蘇った切り裂き魔①

 知っての通り、ここ夏山市は神秘都市であり、その原因は紫音が宿敵の企みを阻止する為に地霊脈を暴走させ、大量の根源魔力エーテルを大気中に放出したためである。そのせいで、大気中の根源魔力濃度が急激に高まり、濃い魔力の霧が不定期に発生するようになってしまった。それは魔術師ではない人間には若干の毒性を持つうえ、魔物・魔獣と総称される危険な神秘生物を発生させる原因にもなるため、魔術連盟が力を尽くして、一般の人には認識すら出来ない神秘都市としたのである。

 ここ数週間の間、その魔力の霧が大量発生していて、昼間はまだしも夜になると濃い霧のせいで二メートル先でさえ何も見えなかった。尤も、昼でも五メートル先までしか見えないのだが。

 このような時期のわたし達は、外へ出てもすることがないので家に閉じ籠もって過ごすのが普通だが、紫音にとって不幸なことに、丁度彼女が活動的になる時期と重なってしまった。モンテ・クリスト伯爵の件が終わってから一月ひとつきばかり無気力な期間を挟んで、また精力的に活動する力が全身に漲っていた。数日のうちは様々な記録帳やら辞典やらを整理することに費やし、その後二日は近頃新しい趣味になったらしい中世音楽というテーマでなんとかやり過ごした。ところが四日目か五日目かの朝になっても霧が晴れるどころかますます濃くなってきているのを感じ取ると、彼女の我慢もいよいよ限界に達したようだった。部屋中を忙しなく歩き回り、神経質そうに指で机や椅子を叩く様は、彼女の機嫌の悪さを如実に物語っていた。

「ワトソン、新聞に何か面白いことは無いか?」

 彼女は言った。

 彼女の言う「面白いこと」はあくまでも犯罪事件として彼女が興味を持てそうなこと、という意味であって、世界経済の話でも芸能関係のニュースでも政治家の醜聞事件スキャンダルでもないということは、勿論わたしにも分かっていた。

 わたしは首を振った。紫音は呻いた。

「この街の犯罪者は間違いなくボンクラだ。窓の外を見てみろ、ワトソン。どれだけの人影がぼんやりと現れ、幽かになんとか見えたかと思えば、その後すぐまた霧の中に隠れてしまうことか。こんな日なら殺人犯でも強盗でもジャングルの虎かのようにこの夏山市を闊歩出来る。襲いかかるその時まで誰にも見られることもなく、獲物だけがそれに気付かされるというわけだ」

「泥棒ならいくらでもいるよ」

「こんな厳粛で暗澹とした場はもっと相応しいものに使われるために作り出されたんだ!」

 紫音は叫んだ。

「私が犯罪者じゃなくてこの街は本当に幸運だったな」

「全くだね」

 わたしは心からそう言った。

 この時点で、わたしは勿論予感していた。紫音がホームズの原典を元にしたやり取りで事件を求めれば、大概向こうから飛び込んでくる。だからわたしはできる限りそれに応えている。前回は『ノーウッドの建築業者The Adventure of the Norwood Builder』で、今回は『ブルース・パーティントン設計書The Adventure of the Bruce-Pardington Plans』らしい。前回よりもばか丁寧にやったところを見ると、相当堪えているらしい。

 そんなことを考えていると、ハドソン夫人が手紙を持って上がってきた。

「よしよし、ようやくこの退屈さを拭い去ってくれる奴が現れたな」

 紫音は楽しそうに言い、サッと封を開けて読み、困惑した顔でこちらを見た。

「事件じゃなかった?」

「いや、ある意味では事件だし、多分さらなる事件を持ってきてくれると思うが……とにかく読んでみるといい」

 紫音が差し出した手紙を受け取り、わたしはそれを慎重に開いた。


  いくつか話を聞きたいことがある。

  レストレイド警部と共に行く。

  十時半にはベイカー街にいてくれ。

              マイクロフト


 手紙には整った字でそう書かれていた。

「マイクロフト!」

 思わず叫んだ。

「確か、きみに兄弟はいなかったと思ったけど」

 わたしは手紙を紫音に返した。

「いないよ。だからまあ、正体は従兄妹のまことだろう。他にもは何人かいるがね。しかし……字は誠のものじゃない。女性のものだ。代筆だろうな。彼もかなり忙しい身だから、秘書くらい雇っているだろう」

 紫音は手紙を再度よく見ながら答えた。

「彼以上に私のマイクロフトに相応しい人物は存在しない。私より七つ歳上で、幼い頃は彼が兄代わりだった。私と同じ右眼を持っていて、観察力と推理力は私を凌ぐ。というよりそもそも私に探偵術を仕込んだのが彼だ。それだけじゃない。彼はある種の天才で、高校生の時分には自力で綾女さんと知り合い、私を引き合わせた。しかもそれ以降、現在に至るまで魔術連盟の運営に欠かせない特殊な地位に立っている」

 紫音は着ていた白衣を脱いだ。彼女は薬品を扱う時には必ずそれを着ているが、作業していなければただ邪魔になるだけだ。段々暖かくなってきたこともあって、今日の紫音はシャツの袖を捲っていた。それでもウェストコートは着ているのが彼女の拘りなんだろう。

「同じ右眼ってことは、彼も魔眼持ちなんだね?」

「そうだ。遺伝性の魔眼でね。母方の祖母から譲り受けた」

「? それだとおかしくない? その誠さんって、お父様の弟さんのお子さんなんだよね?」

「確かにそうだが、同時に私の母の姉の息子でもある」

「複雑な関係……」

「そうでもないよ。家同士の繋がりを可能な限り強めようとした結果さ。最下層とはいえ、この国の中で最も由緒正しい家柄の一つだからな」

 紫音は慌ただしく片付けながらそう言った。暇になっても身の回りをきちんと片付けないのは彼女の悪い癖だと思う。かつての地下室もそうだった。

 今はこの居間こそが彼女の魔術拠点なので、地下室はただの倉庫である。片付けないのはまあわからなくもない。たまには掃除しようよ、とも思うが。

「ホームズ、もう10時半だよ」

「嗚呼、丁度下に車が来たらしい。それがそうだろう」

 なんとか片付け終わった紫音は肘掛け椅子にいつものように尊大に座り、ブライアーのパイプに火をつけた。

 呼び鈴の鳴る音。下からハドソン夫人とレストレイドこと礼堂警部が話す声が聞こえ、続いて階段を昇る足音が二つ。ドアが開き、礼堂警部が入ってきた。

「やあレストレイド。マイクロフトから手紙は受け取った。相当面白い事件なんだろうね」

「面白いなどと言って良い代物ではない。魔術連盟をも揺るがしかねん」

 礼堂警部の後ろから現れた男性が言った。というより、言いながら現れたという方が正しい。

 背は紫音と同じかそれより少し高く、胴回りは少しばかり太かった。とはいえ肥満というほどではないし、見苦しさもない。全体的な顔立ちはあまり紫音と似ていないが、その紫がかった灰色の目だけは、真剣なときの紫音の刺すように鋭いそれと同じだった。しかもそれが彼女と違って常にそこにあるのが特徴的だった。

 彼は十分体に馴染んだフロックコートを着ていた。普段から着ているのだろうと勝手に思った。

「やはりな」

 紫音は呟き、パイプをサイドテーブルに置いた。彼が誠氏で間違いないらしい。

「マイクロフト、貴方が直接ここへ来るなんてよほど逼迫した状況らしいな。また重要な設計書でも失くなったか?」

 紫音が戯けて言った。

「巫山戯ている場合ではない、シャーロック」

「生憎とそう巫山戯ているわけでもない。最も有り得そうな可能性を述べたまでだ。その返答からするとどうやら違ったらしいが。しかしまあ、そんなところに突っ立っていないで中へ入ったらどうかと思うね。そろそろ、我が友人のワトソン君を紹介したいし」

 紫音にこう言われて、二人の紳士はようやく部屋の中に入ってきた。

 紫音に目配せされて、わたしは立ち上がった。

「こちらドクター・ジョン・H・ワトソン、若菜樹里医師。こちらミスター・マイクロフト・ホームズ、橋姫誠氏。紹介はこんなところで十分だろうね」

 わたしは頷いた。それ以上のことは追々知っていけばいいと思ったから。

「ワトソン博士、直接お会いするのは初めてですね。八年前は私のがとんだご迷惑をおかけしました」

「いえ、こちらこそあの時は何から何までご厄介に……」

 わたし達のこんなやり取りを紫音は冷めた目で見ていた。誰のせいでこうなっていると思っているのか。自分中心にあらゆることを考える友人を持つと大変だ。よくもまあワトソン博士はホームズに愛想を尽かさなかったな、とつくづく思う。まあ、『三人ガリデブThe Adventure of the Three Garridebs』の描写を見る限り、そんなことは絶対に起こり得なかったのは間違いない。

 八年前というのは勿論、紫音が一時的に失踪した頃の話だ。この家を管理してくれるという従兄妹の方に完全に頼りきりで、わたしは一切関わっていなかった。そして、この誠氏こそがこの家を三年間も綺麗に整えて管理してくれたのである。ただし紫音の魔術拠点だった地下室は除く。

「取り敢えず、起きたことを話して貰いたいな。私がやるかどうかはその内容次第だ」

 紫音は自分勝手に話を進めた。誠氏はそれで紫音の方に向き直った。

「悪いが、やらないという選択肢は与えられない。お前以外の誰にもこの問題を解決させることは出来ん」

「なんで自分でやらない? 機密事項絡みなんだろう?」

「機密なのは事件そのものだ。お前が誰彼構わず口外しない限り、何ら問題は起こらない。そして、私はマイクロフト・ホームズだ。駆け回って、或いは地面に這い蹲って調査するなど私には無理だ」

「……マイクロフト、再来になってから七ポンド半ほど太っただろう」

 紫音が静かに言った。

「七ポンドだ。なんだ、普段からヤード・ポンドで計っているのか?」

「まさか。言いたかっただけだ。三キロ半くらいは太ったように見えたが」

「残念ながらそこまではいかない」

「誤差みたいなものだろ」

「そういうお前は二キロ半痩せたな」

「嗚呼、丁度二キロ半だな。どうだワトソン、我が兄の方が観察力に優れるというのが嘘じゃないのがわかったろう?」

「うん、確かにきみのマイクロフトだ」

「そうだろう? さてマイクロフト。やらないという選択肢を無くされては困るな。貴方は太るほど運動不足で、私は痩せるほど忙しい」

 紫音はパイプを持った手で互いを指しながら言った。

「いや、お前は暇なはずだ。少なくともここ数日は」

「どうしてそう思う?」

「注射の跡が無い」

 紫音は自分の左腕を見た。確かにそこに注射の跡は全く無かった。

本物ホームズ再来お前との一番大きな違いがそこだ。彼が注射器を使うのは暇な時だが、お前は忙しい時にこそ必要になる。お前が本当に忙しければ、お前の左腕は薬物中毒者の如き状態になっているはずだ」

「私だって、注射痕を隠すくらいはするが?」

「私や礼堂警部に対してか? そんな無駄なことをするのか? そうするのはフォーマルな場だけだろう。そしてそういう場合は必ずフロックコートを着ているはずだ」

「こんなに暑いのに?」

「恍けるのもいい加減にしろシャーロック。お前のフロックコートが魔術具でないとは言わせん。そして着る魔術具である以上、着ている方が寧ろ快適な温湿度を保てるはずだ。そうしないのはあまりにも無能だからな」

 紫音は肩を竦めた。

「分かったよ。私の負けだ。忙しくないというのは認めよう。しかし、いくら暇をしているからと言って、面白くない事件を捜査する気は無いな。退屈よりもそっちの方が地獄の苦しみに近い。それに、政治絡みのゴタゴタはごめんだ」

「その点は心配無用だ。政治的な関係は殆ど存在しない。綾女様が捜査を命じられたという点以外はな」

「それはまた奇妙なことだな。誰が殺られたんだ?」

「捜査をするのでなければ教えられない。機密だと言っただろう」

「やるさ。俄然興味が湧いてきた。あのひとが捜査を命じるなんて相当だからな。さぞかし知的で難解な事件に違いあるまい。こういう事件を待っていたんだ」

 紫音は心底楽しそうに言った。誠氏は少し眉を寄せた。わたしもちょっと不謹慎が過ぎると思った。

 もちろん、今に始まったことではないし、言うだけ無駄なので何も言わなかった。まあ他人の前でやらなければいいんじゃなかろうか。

 ついでに、彼女がそういう人間であることは周知の事実である。知名度が高いのも考えものだ。

「殺されたのは四人いる。皆神社関係者だ」

 誠氏が重々しく言った。わたしと紫音は顔を見合わせた。

 それは確かに綾女さんが捜査を命じるわけだ。ただし、その相手がおかしくはないだろうか。

「その事件を君が担当しているのか、レストレイド?」

 紫音が尋ねると、礼堂警部は首を縦に振った。

「何故『白狐』にやらせない?」

 紫音は心底理解出来ないとばかりに尋ねた。

 彼女の言う『白狐』とは、綾女さん直属の部下達の通称で、多くの者が白狐面を着けるためそう呼ばれる。もっとも普段から白狐面を着けるのは、魔術連盟における兵力である『神秘防衛隊』通称『神衛隊』に所属する白狐部隊だけなので、面を着けていない白狐もいる。神社が直接管理する地域では彼女達以外に捜査権を持つ者はない。魔術連盟が管理する神秘都市においては、警察と同程度の捜査権を持つ。とはいえ流石に警察が優先される。

 永劫を生きる綾女さんにずっと仕えられるように、白狐になった者はその肉体の劣化を止めてもらえる。つまり、不老になる。残念ながら不死にはならないので、命の危険はある仕事だ。

 神衛隊が魔術連盟にとって軍隊に相当するなら、白狐は特殊部隊だ。そして、必ずしも戦闘員とは限らない。情報戦もお手の物だ。だからこそ、事件の捜査が出来る。

 広い意味では彼女達も神社関係者ではある。神社関係者のみが狙われた事件なら、彼女達が捜査するのが筋だ。

「事件が起きた現場は神社の管轄外だ。警察ヤードが担当しているのはそのせいだ。しかし、事が事なので我々に白羽の矢が立った。私もお前も、名目上は白狐の一員だ。他所に洩らしたことにはならない。だから言ったろう。お前以外に解ける者はないと」

 そう、名目上は、紫音もわたしも白狐の一員なのだ。そして誠氏も。彼は最初の白狐である。彼のあまりの優秀さ故に、綾女さんが手元に置いておきたがったことで白狐という集団が起こったと言っていい。

 白狐の内情は、基本的に口外してはいけない。誰がメンバーであるかを部外者に明かすのはタブーとされている。勿論、神衛隊に所属する者で、白狐の内情を知っている人もいる。神衛隊の中にも白狐部隊はあるのだから、完全に隠しておくのは難しい。それでも、徹底した情報統制によって、殆どの人には知られていない。神衛隊内でも数人の将官が知っているだけだ。

 多分、礼堂警部は捜査の関係上、玉鬘椿つばき大尉のことは知っているだろう。彼女がこの辺りの白狐の窓口だから。しかし、わたし達については知らないはずだ。

 そして今、しれっと誠氏は礼堂警部の前でわたし達の素性を口にしたわけだが、どうしたわけか礼堂警部がそれに気付いた様子は無かった。

「流石に、機密事項を口にする際は、聞かせたい人間以外には聞こえないように工夫はしている。心配は無用だ」

 誠氏はわたしに向かって言った。なるほど、紫音がわたしの心を読めるのだから、彼が出来るのは何ら不思議ではなかった。

「事情は分かった。請け負おう。詳しい話を聞かせて貰おうか」

 紫音ははっきりとそう言った。警部らの顔が目に見えて明るくなった。

「すまないが、私は次の予定があるからもう行かねばならん。礼堂警部から聞いてくれ」

 誠氏は懐中時計を見てから言った。そしてすぐに出て行った。慌ただしい人だ。きっと相当忙しいのに無理矢理ここへ来たのだろう。

 わたし達はやや呆気にとられたように黙っていたが、やがて紫音が話を戻した。

「神社関係者が四人殺されたんだってな。いつだ?」

「五日前、四日前、三日前、そして昨日です」

「二日前は?」

「通常の巡回以外にも入念に調査しましたが、発見されていません。恐らく無かったものと」

「ふぅん。この魔霧の中でよく見つけたな。道の端に死体が落ちていても気が付かないだろうに」

 紫音は立ち上がって窓際まで歩いて行き、そこから外を眺めた。勿論何も見えはしない。

「警邏隊の順回路にあれば見落とすことはありません」

 警部はきっぱりと言った。

「四人とも?」

「そうです。全て順回路に」

「どうやって警邏してる? 車か?」

「流石にこの霧の中運転するのは自殺行為ですよ。マイクロフト氏の運転手が異常なんです。我々は徒歩のみです」

「順回路はどうやって決めてる?」

「いくつかの候補の中から順番に」

「なるほど。どうやって殺されていた?」

「解体されていました」

「解体?」

 クルッという擬音が相応しい動作で、紫音はサッと振り返った。

「はい。喉を切り、腹を切り開いて、臓器を取り去っています」

「なるほど、それは確かに解体と言えるな。ところで、ここに市内の地図がある。現場に印を付けておいてくれないか。日付も一緒に」

 礼堂警部は頷き、地図と向き合った。

 その間に紫音はまた肘掛け椅子に戻り、パイプを口に運んだ。しかし警部が素早く仕上げたので、紫音は一服もしないうちに地図を受け取ることになった。

 紫音は受け取った地図をサッと眺めた。

「流石にこれでは情報が足りないな。現場を見せて貰おうか」

「すぐ手配しましょう」

 礼堂警部がそう言った直後、狙ったかのように我が家の電話が鳴った。アンティークものなので、基本的に紫音しか扱えない。

 紫音はすぐに応答し、短く二言三言会話したのち、受話器を顔から離してこちらを向いた。

「礼堂警部、君宛てだそうだ」

 なんで携帯電話持ち歩いてないんだ、と思ったが、多分わたし達の方が特殊な例だ。魔術師の中で携帯電話を利用する人はほぼいない。携帯電話で出来ることなら魔術で代用出来る。

 礼堂警部は受話器を受け取り、二、三度驚いたような声を上げ、最終的にやたら険しい顔で受話器を置いた。

「……五件目だそうです」

 警部が言った。大いに納得した。

 やや動揺した様子の警部とは裏腹に、紫音は大いに落ち着いていた。

「警部、君は直ちに現場へ急行し給え。我々は後から向かうとしよう。ミセス・ハドソン、彼に馬車を貸してやってくれ!」

 ハドソン夫人に連れられる形で、礼堂警部は帰って行った。紫音の魔術具であるキャブなら比較的安全に、徒歩より圧倒的に早く現場に到着することだろう。

 警部を見送ったハドソン夫人がまた一階の居間に上がってきた時、その手には電報が握られていた。ハドソン夫人はそれを紫音に渡すと、テキパキとティーカップを片付け、地上階へ降りていった。

 紫音はつまらなさそうな顔をしながら電報を読み始めたが、読み終わる頃には表情が一転し、事件への興味に頬が紅潮しているようにすら見えた。


 被害者ハ白狐。至急オ越シ願ウ。帆吹


 紫音が渡してきた電報に書いてあったのはそれだけだった。

 わたしが読み終わったのを見て取ると、紫音は苦笑した。

「ホプキンズの奴、相当慌てて連絡してきたらしい。何処へ来いと言うのか書いてないとはね」

 笑っている場合ではない。そう思う一方で、余裕そうな紫音の態度に期待を膨らませているのもまた事実なのである。

「では、地図をもう一度見てみよう」

 紫音に促され、先程礼堂警部が書き込んだ地図を覗き込んだ。これまでの四件の現場は、郊外に限定されている。なるほど白狐の管轄外だ。

「一見すると何の特徴も無いように見える。しかし、一件目から三件目の現場を順に繋ぐと――」

 紫音は指で地図をなぞった。濃い紫の線が浮かび上がる。その指は三件目の場所で止まらず、そのまま一件目に戻った。

「――正三角形が出来る。この三角形の外接円を書いてみると、四件目の現場と重なる」

「じゃ、五件目もこの円の上で……でも、それだけじゃ絞りきれないよ」

 わたしの当たり前の感想を、紫音は不敵な微笑で受け止めた。

「何故この順で行ったか、という点を考える必要があるな。そして、一件目の現場の反対側に四件目があることを意識するんだ」

 紫音の手元を見て、ようやくわたしにもわかった。一から三件目は連続して犯行が行われ、四件目は一日空けている。つまり、三つで一単位の形を作っていると考えられる。だから三角形だ。そして昨日四件目、今日五件目。一件目の反対側に四件目があるなら、五件目は二件目の反対側にあると推測出来る。

その通りExactly.。明日には六件目が起こるということでもある」

「じゃ、急がないと」

 紫音は頷き、わたし達は現場へ急行するべく馬車に乗り込んだ。

 紫音はポケットに地図を詰め込んでいた。馬車が走り出すとそれを取り出し、重々しく口を開いた。

「……私がさっき書いたこの外接円だが、この町を囲む地霊脈流と凡そ一致している。そしてワトソン、六件目が起こったとして、三つずつを繋ぐとどんな形が出来上がる?」

「六芒星。外接円を合わせれば、魔術陣の基本形の一つになるよね」

「その通り。犯人は街一つ飲み込む規模の魔術陣を書いていると考えていい。ではその対象は?」

 わたしは首を傾げた。

「街一つ飲み込む規模の魔術陣なら、その対象は街そのものじゃないの?」

「果たしてそうかな。街に住む人が対象かもしれない」

 紫音はひどく慎重だった。もっとも、それでこそ「データのないうちに説明付けようとするのは大きな間違いだ」と評するホームズの再来なのかもしれない。

「とにかく、これは単なる連続殺人事件として片付けて良い事件ではないということだ。あの残念な市警共が気付いているとは考えにくいし、理解出来るとも期待していない。だが君は少なくとも念頭に置いておいてくれ」

 紫音は細い指先をステッキの上で組み合わせて、厳粛に言った。

 それ以降、馬車が停まるまで一言も発さなかった。

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シャーロック・ホームズの再来、或いは橋姫紫音の帰還 竜山藍音 @Aoto_dazai036

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