巻狩

 月日が、流れた。季節は初夏に移りつつある。

 劉備主従は、丞相府からほど近い場所に大きな屋敷を与えられ、曹操の配慮で何不自由の無い暮らしを送っていた。


 帝からは左将軍の位を授かった。宮廷でも「劉皇叔りゅうこうしゅく」と尊ばれ、かつての流浪生活が嘘のような栄光を劉備は得た。関羽は、この平穏と栄達を何とも気色が悪いものだと感じていた。


 気に食わぬことが二つある。

 一つは、主君劉備が曹操に飼い殺しにされていること。

 もう一つは、三兄弟の間に貂蝉という異物が入り込んできたということだ。


 あの女は曹操の間諜ではあるまいか――という疑惑が、関羽の胸中で日々増していた。


 寡黙な劉備は特に何も言わないが、曹操の贈り物である彼女を警戒はしているようで、貂蝉の柔肌に今のところ触れていない。夜は、麋夫人びふじん甘夫人かんふじんを毎晩交替で抱き、ぐったりとしている女を放置して、関羽・張飛と同じ寝台で眠っている。


「星の数ほど女で失敗している好色家の曹操が、貂蝉を自分のめかけにしないということがあるのでしょうか。彼女は曹操の意を受けて、我ら兄弟を監視しているのでは……」


 ある夜のこと。

 関羽は周囲を警戒しながら、義兄にそうたずねた。

 劉備は肩まで垂れ下がった大きな福耳を指でもてあそびつつ、その可能性はあるな、と静かな声で答えた。


 この大耳の将軍は、人の才や性質がひと目で分かってしまう「眼」を天性備えている。だから、他者のことは、語り合わなくても理解できる。言葉というものに頼らず生きている劉備は、よほど親しい相手か、教えを乞いたいと思う賢者にしか自分というものを多く語らない。彼の本音を言語で最大限引き出せるのは、一心同体の仲である関羽と張飛ぐらいだった。


「先月催された許田きょでんの巻狩りといい、曹操は宮廷内の反乱分子をあぶり出そうとしている。貂蝉だけでなく、我らを見張る者は屋敷内に他にいるやも知れぬ。娘を後宮に入れている車騎将軍しゃきしょうぐん董承とうしょうが、『曹賊を共に討たん』としきりに誘ってきているが、彼との連絡も慎重を期さねば危うい」


 曹操は、大敵である袁紹えんしょうと天下分け目の決戦を目前に控えている。その戦いを前に、宮廷内において誰が敵で味方か見極め、己に逆らう危険がある者たちを一掃せんとしている気配があった。彼がその動きを顕著に見せたのが、許田における巻狩りである。








 あるうららかな春日しゅんじつのこと――。


 曹操は帝を誘い、大規模な狩猟を許田にて行った。劉備・関羽・張飛も揃いの鎧を着込み、天子の狩りに従った。


「劉皇叔。ちんは、そなたの弓の腕前を見てみたい」


 まだ少年の面影を残す若い帝が、漢王室の末裔と自称する劉備を頼もしげに見つめてそう言うと、劉備は「ハッ」と短く答え、おもむろに遠くの草むらめがけて矢を放った。


 あのぼんやり将軍は何も無いところになぜ矢を射たのだ、と曹軍の武将たちは怪訝な顔をした。しかし、皆でそこまで馬を走らせてみたところ、「おおっ」という声が複数上がった。草むらの陰に隠れていた子兎が、矢に射貫かれてたおれていたのだ。


「劉皇叔、素晴らしいぞ。よく子兎がいると分かったな。朕には見えなかった」


「私は昔から、眼が良いのです」


「……よぉし。次は朕が獲物を仕留めるぞ」


 帝ははしゃぎながらそう言い、野を駆ける一頭の大鹿に狙いを定めた。


 しかし、三矢放ってもなかなか当たらない。


 じれったくなった帝は、「曹丞相、あれを射てくれ」と叫び、手に持っていた弓と矢を曹操に渡した。


 曹操はすぐさま弓を引き、鹿を易々と仕留めた。


 朝廷の諸官は、鹿の背中に黄金の象眼ぞうがんが施された矢が突き刺さっているのを見ると、「陛下の矢だ! 陛下が鹿をお仕留めになったぞ!」と口々に騒ぎ、漢王室の威徳を言祝ことほぐべく帝に駆け寄ろうとした。


 そんな彼らの前に立ちはだかったのが、矢を射た当の本人、曹操である。


「貴殿らは眼が悪いのか。先ほど矢を射たのは余だぞ。褒めるのなら、余を褒めてくれ」


 馬上から、おどけた口調で曹操は言った。

 白粉を塗りたくったその顔は柔和に微笑んではいるが、眼光はやじりの切っ先のごとく鋭い。白面の小男に見下された朝廷の官人たちは、「うっ……」と言葉を詰まらせ、その場で硬直した。


「曹丞相万歳、万歳」という声が春の野に響く。曹軍の武将と兵たちが曹操のために歓声を上げているのだ。帝は、気弱そうな笑みを浮かべ、その光景をただ黙って見ていた。


「天子を公然とはずかしめるとは――曹操許すまじ」


 関羽は、鳳凰眼ほうおうがんをクワッと大きく開き、青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうを握る手に力を込めた。悪を見逃さぬのが彼の正義である。曹賊を一刀両断すべく、馬を疾駆させようとした。しかし――。


「雲長、堪えろ。迂闊うかつに動けば、矢が飛んで来るぞ」


 劉備が関羽の衣の袂をつかみ、馬を寄せて義弟の耳にそう囁いた。


 ハッと気づいた関羽が周囲の気配を密かに探ると、なるほど、四方の草むらや木々の陰から殺気を感じる。この視線の質は、獲物を狙う狙撃兵のそれであろう。曹操が、弓兵を忍ばせているのだ。


(あの奸物め、わざと天子に無礼を働いたな。自分に反感を持つ者を怒らせ、斬りかかって来るように誘導したのだ)


 関羽は、髪の毛が逆立つほどの憤りを感じた。


 曹操は乱世の奸雄かんゆう、非常に狡賢ずるがしこい男である。天子を利用して反乱分子を始末する企みぐらい、平気で実行するであろう。


 ましてや、敵将の妾だった女を間諜にすることなど――。








「……兄者。私は、あの貂蝉が、我ら兄弟の絆を壊す元凶にならないか不安でなりません」


 許田でのあの事件を思い出しつつ、関羽は義兄にそう言った。


 劉備は、心配するな、と即答する。


「我が重大事は、この世でただ二つ。義兄弟と生死を共にすると約した桃園結義、天下を安んじて民を救う志――。美女を愛でることなど、二の次、三の次だ。惑わされるものか」


「いえ、それは分かっています。むしろ心配なのは張飛のほうで……。あいつ、すっかり貂蝉にまいってしまっているようなのです。どうすれば良いでしょうか」


 そう言うと、関羽は困り果てた顔で、弟に遅く訪れた初恋について語りだすのだった。

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