールの人形を取り上げ、炎の中へ投げ捨てた。


(……良かった!)


 ほっと一息つく間もなく背中に酷い痛みが走り、ヒオリは呻きながら膝をつく。

 体中の水分が蒸発してしまったかのようにからからで、眩暈も酷い。意識が遠のいてきた。


「よくも、よくもおおおおっ!!!!」


 刹那、怒りに満ち溢れた声でリリアンが叫んだ瞬間、ヒオリの体は何かに強く跳ね飛ばされた。

 もはや何もかも見えなくなっていたが、恐らくそれは彼女から生えた蔦だったのだろう。


 遠くでニールが己の名を呼ぶのを聞きながら、ヒオリの意識は闇の中へ落ちていった。


§


 遠くで誰かがヒオリを何度も呼んでいる。

 体を包み込む温もりを感じ、どうやら自分は柔らかい太陽の日差しの下で眠っているのだとわかった。


 同時に鼻孔をくすぐるのは咲き乱れる花々の香り……嗅ぎなれた懐かしい香りである。

 魔法研究所の温室よりも野性的で開放的なそれは、幼い日に『ヴォタニコス』で幾度も嗅いだかぐわしい匂いだ。


 自分は今あの植物園にいるのだと、目を閉じていてもわかった。


 「ああ、これはあの夢の続きなんだな」と納得してゆっくりと目を開く。

 すると寝そべる自分を覗き込むように、己の隣に誰かが座っていることがわかった。


「ヒオリちゃん、ヒオリちゃん、ごめんね、僕のせいで……」


 泣き声だった。

 細く震えたその声を上げているのは、頼りない小柄な体の少年。

 手のひらで顔を覆っており顔は見えないが、黒髪で褐色の肌を持っていることがわかった。


 かよわい指の隙間からいくつもの雫がこぼれ地面に落ちていくのを見て、ヒオリの胸は酷く痛む。

 会ったことのない少年だと思うのだが、今すぐに起き上がり彼の華奢な肩を抱きしめてあげたい衝動を持った。


 しかし何故だか体が重く動かせなかった。

 もどかしい思いを抱えていたが、自分の意思と関係なくヒオリの口は言葉を紡いでいく。


「いいんだよ、ニール。これは私が決めたこと。私がニールを助けたかったんだよ」

「でも、僕のせいで、僕の魔法で、ヒオリちゃんは……!」


 少年が大声を張り上げ、勢いよく顔を上げてヒオリを見た。

 手のひらの下から現れたのは、深い海を思わせる美しい青い瞳。

 そこには涙が湛えられており、褐色の頬には幾重にもぬぐい擦ったあとが付いていた。


 この瞳には見覚えがある。

 それに己が呼んだ名前は───ニール。


 ああ、そうだ。間違いなくこの少年はニールなのだ。

 そう理解すると同時にことりと心の穴に何かがはまり込み、ヒオリは口元に笑みを浮かべて「大丈夫」と彼に告げた。

 安心して欲しいのに、その言葉にニールはことさら顔を歪めるだけ。


 涙がさらにぽろぽろと溢れ、本当に彼の瞳が海になってしまったようだった。


「ヒオリちゃん、ごめんね。僕が、僕がいたから……」

「大丈夫だよ、ニール。泣かないで、泣かないで……」


 ゆるゆると、ようやく右手が動き、ヒオリは彼の頭を撫でる。

 柔らかな癖がある黒髪をすきながら幾度も「大丈夫」「大丈夫」と繰り返していたが、ニールの涙は止まりそうにない。

 彼を慰めることも出来ないひ弱な自分が嫌で、こちらまで泣き出しそうになってしまった。


 ───そこでにわかに場面が変わる。


 目をつむっているため、何処にいるのかはわからない。ただ体はどうやらベッドの上に寝そべっているようで、シーツは清潔な匂いがしていた。

 今度もやはり体は動かせず、近くで誰かが会話をしていることだけがわかった。ヒオリは夢現をさまよいながら、二人の話を聞いている。


 二人とも硬質な声で、酷く緊張感に溢れている。どうやら良好な関係ではないということが理解できた。


「魔術師のことは協会の外へ漏らすわけにはいかない。彼女の記憶は消させてもらう」


 冷徹で無慈悲な声が部屋の中に響き渡った。年配の男の声である。

 それが妙に恐ろしく感じ、ヒオリの背中にじわりと嫌な汗が浮かび上がってきた。


「構いません。このことは忘れていたほうがいいと思います。魔法のことも、僕のことも、全て彼女の中から消してください」


 次いで聞こえてきたのは少年の……ニールの声だ。

 自分と接しているときとはずいぶん違う、冷ややかで感情の無い声である。

 いったいどんな表情で彼がこの言葉を口にしたのか、まったく想像できない。


 今すぐ目を開けて、ニールの顔をのぞき込みたい衝動に駆られる。

 しかし相変わらず体は言うことを聞いてくれない。

 鉛をつけられたかのように重い手足をもどかしく思っていると、ふいにニールの声がこちらへ近づいてきたことがわかった。


「ヒオリちゃんは、平和に過ごすべきなんです。今後も魔法協会は彼女に関わらないように」


 こつこつと響く足音とともに聞こえたのは、相変わらず冷ややかで静かな声だ。

 しかしその中に僅かな切なさが滲んでいる気がして、心臓が締め付けられる。


 ニールの気配が近い。恐らくベッドに眠る自分を見下ろしているのだろう。

 体を動かせぬまま彼の様子をうかがうと、再びぽつりと声が聞こえた。


「彼女は……僕の魔法に彼女は巻き込まれたんです。怖いことは知らないほうがいい。思い出せば、きっと傷が残るでしょう」


 最後に独り言のように放たれた言葉。

 その瞬間、ヒオリは自分の身に何が起こったかをようやく思い出す。


 そうだ、自分はニールの周りで暴発するように燃えていた炎の中に突っ込んだのだ。

 皮膚が焼けるのも構わず彼の手を取り、抱き寄せた。「ニール」と名を呼んだときに炎が消え、意識が飛んだことを覚えている。


(嫌だよ、ニール。忘れるなんて出来ない。二人でいるのはあんなに楽しかったのに!)


 思い切り叫んだつもりだったが、それは結局喉を通って音となることはなかった。

 頭の中だけでばたばたと必死に手を動かすが、己の願いも虚しくニールはヒオリから遠ざかって行く。


 去っていく彼の足音を聞きながら、幾度もその名を呼ぶ。


(ニール、絶対に思い出すから。待ってて、ニール)


 それだけを最後に思った瞬間、ヒオリの意識は本格的な暗闇の中に落ちていった。

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