四人の再来⑤

 部屋にはヴァイオリンの音が響いていた。音であって曲ではない。紫音が膝の上でヴァイオリンをただそぞろにかき鳴らしている音だ。

 こういう時の彼女は別に音楽を楽しんでいるわけではないので、唇は固く結ばれ、眼光は鋭かった。

 彼女の思索の邪魔をしないように寝室へでも行っていよう、と思って肘掛けから立ち上がった時、紫音が口を開いた。

「ワトソン、今回の事件には奇妙な点がある」

「奇妙じゃない点があることに驚きだよ」

 わたしは素っ気なく応えた。後から振り返ってもちょっと素っ気なさ過ぎただろう。しかし、紫音は全く気にした様子もなく話を続けた。

「モンテ・クリスト伯爵、いや、エドモン・ダンテスの再来が牢に入れられたとすれば、そこにはヴィルフォールの関与があることは明確だ。当然、その囚えた男の許嫁をモルセール伯爵が妻にしたことはヴィルフォールも知っていたはず。そして、知っていることをモンテ・クリスト伯爵は分かっていたはずだ」

「そうかもね。それで?」

「逆に、その男を牢に入れたのがヴィルフォールだと、モルセール伯爵は理解している。彼とダングラールがそうさせたのだからな。つまり、ヴィルフォールはあの告発状がなくても前半については勿論知っていたはずだ」

「そうだろうね。後半はどうなの?」

「嗚呼、後半はどうでもいい。問題は前半だ。自分も関わっていることについての告発状が届いたとして、果たしてそれを裁判にかけるか? その場で真実を暴露されれば破滅だというのに」

「嘘だと言い張れば? 証拠なんかあるとは思えないし」

「それが通用するほどMAFIAは甘い組織じゃない。疑わしきは罰する連中だ」

「非常識極まりない」

「犯罪組織に常識を求めるな。ましてや何事も金と暴力で解決すればいいと思っている連中に」

 ごもっともである。

「ともあれ、ヴィルフォールは直ちに署名したりはしなかったはずだ。にも関わらず、モルセール伯は彼を撃ち殺した。何故か」

 紫音はヴァイオリンをソファへ放り投げ、パイプ掛けからブライヤーのパイプを手に取った。

 殺害というのは、争いを解決する究極の方法だ。争いが無いのに殺人があるとすれば、それは狂人の仕業だとしか考えられない。しかし、モルセール伯爵はそのようには見えなかった。勿論、真っ当な精神状態にないことは明らかだったが、それは寧ろ殺人を犯したことや告発状を受け取ったことによる動揺であるように思えた。

 そもそも、あの書類に署名すれば処刑が決まるというのなら、処刑するのに本人の許可が要るわけでもあるまいし、モルセール伯爵を呼び出す必要はなかったのではなかろうか。後半部分の真偽を確かめるにしたって、否定されればどうしようもないのはわかりきっている。

 なるほど奇妙だ。

 呼び出した件について紫音が言及しなかったのは、彼女がそこについては既に分かっているからか、惑いは殺害理由の方が重要だと考えているかのどちらかだと思うが、険しい顔をしながらパイプをくゆらせる彼女の思考を遮ってまで訊く度胸はなかった。

 そういうわけでわたしは自室に戻った。

 しかしながらわたしの気配りというか配慮を一切気にかけないのが橋姫紫音という女性である。それでこそシャーロック・ホームズの再来であると言えなくもないが、凡そ詭弁の類だ。

 何故わたしがこうも文句をつらつらと述べているかといえば、折角邪魔しないようにと気を遣って静かに部屋に戻ったのに、階下でわたしを呼ぶ声がするからだ。

 仕方無しに降りていくと、紫音はステッキとハットを手にしており、何処かへ出かけるつもりのようだった。わたしも同行しようと提案したが、あっさり断られてしまった。

「心配するな、ワトソン。我が伝記作家を置いて決着をつけに行ったりはしない。しかし、一人で行ったほうが都合が良い場合もあるんだ」

 それはわかるが、では何故わたしを呼んだのかという話である。

 わたしの表情からそれを読み取ったであろう紫音は、少しばつの悪そうな顔をした。

「多分遅くまで帰らないと思うから、夕食も一人で済ませてくれと言いたかっただけなんだ」

 なんだそんなことかと思ったが、口には出さなかった。正直そういうことはよくあるので、今更言われなくても勝手に食べて勝手に寝るのだが。わたし達はあくまでルームシェアする友人同士であり、主従関係にある訳ではない。気まぐれな同居人の突発的な行動に振り回される必要はないはずだ。

 もちろんそういうことを言ったりはしない。ただわかったとだけ答えると、紫音は満足したように出かけていった。


 結局、わたしが起きている間には帰ってこなかったが、深夜の間には帰ってきたらしく、翌朝起きて居間へ降りると、いつものようにハドソンさんが用意した朝食とコーヒーを前にした紫音の姿があった。

「やァおはようワトソン。昨日は上々の収穫があったよ。今日には解決させられるだろう」

「それは良かった。で、話してくれるんだよね」

「勿論。しかしその前に朝食にしよう」

 ハドソンさんの見事なスクランブルエッグを平らげた後で、紫音が口を開いた。

「まず今回の事件で最も重要なのは、果たして殺害に正当性があったかどうか、という点だ。私がモルセール伯爵に届けを出すよう言ったのは憶えているね? 結構Splendid.。まずそれが提出されているかを確認した。結論から言うと、きちんと正式なものが提出されていた。私の確認したところ、書類に不備はない。しかし本当に殺す必要があったとは思えない。だから少々潜入してきた」

「潜入? どこに?」

「MAFIAに」

 わたしは初め彼女が何を言っているのか理解出来なかった。やがて理解して目を見開いたときには、紫音はニヤニヤと笑っていた。

「流石に君を連れていくのは危険だった。君を必要以上に危険な目に合わせるわけにはいかないし、バレる可能性も高まる。一人の方が都合が良いと言ったのはこういうわけなんだ」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。何という無茶をするのか。

「君の思うほど無茶な芸当ではないよ。巨大な組織だからな。少しばかり変装して周囲に溶け込めば、そうそう見つかりはしない。連中が他人に興味を持たない気質で助かった」

 紫音はけろりとして言った。どうやら彼女の心臓には毛が生えているらしい。或いは鋼鉄製か。

 彼女はまたパイプを咥え、ゆっくりと息を吐き出した。

「結論から言うと、今回の件で最も大きな責任を負うのはやはりモルセール伯爵だ。ヴィルフォールは殺される必要がなかった。二人の間にどのようなやり取りがあったかは不明だが、当時ヴィルフォールが行ったのは不当な監禁であり、それによって利益を得るどころか、組織を危険に晒す悪行だ。それを公開すれば、勿論地位を追われ処刑――首領の意向に反して拷問を行ったモルセール伯爵と共に斬首か銃殺か――という未来しか待っていない。そしてモルセール伯爵は、罪を認めるように言われた、とは証言しなかった。となればこれは不当な殺――」

 ドアが開いた。ハドソン夫人が入ってきて言った。

「お客様です、ホームズさん。女性の方ですよ」

 手にした盆には一枚の名刺。

 紫音は名刺を手に取ると鋭い目つきでそれを観察し、一瞬だけ笑みを浮かべた。

「通してくれ。連日のようにモンテ・クリスト伯爵の邸へ通った甲斐があったぞ、ワトソン」

「というと?」

「MAFIA首領のご登場だ」

 紫音が言い終わるのとほとんど同時に、居間のドアがバッと開いた。

 そこにはわたし達と歳の変わらなさそうな女性が立っていた。髪は短くアッシュグレー。紫音も大概だが、客も大分中性的な顔立ちだった。背はわたしと大差ないがやや猫背で、爬虫類のように首を揺らす癖が見受けられた。

 服装は紫音が普段着ているものと同じようなフロックコートで、一見すると普通の紳士にすら見えそうだった。

 わたしに見て取れるのはそのくらいだった。

「久し振りだね教授。嗚呼、こちら私の友人で同僚のドクター・ワトソン」

 紫音は何事もないかのように言った。

「お会いするのは初めてですね、ワトソン博士」

 客が言った。握手を求められたが、あまりに唐突の出来事で混乱していたわたしは、その手を握り返さず紫音に目線で説明を求めた。

「こちら当代MAFIA首領、松風まつかぜじゅん。ソファでもどうかね?」

 客の女性――松風絢――はちらとわたし達の散らかった部屋に相応しい状態になっているソファに視線を向けたが、すぐに紫音の方へ戻した。

「いや結構。長話をしに来たわけじゃあない。それからホームズ、ガウンのポケット内で銃を弄るのは危険な習慣だと、前にも言ったはずだぞ?」

 ハッとして紫音の方を見ると、彼女の右手はガウンのポケットに入れられていた。ゆっくりと引き抜かれたその手には、小型の拳銃が握られていた。

 最早疑いの余地はない。

 松風という姓、紫音の態度、先程の台詞。わたしでもはっきりわかる。

 彼女が、新たなモリアーティ教授であると。

 紫音の恐れていた事態が現実になった。

「それじゃ、何の御用かな。五分なら差し上げよう」

 紫音は白々しく言った。

「分かりきったことを尋ねるな、シャーロック・ホームズ。私の言いたいことは全て、その頭に浮かんでいるはずだ」

「では、その答えも浮かんでいるはずだな」

 紫音はすまして言った。

「やはりそう答えるか」

「当然だ」

「君はこの頃我がMAFIAの幹部宅へ連日訪れ、結果として一人が死に、一人が行方をくらまし、一人が発狂した。残った一人は辞任すると言い出す始末だ。これ以上の妨害は容認出来ない」

「勘違いされては困るな。一人が死んだことについては無関係だと訂正させて貰おう。それはそちらの問題だ。私はそれを解決するよう警察から依頼されたに過ぎない。その過程で或る幹部の邸宅へ度々お邪魔したがね」

 松風は顔に苛立ちを浮かべた。

「それが我々にとって迷惑というヤツなのだよ、ホームズ君。手を引け。さもなくば君は破滅する。これは脅しではない。決まりきった事実を述べただけだ。ライヘンバッハに二度目は無いぞ」

 それだけ言うと踵を返した。

「教授」

 部屋を出る直前に、硬い声で紫音が呼び止めた。しかし、その眼差しにはいつもの不遜さが宿っていた。

「君の言う通りだ。ライヘンバッハに二度目は無い。今度こそ捕まえる」

 松風は振り返った。全身に殺意を漲らせて。

「君の破滅は保証する。お前に私は倒せない」

 そう言い残すと、足早に部屋を出て行った。


 紫音は暫く何も言わなかった。

 だからといって緊張しているようでもなければ、不機嫌そうでもなかった。寧ろ楽しそうにパイプを咥えていた。

 わたしは我慢が出来なくなって、口を開いた。

「ホームズ」

「面白くなってきたじゃあないか。行方知れずだった松風の跡取り娘が現れたと思ったら、MAFIA首領になっているうえモリアーティだとさ。八年前のライヘンバッハは何だったのだろうね」

 すこぶる上機嫌で、わたしは少し怖くなった。

 紫音はパイプを口から離すと、真っ直ぐこちらを向いた。

「今度のモリアーティは、以前の彼より強大な敵になる。君は君自身の家に帰るべきじゃあないかね。引き払ってはいないんだろ」

「あの子たちが住んでるからね」

「嗚呼、我らがメアリ・モースタン達」

 多分皮肉だ。わたしに度々帰って来るよう手紙が届くことから、紫音が茶化してそう呼ぶことがある。

 わたしと彼女たちとの間に主従関係はあれど婚姻関係はないので、メアリ・モースタンというのはどうかと思うが、ワトソン博士に他に名前のある身内がいないことを考えれば、当てはまるのはそこしかないのかもしれない。

「でもあの四人、寧ろベイカー街非正規隊イレギュラーズの方が近くない? 役回り的には」

「確かに。だが君が帰れば十分メアリ・モースタンたり得るだろう。四人で一人だがね」

「わたしは帰らないよ。きみが活動を続ける限り、わたしはきみの記録者だ」

 紫音は短く笑った。

「君がその気なら無理に止めはしないよ」

 紫音はそう言ったきりまた黙り込んだ。しかし、その口元は僅かに緩んでいて、わたしの言葉に彼女が満足したことは明らかだった。

 友人の、わたしにしか見せないような一面を見て少し感慨深い思いに耽っていると、また呼び鈴が鳴りハドソン夫人が上がってくる音が聞こえた。

 紫音は穏やかな顔のまま盆に乗った名刺を取ったが、それが誰の物か分かった途端に探偵ホームズの顔になった。

「通してくれ。来たぞ、ワトソン」

 紫音の言葉を受けて、わたしは急いでソファの上を片付けた。客をもてなすにはあまりにも雑然としすぎていたからだ。

 入ってきたのは、モンテ・クリスト伯爵だった。わたし達が彼の邸宅を訪ねたことは何度もあるが、彼がわたし達のつましい住まいへ訪ねてきたのは初めてのことだった。

 モンテ・クリスト伯爵は、紫音の勧めるままにソファへ腰を下ろすと、彼特有の穏やかな微笑を紫音に向けた。

「お呼び頂いた訳をお聞きしましょう」

「おわかりでしょう」

 紫音は静かに答えた。伯爵は溜息をついた。

「貴女の考えをお聞きしましょう」

 伯爵は重々しく言った。

 紫音は肘掛けの前にこそいたが、座ってはいなかった。自然と見下ろすような形になっている。わたしは彼女の後方で腰掛けていたので、紫音の表情は見えなかった。

「貴方がヴィルフォール氏に告発状を送ったことは以前お聞きしました。しかしそれでモルセール伯爵がヴィルフォール氏を射殺する必要は全くありません。ヴィルフォール氏がそれをまともに取り扱うはずがないのですから。にも関わらず彼がそのような蛮行に及んだのは、貴方の計略によって彼が騙されたからです」

 モンテ・クリスト伯爵は何も言わず、続きを促した。

「根拠をお話しましょう。まず、この頃のモルセール伯爵は何かに怯えているようだった、と私に証言した者がいます。そして、貴方と非常に懇意にしていたとも」

「そんなことで私が黒幕だと?」

「いいえ。ですが、疑いをハッキリと持ったのはここからです。さて、これで今度は、何故モルセール伯爵は貴方がいるのに私のもとを訪ねてきたのか、という問題が出てきました。しかしこれは簡単なことです。貴方に相手にされなかったから、私のもとへ来たのです。初めから私を頼るのなら当日のうちに来なければおかしい。なのに翌日になってから来たというのは、誰かのもとへ初めは駆け込んだからです。この時点で、候補はモンテ・クリスト伯爵かダングラール氏しかいません。しかし、ダングラール氏が黒幕だとするなら、彼が姿を消す必要はありません。このタイミングで行方をくらまそうものなら、組織が何と捉えるかは明白です。では何故ダングラール氏はこのタイミングで姿を消したのか。勿論、そのような事件が起こっていることを知らなかったからです。つまり、モルセール伯爵が頼ったのはダングラール氏ではなかったということになります」

 紫音は言葉を切った。パイプを大きく吸い、ゆっくりと吐き出す。

「私は推理に際して『有り得ないものを除いたとき、何が残っても、どれほど有り得そうになくても、真実に他ならない』という鉄則を用います。この場合は貴方です」

 紫音は静かに告げた。暫しの間、沈黙が場を支配した。

「……幹部であるモルセール伯爵が、下の立場の者を頼ることは有り得ず、幹部を殺害したことを首領に伝えるとも考えられない。なるほど、弁明の余地はないようですな」

 伯爵は狼狽えた様子もなく言った。手紙を受け取った時点で、こうなることを覚悟していたのだろう。

「私が訪ねたときの反応からすると、彼が貴方のもとを訪れたのは我々より後の事でしょう。しかし、貴方はそれを私には伝えなかった」

「その通り。それで、どうしますか。魔術連盟へ引き渡しますか? 或いはMAFIAへ?」

 紫音は肩をすくめた。

「私は貴方と最初に会談したとき、貴方の復讐について私が捜査することはないとお約束しました。ですから今回の件は私の捜査の及ぶところではありませんね」

 紫音は颯爽と部屋を横切りドアを開けると、モンテ・クリスト伯爵に退出するよう促した。

 モンテ・クリスト伯爵は、青白いその顔に驚きと少しの感動の色を浮かべると、頭を深く下げてから帰って行った。


「話が拗れなくてよかったよ。モンテ・クリスト伯爵ともあろう人物が実力行使という手段に出たりなんかしたら、こちらもただでは済まなかったかもしれない」

 伯爵が帰った後で、紫音は肘掛けに座りながら言った。

「あの伯爵がそんなことするかな」

 わたしには疑問だった。

「どうかな。しないとは思っていたから呼んだが、自棄になった人間の行動は理屈では測れないところがある」

 紫音は先程とは違うパイプに火をつけながらそう述べた。

「モルセール伯爵はどうなったの?」

「実のところ、モルセール伯爵には別で調査結果を送っていてね。端的に言えば『如何にヴィルフォール氏が持っていた紙が危険なものであろうと、ヴィルフォール氏には貴方を害するつもりはなく、貴方の行為に正当性は無かった』という内容のものをね。モリアーティ教授の話では、彼には十分な罰が下ったようだから、私がこれ以上この件について何かをする必要は無さそうだ。ところでワトソン、今夜は市立劇場でワーグナーがある。今から出れば、開演前に食事も済ませられるのではないかな?」

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