第10話 生の残り香



「うっく……だから……だから、一緒に入ってって……ひっく」

「わかりました。いえ、あなたはそうは言いませんでしたが、わかりました。そうですね」


 綿布で体を包んでしゃくりあげるルーシャを宥めながら、理不尽な言い分を認めて頷く。


「絶対……見間違いじゃありませんわ。見ましたもの」

「別に疑っていません。見たんですね」

「いましたの、あれは……」


 口を曲げた顔でフラァマを見て、嘘じゃないと訴えるように。


「幽霊です……ここ、幽霊がいますわ」

「……」


 フラァマより年上の彼女が、まさか幽霊を怖がって一緒にお風呂に入ろうと言いたかったなんて想像もしなかったので。

 色々と想像を超えてくるお嬢様だ。



「幽霊……ですか」

「し、信じてくれないのね! うあぁぁ」

「落ち着いて下さいルーシャ。信じないわけでは……湯気を見間違えたとかでは?」


 ふるふる首を振るルーシャから散った水滴がフラァマを濡らす。

 苦手な人は苦手な系統の話だし、幼い頃から暮らしているフラァマと違いルーシャには慣れない家。

 一人きりになることも少なかったので、余計に不安が大きいのかもしれない。


 石畳の上に建てられた木造の小屋。普段は洗い物などをするのに使う。

 獣を狩った時の解体もここで。今その話をしたら動物の幽霊だと怖がるかもしれないので言わない。


 普段なら外が明るいうちに入っていたけれど、遅くなってしまったので今は戸口の向こうは暗い。

 室内は魔法のカンテラで照らしているので、屋外が暗闇のように見えてしまう。確かに不気味と言えば不気味だけど。



「やっぱり信じてくれな――」

「幽霊くらいいますよ。いまさら」


 再びしゃくりあげそうになった顔が、口を半開きにしたまま止まった。

 茹った頬で見つめられるとなんだか照れ臭い。ふうと息を吐いて頷いてみせる。


「ここは魔女の森ですよ。町よりたくさん見ることがあります」

「ま……町に幽霊なんていない、ですわ」

「そうなんですか? あれ、森だけなんでしょうか」


 はてな、と首を傾げた。

 驚くほどのことではない。というか村でもたまに見ることがあったような気がする。


「森を歩けば、昼でも光がふわっと歪むみたいなのが見えるでしょう?」

「……わからないわ」

「夜だと向こうの方が光るからわかりやすいですが昼でもいますよ。幽霊というか、想念みたいなものだそうです」


 何でもない。心配いらないと言い聞かせる。

 体は大きいけれど、フラァマの腕の中で震えるルーシャ。妹弟子を守るのはフラァマの役目だ。



「ここは町よりあやふやなものに近いですから、向こう側から溢れてくることがあるんです。あやふやなものに散ったはずの想いとか、そういうものが」


 世界を包むあやふやなもの。死んだものは散って溶けて、また別の形で産まれるのだとか。

 溶け切ってしまう前に浮かんでくる残留物。もろこし粉がダマになる感じ。


「直接の害はありません。実体はありませんから。隠した財宝を示すことがあるなんて言いますよね、そういうお話が」

「……」

「逆に、道連れを求めて死地に誘うこともあると言いますから、近付いてはだめですよ。ルーシャ」

「ん……近付いたりしませんわ、あんなの」


 フラァマの例示に納得がいったのか、少し落ち着きを取り戻して答えた。

 死者が現れ遺産のことを教えたり、おいでおいでと崖に誘導するとか。

 いずれ消えてしまうし、直接何かをするような力はない。いないと決めつけるから怖がる。


 よく幽霊と呼ばれる現象は実際にあって、怖がるようなものではない。

 風が吹くように、水面に空が映るように。知っていればただの自然現象。




「どんなのだったかわかりますか?」


 ルーシャの髪を綿布で拭きながら訊ねる。

 幽霊というのがどんな風貌だったのか、どこにいたのか。


「風も無いのに戸の几帳カーテンが揺れて――」

「? なんです?」


 説明しようとしたルーシャの言葉を遮ってしまった。



「だから几帳が……」

「……風はなかったんですか? 本当に?」

「今日はほとんど風なんてないわ。なのに外が見えるくらいに捲れて、外に青い男の顔が――」

「ルーシャ」

「え? あ、ちょ……ふ、フラァマ?」


 ぎゅうっとルーシャを抱きしめた。

 強く、力を込めないと。そうしないとフラァマの下腹から震えが上がってきてしまいそうで。



「ルーシャ、それは……忌吐きいみばきです」



 お師様がいないこんな時に。

 厄介事だとはわかったのだろう。ルーシャもまたフラァマの体にしがみついて繰り返した。


「忌吐き……」


 実害が出る前に気付いたのを幸いだと考えた方がいい。

 ルーシャの温かさを感じながら、冷静に考えなければと腹に力を入れて震えを堪えた。



  ◆   ◇   ◆



 青い男の顔はルーシャの叫び声を受けて消えたという。

 なるほど。

 お師様は大抵が酔狂な性格だが、酔狂でルーシャを引き取ったわけではない。


「あなたは強い力を持っているみたいですね、ルーシャ」

「同じ年頃の男子に力比べで負けたことはありませんわね」

「そうではなくて……その細身でそれも変だと思うんですが」


 ルーシャの叫び声を浴びて飛び散った。それなら今夜はもう現れないはず。

 水面に飛び散った油みたいなものだ。また集まって固まるにしても時間がかかる。



「反撃を受けると思わなかったんでしょう。ルーシャの方が重かったから、ぶつかった勢いで相手が逃げたんです」

「失礼ね。重くありませんわ」

「ああもう、魂っぽいそういうのの重さです。体重じゃなくて」


 男の吐いた忌み。小娘に押し負けると考えなかったとしても不思議はない。

 力づくで押し通そうとして反撃で飛び散った。死んだわけではないけれどとりあえず撃退に成功。



「その男はもう死んでいます」

「じゃあ幽霊?」

「いえ、そうではありません。幽霊と違って、死ぬ前に自分の重さを……この世界に自分が存在している力を、忌まわしい言葉で転換したんです」


 一般に言われる幽霊は死んだ後に浮かぶ想念。

 忌吐きは、死ぬ前に、まだ実体がある段階で世界に残した怨嗟。


 生き物は、その場に存在するだけで一定の力を持っている。存在力。

 強い恨みなどの気持ちを別の形に残す。幽霊と違ってそこには力がある。


「何かの心得のある男だったのだと思います。私は知りませんが、自分の魂を忌吐きに代える呪いを死ぬ前に残した」


 魔女の道とは違うが、あやふやなものに関わる点では似ている。

 より人間側に近いところで使われやすい邪道だけれど。



「正面から相対するならルーシャの方が強いということです。よかった」

「そう……」

「今日はもう出ないと思いますが、もし出たらさっきと同じように大きな声で叫んで下さい。ここからいなくなれって思いながら」

「それでいなくなる?」

「……」


 ちょっと考えてみて、首を振った。

 甘く見ない方がいい。


「さっきはルーシャを食べようと大口を開けていたようなものです。そこに岩みたいなルーシャの力がぶつかったから」

「わたくし、重いとか岩だとか思われていますの?」

「まあそうです。相手もぎゅっと身を固めていれば、魔女として未熟なルーシャの絶叫くらいは耐えてしまうでしょう」

「色々と言いたいことがありますけれど」

「とりあえず怯ませたり足止めは出来ます。力比べならルーシャの方が強いかもしれません」



 厄介で危ないもの。

 お師様がいればなんということはない。過去に退治したところを見たことがある。

 今はお師様はいないのだから、フラァマがやらなければならない。


 ルーシャには経験も知識もない。力任せだけで対処できるものではない。

 だけど、一人じゃないというのは心強いのだと知った。守らなければいけない妹弟子がいて、その重みが心の浮つきを抑えてくれる。



「今日は本当にもう出ない?」

「前に二度、お師様が退治する時に手伝いました。その時は一度散らしてから三日間くらい出てきませんでした。そういうものらしいです」

「なら……その、わたくし湯浴みの途中だったのだけれど」

「ああ」


 そうだった。

 綿布一枚でくるまれたルーシャなので体つきまではっきりとわかってしまう。

 ややぬるくなってしまったお湯を見比べ、立ち上がろうとしたフラァマだったけれど。


「……一緒にいた方が、いい。でしょう?」

「そう……ですね」


 仕方がない。

 だから、仕方がないから。


「今日は一緒に、入りましょうか」

「それがいいですわ」



 ほっと緩んだルーシャの顔にフラァマはちょっと複雑だ。

 ルーシャと違ってフラァマは、誰かと一緒に湯浴みなんて記憶にないのだもの。お師様はざばぁっと水をかぶるくらいなので。



  ◆   ◇   ◆

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