神医

 女は、行方をくらました。


 だが、劉備と関羽はそれどころではない。張飛が今にも息絶えそうなほど苦しんでいたからである。「喉に何か詰まっている」と訴え、目を白黒させていた。


 寝台に寝かせ、水を飲ませようとしたが、吐き出す。好物の酒ならばと思い、口に注ぎ込んでも、結果は同じだった。


「張将軍が酒を拒むなんて……」


「これはもう死ぬのでは……」


 介抱を手伝っていた麋夫人びふじん甘夫人かんふじんがそう呟く。劉備が眉をひそめ、「縁起でもないことを申すな」と叱った。


「玄徳兄者、雲長兄貴……。手を……手を握っていて欲しいんだ。一人で死んでいくのは恐いから……手を……」


「弱気を申すな。天下の豪傑であるお前がこんなことぐらいで死ぬものか」


「兄者の仰る通りだ。しっかりいたせ、翼徳」


 劉備と関羽はそう言って励ましたが、張飛は泣きべそをかき、手を握ってくれとしつこくせがむ。あまりにも可哀想だったので、二人は義弟の右手にそれぞれの手を重ねた。


 すでに朝である。空はいつの間にか灰色の雲に覆われ、窓から見える庭園の草花は翠雨すいうに濡れていた。


 雨音に混じり、門を叩く音が聞こる。こんな大変な時に屋敷をおとなう者がいるようだ。


「曹操からの使者か……?」


 劉備はわずかに緊張した声で呟いた。

 曹操は劉備を丞相府にしきりに招いて宴を開く。しかし、こんな早朝から遊興に誘う使者を遣わすなど非常識だ。来訪者が丞相府からの使者ならば、よほどの火急の用件であるに違いない。まさか、打倒曹操を目論む董承と密会していたことが露見したか――。


 劉備は一瞬そう考えたが、その心配は杞憂に終わった。

 応対に出た召し使いが戻って来て、長さ一尺(約二十四センチ)程度の木の札を関羽に差し出した。見ると、それは名刺だった。


華佗かだ再拝(華佗が挨拶します)」


 と、書いてある。


 関羽と劉備は顔を見合わせた。あの天下に名高き神医、華佗ではないか。


「これは天の助けだ」と叫ぶと、二人は慌てて部屋を飛び出し、華佗を丁重に出迎えた。張飛の命が危うい時に医者のほうから訪ねて来てくれるとは、まさしく地獄に仏だった。


「華佗先生、お願いします。どうか我らの義弟の命をお救いください」


「顔を上げてくだされ、劉皇叔りゅうこうしゅくわしは皇叔の元に美女貂蝉がいると耳にして、やって来たのです。しかし……どうやら、すでに貂蝉の毒にやられた人がいるらしい。分かりました、この華佗にお任せを。長年にわたって人を治癒しておる身ゆえ、肉体をむしばむ病根だけでなく、魂を侵さんとする呪いを取り除く術もいささか知っておりまする」


 華佗は二人の手を取り、鷹揚な口調でそう言った。関羽は、(華佗殿は、貂蝉を知っているのか……?)と意外に思った。華佗と貂蝉にどういう接点があるというのだろう。


「とにかく、患者を診ましょう。義弟殿の所まで案内してくだされ」


 華佗は、ちまたの噂ではよわいが百歳に達しているという話だが、実物は五十代前後に見える。まだ黒髪が少し残っている長髪を風になびかせ、若々しい足取りで患者が待つ部屋へと赴いた。


「ふぅむ……。このどす黒い顔色、呪いが喉のあたりでこびりついておるな。劉皇叔、今すぐ市場に使いをやり、にんにく漬けの酢を手に入れてくだされ。とびっきり酸っぱいやつが三升(約六デシリットル)ほど必要じゃ」


 張飛の容態を一通り診ると、華佗は奇怪なことを言い出した。


 関羽は思わず「えっ。そんな物を何に使うのですか」と聞き返していた。


 華佗はいたって真面目な表情で「無論、義弟殿の口に流し込みます。呪いを無理矢理吐き出させるのじゃ」とさらに奇怪なことを言う。


 劉備と関羽は躊躇ためらったが、天下の名医がそう言っているのだから従うしかない。


 劉家の召し使いが街でにんにく漬けの酢を買って来ると、華佗は宣言通りに、それを張飛の口に強引に流し込んだ。張飛は驚いて声を上げたが、抵抗する元気は無かった。


「うう……おお……おええっ……。ご、ごご……がぁぁぁぁぁぁ……!」


 酢を三升、全て飲み切った。その途端、張飛に異変が起きた。口から黒い靄を大量に吐き出し始めたのだ。


(また、あの臭いやつか)


 鼻を刺す腐臭に、関羽はなつめのように赤い顔を歪めた。この吐き気を催す臭いは、やはり関羽以外の人間には分からないらしい。しかも、黒い靄も視認できないようだ。その場にいる誰もが、部屋に満ちる靄と腐臭について何も言及しなかった。


 やがて、張飛が体内にあった全ての靄を吐き出しきると、それは空中で凝り固まり、漆黒色の子蛇に変化した。貂蝉が吐き出したあの蛇と全く同じだった。


 実体化した子蛇は、他の人間にも見えるらしい。麋夫人と甘夫人が「ひっ……。へ、蛇!」と怯えた声を上げた。


 床に落ちた黒蛇は、うねうねと這い、二人の夫人に近寄ろうとする。 


「この化け物め。兄者の奥方たちに無礼を働くな」


 関羽は、床を這っている蛇を掴むと、昨夜と同じように頭部を握り潰した。頭をやられた黒蛇は体全体が溶けていき、黒い血が関羽の足元にしたたる。血はすぐに跡形無く消滅し、部屋に充満していた腐臭もだんだんと消えていった。


 華佗は、驚愕の眼差しを関羽に向け、「まさか、呪いの毒気で満ちた黒蛇を握り潰して浄化してしまうとは……」と呟いた。


「関羽殿は不思議な御仁じゃ。あの蛇の処置は、清められた部屋の北の壁に干し、呪いの気が衰えて消滅していくのを数日待たねばならぬのだが」


「華佗殿……。その口ぶりからして、貴方は先ほどの黒蛇が何なのかご存知なのですね。それがしが思うに、あの蛇を生み出し、翼徳に祟らせたのは、貂蝉――貴方が探している女ですな」


 関羽がそう問いただすと、華佗はぎくりとした表情になった。

 しかし、天を仰いで嘆息した後、覚悟を決めたような声で「……いかにも。これは、貂蝉の仕業です。そして、黒蛇の正体は死鬼しびとの怨念」と答えた。


「死鬼の怨念、ですと?」


「はい。死鬼――死んだ人間の怨毒えんどくは、とても恐ろしい。時には、先ほどのような呪いの蛇と化し、生者の体に入り込んで祟りをなすのです。さらに、凄まじい恨みを持つ死鬼が生み出した蛇は、生者を操ることすら可能で、憑かれた人は恐ろしく凶暴な性格になります」


「翼徳は死鬼の傀儡くぐつになっていたと……。つまり、我が義弟を操っていた貂蝉は、すでに死んでいる女だということですか」


 関羽が驚いてそう言うと、華佗は表情を曇らせ、「少し違います」と頭を振った。


「正確には……二つの死鬼の怨念と一つの生者の心が、あの女人の肉体に棲んでいるのです。彼女を……美女貂蝉という怪物を生み出したのは、何を隠そう、この華佗なのです」

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