第41イヴェ シュージン・翼、広島リヴェンジャーズ

 九月二十七日の月曜日の二十時に、新宿駅南口に隣接しているビルにある〈バスタ新宿〉を出発した高速バスに乗って、シュージンは、一路、広島に向かった。

 この路線の高速バスを利用した場合、広島駅の北口に到着するのは午前九時、走行時間は十三時間という、かなりの長旅になる。

 シュージンは、上京して以来、イヴェンターとして遠征する場合には、基本、高速バスを利用していたので、夜バスでの長時間移動には慣れていたはずなのだが、しかし、今回の広島遠征では、車内で、あまりよく眠ることができなかった。


 微睡んでもすぐに目が覚めてしまう事の繰り返しで、そうした半覚半睡の、頭がぼうっとした状態のまま、広島まで来てしまったので、広島北口の高速バスの降車場に到着するや否や、停留所近くのコンビニで、朝専用のブラック・コーヒーを購入し、濃いカフェインを注入することによって、シュージンは、無理矢理に肉体を目覚めさせたのだった。


 今回の広島公演は、平日である火曜日の開催ということもあって、開場時刻は十七時半、開演時刻は十八時半であった。

 現在は午前九時、例えば、開演の三十分前である十八時に会場に到着するとしても、それまで、九時間もの時間がある。

 そこで、シュージンは、広島から、およそ二十五キロメートル離れた所に位置している〈呉〉に行ってみることにした。

 呉には、広島を訪れる機会があれば、広島市から少し足を延ばして訪れてみたい、と考えていたのだ。というのも、一昨年のツアーの広島公演の後に、翼さんが、呉の〈大和ミュージアム〉を訪れた、とSNSで呟いていたからである。また、呉のご当地グルメである〈海軍カレー〉を食べるのも何気に楽しみであった。


 シュージンは、二〇一九年に行われた二度の全国ツアーの時には、学業の兼ね合いで、どうしてもスケジュールの調整がつかず、二度ともに、広島公演にだけ参加することができなかった。だから、今回が、イヴェンターを始めてから初の広島来訪で、こう言ってよければ、ついに、広島に〈リヴェンジ〉できるわけなのだ。


 広島駅北口の高速バスの停留所から広島駅に移動したシュージンは、九時十四分発の〈JR呉線〉に乗り込んだ。そして、この普通列車に揺られること四十五分、午前十時頃には呉駅に降り立つことができたのだった。 

 翼さんも行ったという大和ミュージアムは、駅を出てすぐの所にあったのだが、残念ながら、九月いっぱいの間は、臨時休館となっていたため、外観だけ写真に収めることで満足するしかなかった。さらに、訪れようと思って目星をつけていた、海軍カレーを提供している店の悉くが九月いっぱい休業になってもいた。


「思えば、呉まで来たものだ、なんだけれど、でも、全部が全部お休みで、これじゃ、呉に来ただけになっちゃうよ」


 たとえ施設や店に入ることができないとしても、せっかく呉まで来たので、何処かに行こうと思って、スマフォで呉に関する情報を集めたところ、この町が、映画『この世界の片隅に』の舞台となっている事を知ったので、ライヴ参加のために広島市に戻るまでの間、その映画の舞台地を巡ってみることにした。


 だが、舞台探訪のために、端末の地図アプリを頼りに目的地に向かって歩を進めていても、ついつい考えてしまうのは、今日の翼葵の広島公演のことばかりなのだ。


 今回のツアーでは、複数公演に参加する〈おまいつ〉の座席は固められていた。だがしかし、それでも、ツアー中、どこか一ヵ所は良番が来る、という傾向が認められていた。例えば、じゅ姐さんは初日の京都、グッさんは新潟、とっきぃさんは仙台で最前列が巡ってきていた。

 そして、前回の福岡までは、自分とふ~じん師匠には、未だ最前列がきてはいなかったのだが、シュージンには、ついに、このセミ・ファイナルの広島において、最高の席が回ってきたのである。


 一週間前の火曜日に、広島の座席が判明した時、さっそく、会場である〈広島JMSアステールプラザ大ホール〉の座席表を参照してみたところ、このホールは前方が、いわゆる〈オーケストラ・ピット(前舞台)〉になっていて、一列目は十一席しかない事が分かった。ここに、今回のツアーでは、ソーシャル・ディスタンスを保つために、客席が一席あけになっていることを考え合わせると、広島公演の最前列は、わずか五席のスーパー・プレミアム・シートということになる。

 これを知った時、シュージンは、下宿先の自室で思わず雄叫びをあげてしまった。


 広島、勝ったっ!

 

 これ以上ない程の良番がセミ・ファイナルで、しかも、一昨年、往くことが叶わなかった広島において巡ってきたのだ。

 これで、完全に広島へのリヴェンジを果たす事ができる。


 だが、しかし、である。


 たしかに、自分に良番が巡ってはきた。でも、どうしても、福岡公演時の翼さんが、悔しそうに唇を噛み締めながら、頭を深々と下げていた姿が脳裏に浮かんでしまうのだ。

 前回の福岡と、今回の広島の間は中七日あいている。この間に、どこまで喉が回復しているのか、シュージンは、翼さんのコンディションが心配で心配で堪らない気持ちになっているのだ。


 この一週間、運営サイドから、セミ・ファイナルの広島と、ファイナルの名古屋公演に関するアナウンスは全くされないまま、広島公演の開催日を迎えているので、ライヴを開催する方針であるのは間違いないだろう。


 無理はしないで欲しい、と翼さんの体調面を心配しつつも、同時に、自分が最前列を握っている広島が、延期・中止にならなかった事に安堵もしていて、さらに、そんな自分に自己嫌悪も覚えていて、このように揺れる精神状態のまま、シュージンは呉の町歩きを続けていたのであった。


 夕方、呉から戻ったシュージンが会場に到着し、開場の入場口の付近で、スマフォにインストールされている電子チケットを出す準備をしていた時、シュージンは、背後から声を掛けられた。振り返ってみると、そこには、じゅ姐さんと、グッさん、そして、グッさんの奥様がいた。


「きいたで、シュー君、今日、最前なんやってな。おめでとう」

「はい、十四本目にして、ようやっと、最前がきました。でも、福岡のこともあるし、自分、心配なんですよね」

「もう、開場始まっているし、さすがに、このタイミングで中止はないやろ」

 こう、グッさんの奥様が、冷静かつ的確な指摘をした。

「ですよね」


 気もそぞろであったため、いつもよりも早めに入場を済ませてしまったものの、シュージンは、開演までの三十分の間、どうしても落ち着いて座っていることができず、理由もなく、会場内をぐるぐる歩き回って、知り合いがいる場所を巡回していた。

 今まで、幾度となくライヴには参加してきているのだが、実は、翼さんのワンマン・フルライヴでの最前は初めてで、気持ちがそわそわ、ふわふわして、自分でもどうしよもなくなっていたのだ。

 そして、〈身内〉巡礼が三周目に入った時には、さすがに、グッさんの奥様から「シュー君、少し、おちつきぃ」と指摘されてしまったのだった。


 座席に戻ったシュージンが、自分を釘付けにするかのように、両膝に掌を強く押しつけているうちに、開演時刻が訪れた。


 しばしの静寂の後、ステージ後方の幕が上がって、そこに、白いドレスを着た翼葵が登場した。彼女は、観客席に向かって深々と頭を下げていたのだが、面を上げたのと同時に、ピアノの調べが流れ出した。


 あれ、いつもと出だし、違くね?


 これまでの十三本のツアーでは、SEが流れた後に幕が上がって、黒いライダースを纏った翼葵の歌い出しで始まる「Be@T」からライヴの幕が上がってきたのだ。


 ピアノのイントロの後に、スタンドマイクを両手で握っている翼葵が歌い出したのは、「プロミス」であった。

 この曲は、活動再開の発表と同時に配信され、全・翼葵のヲタクを涙させた曲なのだ。


 ここで、一曲目に「プロミス」って反則級の演出でしょ。


 この曲をライヴで聴くたびに、シュージンは涙していた。もちろん、今回の広島ライヴもご多分に漏れず、シュージンは、生の「プロミス」に泣かされてしまい、何度も何度も眼鏡を取って、首に巻いたマフラー・タオルで目頭を拭ったのだった。


 「プロミス」を歌い終えた翼葵は、ステージ上の階段を降りると、観客席に向かって再び一礼した後で、こう語り出した。


「この前の福岡公演では、急に歌えなくなっちゃって、みなさんには、ご迷惑と、多大な心配をおかけしたと思います。この一週間、できる限り、喉の回復に努め、みなさんの前で歌えるようにまでなりました。

 わたしには歌しかありません。福岡のお詫びも、広島で信じて待ってくれていたお礼も、わたしには、歌うことでしか伝えることができません。

 わたしの居場所は、みなさんが目の前にいるステージなのです。だから、今日もここで、わたしに歌わせてください。

 わたしのことを、誰より近くで見ていてくれた君達がいてくれるから、福岡で声が出なくなっても、諦めずに、もう一度立ち上がって、広島まで歌を届けにゆく勇気が持てたのです。

 だから、わたしの声で、わたしの歌で、わたしの、この思いを届けさせてください」


 なんだよ、なんで、そんな風に泣かせることを言うんだよおおおぉぉぉ~~~、翼さんは。


 MCの最後で再び一礼した後で、スタッフが瞬時にして白いドレスを脱がせると、翼葵は、黒いライダース姿となった。


 一瞬だけ翼は目を閉じたのだが、次に開かれたその瞳には生命力が満ち満ちた光が宿っているように、最前列のシュージンには思えた。


「こっからは、全力で飛ばしてゆくよ。お前ら、全員、わたしについてこいっ!

 ゆくぜ、広島あああぁぁぁ~~~。はたすぜ、リヴェンジっ!

 全員で一つになって、わたしの歌を聴けえええぇぇぇ~~~。

 それでは、聴いてください、『Be@T』っ!」


 翼葵が歌い出した途端、瞬時にして、ホールを観客の〈熱気〉が包んだ。


 かくして、広島のリヴェンジ・ライヴは、〈疾風怒濤〉あるいは〈疾風迅雷〉としか形容できないような、演者である翼葵と観客が一体化したかのような、激しいライヴとなったのであった。

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