火花

「雲長ぉぉぉ! 貂蝉から離れろぉぉぉ!」


 雷霆らいていのごとき怒号。関羽は振り向きざま、抜刀して斬りかかって来た張飛の稲妻の一揮ひとふりを受け止めた。


 オオオオッと咆哮ほうこうし、張飛は怪力で押し切ろうとする。しかし、関羽は体軸をずらして巧みにいなし、勢い余った張飛の巨体は花々が咲き乱れる海に沈んだ。


 張飛はすぐに立ち上がり、「この野郎ッ」と叫びながら関羽に再び斬りかかる。

 義弟の憤怒の形相を真正面から見た関羽は、あれは翼徳の眼ではない、と瞬時に思った。

 乱暴者でも心根の優しかった張飛の眼は、愛嬌に溢れたどんぐり眼だった。それが、今はどうだ。まなじりが恐ろしく吊り上がり、瞳は虎狼のごとき危険な光を放っている。あの眼はまるで――。


「まるで呂布のような眼をしているぞ、翼徳! お前は、桃園の誓いを破って義兄を殺し、呂布のごとき不義の者に成り下がるつもりか!」


「うるさい! 貂蝉を傷つけようとする野郎は、誰であっても俺が殺す!」


 義兄弟は怒鳴り合い、星空の下で環頭大刀を舞わす。烈しい打ち合いは、夜天の星の数に負けぬほどの火花を生み出した。


 張飛の肩越しに、凄絶せいぜつな冷笑を浮かべた貂蝉が見える。「いいぞ、いいぞ。我を守れ。関雲長を斬り殺せ」と女の姿をした化け物は、割れ鐘の蛮声でそう命じた。


 張飛は「おう。守ってやるぞ、貂蝉」と叫ぶや否や、バッと飛び下がり、刀を捨てた。そして、木に刺さったままだった蛇矛を引き抜き、蛇の舌を想起させる二股の刃を関羽に突きつけた。この武器で張飛が命を奪えなかった相手といえば、天下無双の呂布ぐらいである。必殺の矛を振るい、本気で関羽を殺すつもりらしい。


「まさか……弟よ。あの妖怪女に操られているのか?」


 薄々怪しんではいたが、きっと間違いあるまいと関羽は確信した。

 口から吐き出した黒蛇といい、貂蝉は妖しげな術を使う。何らかの妖術にはまった張飛の頭は混乱しているのだ。そうでなければ、鉄よりも固い絆で結ばれた義兄弟を殺そうとするはずがない。


「目を覚ませ、翼徳。兄弟で殺し合うなど馬鹿げている。お前が懸想けそうしている女は妖魔だぞ」


「黙れ黙れ黙れッ。貂蝉は俺の物だ。お前を斬った後、玄徳も殺し、彼女をめとるのだ」


(まずい。全く話が通じない。こちらはただの刀に対して翼徳は蛇矛……さすがに不利だな)


 関羽の青龍偃月刀は屋敷の中である。今から取って来るゆとりなどは無い。


「雲長、覚悟!」と張飛は怒号を上げた。芍薬の花々を踏みつけて猪突猛進、関羽の体を蛇矛で串刺しにしようとする。覚悟を決めた関羽は、環頭大刀を構えた。


 両雄激突。

 その直前、庭園に金切り声が上がった。

 悲痛な、臆病な童女のごとき女の声――それは、貂蝉の体から発していた。


「張飛様! やめてください! 花たちが可哀想!」


 貂蝉の涙交じりの声に、張飛は「えっ⁉」と止まった。憑き物が落ちたかのように、その双眸そうぼうから狂気の光が消えていく。


 そして、自分が踏みつけている白い花々を見下ろし、「俺、なんで……」と呟いた途端、そのままドサリと倒れた。


 驚いた関羽は、「翼徳! 大丈夫か⁉」と叫ぶ。


「雲長! 翼徳! いったい何の騒ぎだ! 賊が侵入したか!」


 ちょうどその時、外の騒動に気づいた劉備が、屋敷のわずかな兵を引き連れて駆けつけた。


 勘がいい彼は、庭の状況をひと目見ただけで騒動の元凶が貂蝉であることを察したようである。双剣を抜き、「貂蝉を捕えよ」と兵たちに命じた。


 貂蝉は、左胸をおさえ、苦悶の表情を浮かべながらブツブツと何事かを呟いている。また人格が傍若無人な男に戻ったようで、その美しい唇から濁った太い声を発していた。


「ぐっ……。引っ込め、引っ込め、小娘。我に代われ。今、お前に出て来られても困る。……ウウーム、残念。そろそろ夜明けか。我の力が衰える刻限じゃ。やむを得ぬ、逃げるべし」


 貂蝉は、地を蹴って大きく跳躍し、自身を包囲しようとしていた兵から逃れた。


 そして、塀の上に着地すると、


「劉備、関羽、さらばだ。いずれ、お前たちを殺してやるからな。我と西施殿は、王を許さぬ。王の気を持つ者はことごとく殺す」


 そう言い残し、再び天高く跳んだ。


 貂蝉の姿は、白みつつある空の彼方へと消えて行った。

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