第43イヴェ ふ~じん、走れメロスのように

 ハイブリッドで行なわれたミーティングを終了した瞬間に、ACアダプターと、トップ・カヴァーを閉じて強制的にスリープ・モードにしたノート・パソコンを、バッグの中に放り込むようにして入れると、ふ~じんはハヤテの如く、仕事場から消え去って行った。

 当初、ミーティングは十四時半に終了予定だったのだが、案の定、アクセス方法や操作方法が分からない在宅参加者が何人もいて、ミーティングの開始時刻が押してしまい、結局、ミーティングが終わって、仕事場を撤収できたのは十五時であった。

 仕事場からメトロの駅までの間、メトロの大手町駅からJRの東京駅までの間、そして、東京駅の構内、走れる所は全て、全力で〈Bボタンダッシュ〉をしたものの、ふ~じんが乗ることができたのは、十五時五十一分、東京駅発の新幹線であった。


 名古屋駅の到着予定時刻は十七時三十一分、百分の移動時間である。

 車内の人となってしまった今は、どうあかいても、たとえ車内で走っても、もはや一秒も時間を削ることはできない。

 百分という時間は、何もせずに悶々と過ごしていたら、それなりに長い時間なのだが、この時間を無駄にはできない。


 まずは、カバンにぶちこんでおいたノート・パソコンで、ミーティングの報告書を仕上げて、それをクラウドにアップした。

 それから、周囲に人がいないことを確認してから、スーツと革靴の仕事姿から、上はライヴTシャツ、下はランニング・スパッツ、靴はバッシュというライヴ・スタイルに素早く着替え、頭に青いバンダナを巻いてから、両手に十五本のラバー・バンドを装着した。ラババンは、本当は、名古屋で最後の一本を直接購入したかったのだが、万が一の場合に備えて、既に予備の一本を事前購入しておいたのである。

 そんな風に仕事の事後処理と、ライヴへの参加準備をしているうちに、百分という時間は瞬く間に過ぎ去ってしまった。


 十七時半――

 新幹線が名古屋駅に入らんとしていた。

 今頃、会場では、ファイナルの開幕を告げる〈SE〉が鳴っているはずだ。会場への到着が十八時前後ということは、最初の〈月〉と〈夜空〉のゾーンの後半か……。問題なく到着できれば、自分が聴けるのは、六曲目の「メモワール」か、七曲目の「七色の音」からになろう。

 「メモワール」はデビュー曲であるし、「七色の音」は〈デルニエ・ダジュール〉で歌った最後の一曲なので、この二曲は何としても聴き逃したくはない。


 ふ~じんは、名古屋駅到着のアナウンスが入る前には早くも、自由席の七号車の出口ドアの前に立っていた。

 新幹線の名古屋駅から、栄駅に向かうための〈東山線〉の移動の所要時間は約八分、一秒でも早く会場に到着して、一秒でも長く翼葵の歌を聴くためには、ここからは時間との勝負となる。


 新幹線が到着し、扉が開いた瞬間に、ふ~じんは、八号車付近の階段を駆け下りて行った。それから、新幹線出口ではなく、在来線の〈乗り換え改札〉を通り抜けた。そして、在来線のホームに続く階段には脇目も触れず、人にぶつからないように注意しながら、ひたすらまっすぐ駆け進んで〈桜通口〉を出ると、そこからは全力で、地下鉄乗場に向かい、やって来た〈藤が丘〉行きの東山線に乗り込んだのだった。


 スマフォの乗り換え案内の指示では、乗るべき地下鉄は十七時四十六分のものだったのだが、実際に乗車できた東山線は十七時三十七分、〈九分〉も削ることができた。九分と言えば二曲分、もしかしたら、最初の〈MC〉の頃には会場に到着できるかもしれない。


 東山線の名古屋駅から栄駅の間の移動時間は五分だ。この間、ふ~じんは息を整えながら、カバンの中に入れっぱなしにしていたスマフォの電源を入れ、電子チケットの準備をした。


 「1列目・23番」


 ついに巡ってきた最前なのに、遅刻とは……。


 口惜しくて仕方がないのだが、〈推し曲〉の「メモワール」に間に合いそうなだけで儲けもの、と割り切るしかない。


 ふ~じんは、会場に到着した際に取り出し易いように、スマフォをディバックのフロントポケットに入れて、下車した瞬間、車外に飛び出せる準備に入った。


 陽が沈んだばかりの栄の町を、最後の気力を尽くして、ふ~じんは走った。

 ふ~じんが考えているのは一秒でも早く会場にたどりつくことだけで、自分でも理解できない、何か大きな力に引きずられてふ~じんは走った。

 そして、ふ~じんはハヤテの如く会場に突入した。

 間に合ったのだ


 えっ!? ライヴに間に合ったって?


 十八時前、会場には、ヨッポー、スギヤマ、スコッチ、グッさん夫妻、とっきぃ、じゅ姐さん、シュージンら〈身内〉達が、両手を大きく振りながら、ふ~じんを出迎えたのだ。

 まさか、自分のことを待って……。


 そうではなかった。


「シショー、もう、DMにも反応ないし、ラインも既読つかないし、何かあったのかって思っちゃいましたよ」

「シュー君、ほら、じんさん、仕事しとると、スマフォ、まったく見いへんから」

「そういえば、そうでしたね」

「ふ~じんさん、そんなに走らなくても、まだ、ステッカー、もらえますよ」

 じゅ姐さんに言われて、ふ~じんは、頭がからっぽのままファンクラブのブースに行き、再び皆の元に戻って来た。


「な、なんで、ら、ライヴ、ま、まだ、は、始まってないの?」

 まだ息が整っていないふ~じんが疑問を発した。


「「「「「「「「!?!?!?!?!?!?!?!?」」」」」」」」

「だって、昼頃のツイートで、十七時半開演って写真が……」

「あ~~~、あれか」

 とっきぃが合点がいったという顔をしながら、説明を始めた。

「その写真、自分がアップしちゃったんですけど、それ、〈運営〉のミスだったんですよ。ほら、ここ見てください」

 とっきぃは、会場入り口付近のポスターを指さした。

 ポスターの時刻の箇所に白い紙が貼られ、手書きで、「開場:17:30 開演:18:30」に修正されていたのだ。

「間違いだったんですぐに削除して、時刻修正版の写真をアップしておいたんですけどね」

「じぇんじぇん見とらんかったわ。こりゃ、急ぎ損だ。メロスのように走った意味、全くなかったわ」


「まあまあ、シショー、杞憂でよかったじゃないですか。間に合ったんだし。最悪なのは遅刻して、一曲目から聴けないことなんですから」

「そりゃそうか」


 かくして、ライヴの開始に間に合ったふ~じんは、〈約束された勝利の地〉に悠然と向かっていったのである。

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