第42イヴェ ふ~じん、〈И〉字移動
二十時半すぎ――
二時間超に渡って催された翼葵の広島公演は幕を下ろした。
今回のツアーのレギュレーションでは、列ごとに規制退場をすることになっており、それ故に、この日のシュージンの指定座席であった第一列目の退場順は、会場全ての中でも最も遅いものとなった。
ホールにおける、出入り口から観客席までの広い空間は、〈ロビー〉、ないしは、〈ホワイエ〉と呼ばれているのだが、そのホワイエでは、広島公演に参加した〈身内〉達が、最前列のシュージンが出てくるのを待っていた。
「今日の広島の勝利者が出てきたぜ。シュー、初の〈さいまえ〉はどうだったよ?」
「ふぁい?」
多幸感のオーラをまき散らしているシュージンは、気が抜けたような返事を返してきた。
「おいおい、今から、広島駅までバスで戻るんだけど、こいつ、今日のライヴの余韻で頭がとんじゃってるな。こりゃあ、見張っていないと、シューのやつ、迷子になっちゃいそうだわ」
「シチョー、自分、大丈夫れすよ」
「ダメだ、こりゃ。
ワイは、市長でも、社長でも、酋長でもないわ。
まあ、初の最前で、今日みたいな、一体感のある、最高のライヴをやられちゃったら、こんなんなっちゃうのも仕方ないかもな」
そんな頭の中がお花畑状態であったシュージンも、バスでの移動の二十五分程の間に、徐々に状態も正常に戻ってゆき、バスが広島駅の南口に到着した頃には、ある程度、頭はシャキっとしていた。
広島駅の路面電車乗り場の付近で、しばしの間、皆で、この日の広島のセミ・ファイナルの感想や、ファイナルの名古屋への期待感などについて話した後で、それぞれ、自分達が帰るべき場所に散ってゆくことになった。
関西在住の〈グッさん夫妻〉は、自動車で広島まで来ており、車を広島駅周辺に停めていたのだが、名古屋公演の前日である水曜日は、普通に仕事があるため、広島には宿泊せずに、自家用車で兵庫に戻って行った。広島から関西までは、高速を利用すると、四時間程の距離なのだそうだ。
また、広島と名古屋のライヴに参加予定の〈じゅ姐さん〉は、中日は宿で仕事の予定なのだが、広島ではなく、大阪に二連泊で宿をとっていた。そのため、じゅ姐さんは、当初は広島を二十二時台に発つ、大阪行きの最終の新幹線に乗る予定だったのだが、関西に戻るグッさんの車に便乗させてもらうことになり、グッさん達と一緒に広島を出発して行った。
そして、埼玉から遠征して来ている〈とっきぃ〉は、広島に一泊した後、水曜の午後に名古屋に移動するそうで、グッさん達が出発したのと同じタイミングで、宿が位置している広島駅の北口の方に向かって行った。
結果、広島駅の南口に残されたのは、〈ふ~じん〉と〈シュージン〉の二人だけとなったのである。
「シショー、自分、今日は広島で一泊して、明日の深夜の〈ヤバス〉で名古屋に移動なんですよ。で、広島、初めてなんで、明日は宮島とか、広島城や原爆ドームにでも行こうって思っているんですけれど、シショー、何回も広島に来ているし、できたら、一緒に観光して、アテンドしてもらえませんかね?」
「いや、無理」
「『無理』って。即答ですかっ! もしかして、尾道とかに行くんすか?」
「んにゃ。明日、仕事があるんで、今から、東京に戻るんだよ」
「へっ? でも、東京行きの新幹線の最終って、とっくに終わっちゃっているんじゃ?」
広島発、東京行きの新幹線の最終は二十時一分であった。
さらに、シュージンの指摘は続いた。
「それに、広島発、東京行きの夜バスも、もう出発しちゃってますよね」
広島発、東京行きの夜行バスは、最も出発が遅いものでも、二十一時ちょうどに広島駅の新幹線口から出る便なのだ。
広島と名古屋は中一日あいているので、シュージンも、東京に一度戻るプランを考えて、交通手段を色々と調べていたのだが、ライヴの終了時刻が二十一時近くになることを鑑みて、東京への戻りは断念し、広島に宿泊する事にしたのだ。
もはや新幹線も夜行バスも、東京行きの便は存在しない、というのに、いったい、どのようにして、ふ~じんは東京に戻るというのであろうか?
「実はさ、二十三時に広島駅の新幹線口を出る〈大阪〉行きの夜バスに乗れば、六時に大阪駅に着くんだよ。そんで、新大阪まで移動して、六時台前半の早朝の新幹線に乗れば、朝の九時前後には東京駅に到着できるってわけ。
明日の出向先は、午前の仕事の開始が十時四十分だから、多少、バスが遅れたとしても、なんとか仕事には間に合うって計算なんだよ」
まじかっ!
普通に考えたら、中一日あいているとはいえ、広島・名古屋のライヴに参加するのならば、広島まで移動した後、広島から名古屋への直線移動をしよう、とする。
中日に仕事をする、グっさんやじゅ姐さんだって、関西を経由して、名古屋に向かうという直線移動で、その移動は、いわば、不等記号「<」のような軌跡となる。
それなのに、ふ~じんは、このようにして「↙」東京から広島に来てから、このようにして「➚」大阪を経由して、それから、こんな風に「⤴」大阪から東京に戻って、さらに、こんな風に「↲」東京から名古屋に行く、という、Nを反転させた、いわば、キリル文字の「И」字のような移動軌跡を描くつもりらしいのだ。
「シショー、さすがに、その移動って、きつ過ぎやしませんか? 仕事を休んだり、リモートにしたりって、できなかったんすか?」
「運悪く、名古屋のライヴ日の前後が、半期のスタート日と重なって、どうしても無理なタイミングだったんだよ。この状況下でライヴに往くには、こんな回し方をするしかなかったんだよな」
「シショー、自分、明日は、頑張ってとしか言いようがないのですが、木曜は、何時くらいに名古屋に入るんすか?」
「いや、木曜も午後一で外せない仕事があるんで、なんとか頑張ってスケジュールを調整したんだけど、到着は、遅くとも、開演三十分前の十八時って感じかな」
「ほへぇぇぇ~~~」
社会人のイヴェンターが、よく、伊達や酔狂で〈遠征〉をしているわけじゃないって話しているけれど、仕事をしながらイヴェンターをするのって、ただの遊びではなく、〈何か〉を対価にしなければ出来ないようだ。
*
ふ~じんの木曜日の仕事は十四時半までの予定だったので、ミーティングを終えてから地下鉄で移動して、遅くとも、東京駅を十五時五十一分に出発する東海道新幹線に乗れれば、名古屋駅には十七時三十一分に到着し、そこから地下鉄で移動すれば、栄駅に十七時五十一分に到着できる。ちなみに、栄駅から会場の〈愛知県芸術劇場〉までは徒歩で五分程の距離だ。
名古屋のファイナル公演の開始時刻は〈十八時半〉なので、東京での〈お仕事〉から、名古屋での〈推し事〉への〈回し〉は問題なくできそうだ。
そう、回せるはずであった。
木曜日の午後一のミーティングは、感染症下ということもあって、参加者の何人かが、昼前になって突然、在宅参加を申し出てきたのだ。
当初、今回のミーティングは対面オンリーの予定で、だからこそ、ミーティングのホストであるふ~じんは、無理をして、広島から東京に戻ってきたのだ。
対面だけのミーティングに比べ、オンラインのミーティングは、準備に時間を要し、さらに、対面とオンラインの混交である〈ハイブリッド〉となると、さらに時間がかかる。これに付け加えて、突如、ハイブリッドへの変更になったために、オンラインでミーティングをする事前準備もまるでしていなかった。
そのため、ふ~じんは、ハイブリッドでミーティングを行うためのセッティングで、昼休みの間、忙殺されてしまい、ようやく準備が終わったのは、十三時からのミーティング開始の五分前であった。
なんとか準備ができて、ホッと一息を吐いたふ~じんが、コーヒーに口を付けながら、スマフォでSNSのタイム・ラインを眺めていると、一つのツイートが目に入った。
それは、既に名古屋入りしている、ライヴの参加者が撮影した会場入り口の模様で、そこには、スタッフが貼ったファイナルの名古屋公演のポスターも認められた。
開場は十七時半で、開演は十八時半なのに、気が早い人もいるもんだな。
ちょ、ちょっと、待てよ。
〈運営〉が貼りだしたポスターはこうなっていたのだ。
「開場:十六時半 開演:十七時半」
ま、まじかよっ! 一時間も早まってるじゃんかっ! 十七時半スタートじゃ、急いでも、物理的に間に合わないじゃんかよっ!
感染症下に行われてきたライヴの中には、開始時間を早めたライヴも幾つかあった。
翼葵の名古屋のファイナルも、そうなの?
と、とりあえず、じょ、情報を……。
「もう、部屋に入っても、よろしいでしょうか?」
部屋の外にはミーティングの参加者が既に何人も待機していた。
「調べる、時間ね~」
かくして、ふ~じんは、スマフォの電源を切って、それをカバンの中にしまうことを余儀なくされてしまったのである。
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