恋煩

 大酒飲みの豪傑張飛には、意外な一面がある。それは、書画の才に恵まれているということだ。中でも美人画にかけては、名人の域に達するほどだった。当然、すぐ近くに貂蝉というかっこうの画題があるのだから、張飛は彼女を描いてみたくなった。


「あんたを絵にしてもいいかい」と頼むと、貂蝉は快諾した。それからというもの、張飛と貂蝉は、昼から夕方にかけて二人きりになることが増えた。


「美女と子豚の組み合わせは、美しい」


 という独特な美的感覚により、張飛はどこからか子豚を買って来て、貂蝉に池のほとりで子豚と戯れるよう言った。その牧歌的な光景を、絵にしようというのである。


 関羽が自室の窓辺で『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』を読んでいると、庭園にいる二人の姿が自然と視界にチラつく。

 昼下がりの時間帯、張飛は夢中で絵筆を走らせていた。貂蝉も大人しくしていて、子豚の頭を優しく撫でていた。その表情は少女のように無邪気で温かく、呂布を嘲笑っていた冷たい美女の面影は欠片も無い。あれが同じ女か、と目を疑うほど清らかに見えた。


 しかし、その日の夕刻。

 独り碁に興じていた関羽が、ふと何気なく窓の向こうの夕景を眺めると、張飛もちょうど筆を置いたところだった。


 貂蝉は、膝に抱いていた子豚を放し、張飛にそっと身を寄せた。


「張飛様。そろそろ私に絵を見せてください。もうずいぶんとお描きになったのでしょう?」


「ま、ま、まだ駄目だ。途中で見られるのは恥ずかしい。こ……こら。くすぐったいから、そんなにすり寄ってくるな。やめろ。離れろってば」


 張飛は美人画を描くのは得意だが、生の女に対する免疫は無い。十代半ばで黄巾党こうきんとう討伐の義勇軍に加わり、それからの十数年、劉備・関羽と共に戦場を駆け巡って来た。恋の一つもする暇が無かったので、妖艶な美女に豊かな胸を押しつけられたら、卒倒しそうになる。貂蝉は、真っ赤になっている張飛の頬を淫靡いんびな手つきで撫で、クスクスと笑っていた。その微笑みには、初心うぶな男を手玉に取ろうとする彼女の加虐性がありありと見て取れた。


 ハァァ……と、貂蝉はあえぐような色っぽい息を吐き、張飛の顔をくすぐる。虎髭の猛将は、「う、うひゃぁ⁉」と生娘のような声を出した。


(子豚と戯れていた昼間の女と、張飛を惑わしている夕べの女……。どちらが本物なのだ?)


 その後も、関羽は時折、貂蝉に翻弄されている張飛の姿を部屋から見かけた。張飛は彼女の色仕掛けにいよいよ弱ってしまい、


「どうしよう、雲長兄貴。貂蝉は俺を好きなのかも。玄徳兄者の妾なのに、どうしよう」


 などと、関羽にしばしば漏らすようになった。心なしか痩せたように見える。


 ある夜のこと。

 関羽は、翼徳よくとくよ、と義弟のあざなを呼び、「良い酒が手に入ったのだ。一緒に飲まないか。悩み事など吹き飛ぶぞ」と誘った。張飛のことだから、美酒をたらふく飲ませれば、恋煩こいわずらいも忘れるのではと思ったのである。


 だが、張飛はしょんぼりと肩を落とし、「飲みたいけれど、無理だ……」と驚くべき返事をした。張飛が酒を飲まないなどということは、天地がひっくり返ってもあり得ないことである。関羽はさすがに心配になり、「お前らしくもない。具合でも悪いのか」とたずねた。


「こう……何かが喉に詰まったような感じがして、飯も酒も全く受け付けないんだ……」


 どう見てもこいつは重傷だ、と関羽は思った。張飛は、貂蝉色に染められつつある。


 張飛という男は、その心を色に例えると、何にも染まっていない白だ。関羽はいまだかつて、張飛ほど無垢な人間を見たことがない。だが、白という色は、他者に感化されると、あっさりその人の色に染まるものだ。張飛が貂蝉色に染まれば、どうなってしまうのか。


 彼女のために董卓を殺した呂布のごとくなってもらったら困る――関羽は密かにそう危惧した。いちおう貂蝉は劉備の妾なのだから、このままでは兄弟の間に不和が生じかねない。


(あの女は……斬るべきか?)


 関羽の胸中にそんな考えが一瞬よぎった。


 だが、いくら魔性を秘めた女とはいえ、貂蝉が特別な悪事を成したわけではない。曹操の間諜である証拠も今のところは存在しなかった。


 伝聞によると、彼女は少女の頃に市で売られていて、司徒しと王允おういんに拾われたらしい。董卓暗殺後の政争で王允が死ぬと、呂布の妾となって諸国を転々とし、呂布刑死後は劉備の庇護下に入った。この経歴だけを見れば、貂蝉は戦乱の犠牲となった哀れむべき女性である。


(乱世に苦しむ人々を救うため、我らは挙兵したのだ。戦で不幸になった女を斬るのは……)


 そんな思いが、関羽に心の刃を抜くことを躊躇ちゅうちょさせた。


 それから、十数日が経つ。

 張飛の食欲は日々衰えるばかりで、気の毒なほどになってきている。

「どうすれば良いでしょうか」と関羽が劉備に相談したのも、そういう経緯からだった。


 劉備も、張飛の様子がおかしいことは察していたので、「なるほどな。翼徳が恋か……」と静かに呟いた。


「別に、翼徳が貂蝉に恋をしているというのなら、くれてやってもいいが――む?」


 二人だけで密談していた部屋に、女の匂いが漂ってきた。関羽が振り向くと、貂蝉がいた。


「貂蝉、そこで何をしておる。我らの話を盗み聞きしていたのか。間諜の真似事とは感心せぬな」


 劉備が明かりを灯し、暗い室内を照らした。


 どこから流れてくるのか。貂蝉の衣服に焚き染められている麝香じゃこうの甘い香りに混ざり、肉が腐ったような臭いが関羽の鼻を刺す。劉備はその腐臭には気づいていないらしく、貂蝉を警戒心で満ちた眼で凝視みつめている。


「間諜だなんて……。あんまりなお言葉ですわ、劉皇叔」


 貂蝉は嬌声きょうせいを上げ、劉備の胸にすがりついた。


「部屋の前を偶然通りかかったら、私を張将軍に下げ渡すなどと仰る皇叔の声が聞こえたため、お二人の会話をつい盗み聞きしてしまったのです。……私は皇叔を心からお慕い申し上げています。皇叔に尽くしたいのです。どうか私を見捨てないでくださいませ」


「だが、雲長の話によると、そなたは翼徳に色目を使っているという。翼徳もそなたに好意を抱いている。ならば、翼徳とそなたが結ばれたほうが万事丸くおさまるであろう」


「それは誤解です。私はただ、張将軍に絵を描いてもらっていただけで……。ああ、皇叔、玄徳様、私の真心を分かってくださいまし」


 貂蝉はそう哀願すると、ハァァ……と吐息を劉備の顔に吹きかけようとした。彼女のその妖艶な愛情表現に、張飛はいつも酩酊状態に陥ったかのごとく腰砕けになってしまう。


 しかし、劉備は、捨てると決めた荷物は躊躇無く捨てられる厳しさを持った男である。女の息が自分の頬をくすぐる前に、膝まで垂れた長い腕を伸ばし、貂蝉を自分から遠ざけた。


「君は翼徳の女になりなさい。あれは優しい男だから、きっと幸せになれる」


 劉備は、あっさりと貂蝉を手放した。もうこれ以上語り合うことはないとばかりに、そっぽを向いている。


 彼の冷淡な態度に、貂蝉もさすがに女の誇りを傷つけられたのだろうか。その瞳に憎しみの灯火をくゆらせ、大耳の将軍をキッと睨んだ。


「ええい……。男とは、何百年経っても身勝手なのだな。女は物ではないのだぞ。犬猫のように家来に下げ渡すと言うなら、庭の池に身を投げて死んでやる。曹操に譲られた女を邸内で死なせたら、あの小男がどのような疑心暗鬼に駆られるやら分かったものではないぞ」


 そう言うなり、女は部屋から飛び出して行った。


 劉備は、さっきまで貂蝉がいた場所を凝視みつめながら、「……やれやれ。媚びていたと思ったら、今度は脅しか。董卓と呂布、二人の英雄を翻弄しただけのことはある」と言って嘆息した。寡黙を愛する人なので、泣きついてくる女の対応をすることがわずらわしいらしい。


「あの女だけは、我が眼をもってしても何者であるかえぬ。まるで、貂蝉の肉体の中にいくつもの人格がんでいるようじゃ。……そうは思わぬか、雲長」


 思い当たるふしがあった関羽が、たしかに兄者の言う通りかも知れません、と呟く。


「私は、男を惑わす妖艶な貂蝉と、少女のような貂蝉――この二つの人格を知っています」


「さっきそこにいたのが妖艶な貂蝉じゃ。奴は、明らかに我ら兄弟の仲をかき乱そうとしている。少女の貂蝉は……俺も何度か見かけたことがある。朝、俺が庭に出ると、子豚と楽しそうに戯れていた」


「はい。少女の貂蝉の無邪気な眼は、我らが救うべき無辜むこの民そのものでした」


「面妖な女だが、彼女の中に優しい少女の心が棲んでいるのならば、たとえ曹操の間諜であっても死なせるには忍びない。雲長よ、虚言だとは思うが、自殺せぬように見て来てくれ」


 関羽は、劉備の言葉に「御意ぎょい」と答えると、部屋を出た。


 事件は、そのすぐ後に起きた。

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