黒蛇

 女の姿を探し、星空の下、庭園を歩く。


 どこかで、張飛が飼っている子豚が鳴いているようだ。


 貂蝉はよほど念入りに麝香じゃこうを衣服に焚き染めているのか、彼女がいる近辺に近づくと、甘ったるい香りが漂ってくる。関羽は、甘い香りをたよりに貂蝉を探し続けた。


「妙な腐臭も、相変わらずどこからかともなく流れてくる。鼻がおかしくなりそうだ。玄徳兄者は気にしていない様子だったが、屋敷のどこかに野良犬の死体でもあるのだろうか。…………む? 貂蝉よ、そこにいたのか」


 貂蝉は、芍薬しゃくやくが群生している場所でたたずんでいた。


 月影に濡れた白い花びらの先にはほんのり薄紅が差し、色白な美女の唇を想起させる。貂蝉によく似合う花と言えた。しかし、なぜか関羽の脳裏には、目の前の美女ではなく、ある一人の少女の顔が浮かびかけていた。


(なぜだろう。一人で諸国を放浪していた時のことが、不意に懐かしくなってきた。昔のことゆえ、詳しくは思い出せぬが……。俺はどこかの街で、とても心の優しい童女と出会ったことがあるような――)


 関羽は、貂蝉の後ろ姿に眼差まなざしを向けながら、十数年前の記憶をたどっていた。


 だが、その思考はすぐに中断された。振り向いた貂蝉の顔を見て、驚いたからである。


 女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。丞相府の宴で、彼女と初めて視線が交わった時の、あの救いを求めるような眼差しだった。子豚を可愛がっている時に見せる、清らかな少女の顔だった。


 男たちを誘惑する妖艶なあの女は、どこへ消えたのか?

 この女の体には兄者の推測通り、複数の人格が棲んでいるのか?

 関羽は当惑し、どう声をかけていいか分からなくなった。


「関羽様……。こうして間近でお目にかかるのはあの日の宴以来ですね。私奴わたくしめは、遠い昔に関羽様に助けて頂いた御恩に報いるため、誰かのために自分の身を犠牲にできる強い人間になろうと胸に誓って生きてきました。でも、王允様をお救いするためにこの身を捧げた果てに……私奴は恐ろしい化け物に成り果ててしまいました。もう、昔の私奴には戻れません」


「貂蝉よ。そなたは何を申しておるのだ。私とそなたは過去にどこかで会っているのか」


「私奴がに出ていられる時間は限られています。が関羽様や劉備様、張飛様を傷つけてしまう前に、どうか私奴を貴方様の手で……」


 頬に一筋キラリと涙を流し、貂蝉は何か重大なことを告げようとした。


 だが、その直後、女はウッと短くうめき、はかなくよろめいた。関羽は大きな手を差し伸ばし、貂蝉の華奢きゃしゃな体を支える。


 大丈夫か――と言いかけて、倒れかかった女を助けたことをすぐさま後悔した。己の胸板に頬を寄せている女の瞳は妖しく輝き、艶めかしい朱唇しゅしんはかすかにあえぎ声を漏らしていたのである。清らかな少女の貂蝉は、妖艶な悪女の貂蝉に戻っていた。


「ああ……。皇叔こうしゅくに見捨てられた今、将軍だけが頼りです。どうか私を関将軍の女にしてください。どうせ下げ渡されるのならば、関将軍のような知勇兼備の英雄の女になりたいのです」


たわけたことを申すな。そのようなこと、そなたに恋をしている翼徳が納得すまい」


「張将軍は関将軍の弟ではありませんか。弟が兄に従うのは当然のこと。張将軍がいなと言えば、関将軍が兄としての威厳を見せて、叱りつければよいのです」


「いい加減にしろ、貂蝉。蝶が花の蜜を求めるかのごとく、我ら兄弟の間を行ったり来たり……。曹操に命じられて、美女連環れんかんの計を私たちに仕掛けようという魂胆なのだろう。我々兄弟の絆は、董卓・呂布義父子おやこのように容易たやすく壊せるものではないぞ」


「そんな……。私はただ、貴方様のことをお慕いしていると申し上げているだけで――」


 柔らかな胸を押しつけてくる女体。

 その蠱惑的こわくてきな感触に、関羽の男としての本能は、どういうわけか没入できなかった。


 いや――理由は分かっている。臭いのだ。吐き気を催すほどに。

 貂蝉に近寄れば近寄るほど、腐った肉の臭いが鼻を刺す。女の衣服からは甘い香りがするはずなのに、彼女に抱きつかれている今、関羽の悪臭に対する嫌悪感は極まっていた。この腐臭の根源は、いったいどこにあるのか。


 ハァァ……と、女が息を吐いた。潤んだ瞳で上目遣いに見つめ、誘うかのように。


 関羽の鳳凰眼ほうおうがんは、貂蝉が吐息を漏らした瞬間、彼女の喉の奥から黒いもやが噴き出して来るのを見逃さなかった。その靄は、貂蝉の口から出ると、真っ黒な子蛇に変わった。


「奇怪なッ!」と叫び、口に飛び込もうとしていた小さな黒蛇を鷲掴わしづかみにした。そのまま力任せに蛇の頭を握り潰す。どぱぁっと黒い液体が飛び散り、異様な臭いに関羽は顔を歪めた。


「異臭の正体は、そなたの体内に棲む蛇だったのか。貴様……人間ではないな。美女に化けた妖怪変化であると分かれば、もはや遠慮はせぬ。私がこの場で斬り捨ててやる」


 関羽は、貂蝉を突き飛ばすと、柄頭つかがしらが環状になっている佩刀はいとうを抜いた。環頭大刀かんとうたちの刃が、さんと輝く。その殺意の眼光まなざしは貂蝉の白い首筋をとらえ――疾風一閃、白刃を横に払った。


「ワハハハハ!」


 哄笑こうしょうが、夜天に響く。

 貂蝉は、鳥人のごとく高々と跳んでいた。宙で一回転し、関羽の刀の間合いから離れた場所に着地、芍薬の花々を挟んで両者は対峙した。


 関羽は、困惑の表情を浮かべて貂蝉を睨んだ。

 一番驚いているのは、女が見せた体術ではなく、笑った時の割れ鐘のごとき蛮声だった。あれは、どう考えても男の声である。


「オオ、この臭いに気づいていたのか。我の怨念が込められし肝から生まれた、呪いの蛇の腐臭が、汝には分かったのだな。ウーム。劉備のように鋭い眼を持っている者でも、生身の人間であるかぎりは、この腐臭にけっして気づかぬはずなのじゃが……。凄まじい王の気をまとっていると思ってはいたが、汝はやはり龍王の生まれ変わりか」


 豪放磊落ごうほうらいらく、いや、傍若無人ぼうじゃくぶじんというべきか、底抜けに馬鹿でかい声が、夜の静寂をズタズタに引き千切る。『貂蝉』という美しき怪物は、男の人格までも飼っていたのか――。


「……貴様がどういうたぐいの物の怪か興味は無いゆえ、問答はせん。最初の一撃は油断して避けられたが、次は確実に斬る。そなたの半端はんぱ軽功けいこう術では、我が刃からは逃げ切れぬぞ」


「フフ、言ってくれる。たしかに我は暗殺すべき王を追いつめておきながら逆に斬られた半端な刺客さ。だが、死して数百年、王允という爺さんが我と西施せいし殿を蘇らせてくれたお陰で、色々と面白い術が使えるようになったのだ」


「何? 司徒王允が……ちょっと待て。西施といえば、春秋時代の美女の名だぞ」


「ワハハハ! 問答をせぬと言って、口を利いておるではないか。そぉれ、また油断した」


 背後から、凄まじい殺気。


 ハッと気づいた関羽は、身をひねらせ、自分の体を貫こうとしていた一条の閃光をかわした。


 その凶器は、貂蝉の傍らにあった樹木に深々と突き刺さった。衝撃で大きく鳴動した枝々が、若葉を数多あまた散らす。見ると、それは張飛愛用の蛇矛だった。

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