第38イヴェ ふ~じん、「待て、しかして希望せよ」

 二〇一四年に、札幌のアニソン・フェスで初〈現場〉を経験した時には、まだ中学三年生に過ぎなかったシュージンも、二〇二一年の夏の全国ツアーの時には、大学四年生になっていた。

 イヴェンターになってから、もうすぐ丸七年、早いものである。


 この七年の間、本当に色んなことがあったな、とシュージンは過去を振り返っていた。


 高校二年生の時の二〇一六年の十一月の武道館でのライヴで、〈最推〉であった翼葵さんは活動無期限休止となり、それから〈一年九ヶ月〉の時を経た、大学一年生の時の二〇一八年の八月には、翼さんは、不死鳥の如く、同じ武道館で復活ライヴを行ったのだ。


 翌二〇一九年、大学二年生の時に催された、八都市・八公演の梅雨の時期のホール・ツアーと、七都市・八公演の秋のライヴハウス・ツアーに関しては、梅雨の時期のホール・ツアーの広島公演、そして、秋のライヴハウス・ツアーではファイナルの広島公演が、共に平日開催であったため、スケジュールを調整すべく、頭を捻り尽くしてみたのだが、学業との兼ね合いで、どうしても広島にだけは行くことができなかった。

 シュージンは、チケットを持ってはいたのだが、血涙を流しながら、広島のライヴへの参加だけは断念するしかなかったのである。

 だからこそ、次の全国ツアーでは、なんとしても悲願の〈全通〉を、と考えていたのだが……。


 二〇二〇年は、感染症のパンデミックのせいで、春の全国ツアーは夏に延期され、その延期された夏のツアーも、初日の一週間前に全公演が中止となってしまった。

 そういった、延期・中止を経た上での、今年の夏の全国ツアーの開催なのである。


 二〇一九年の秋のライヴハウス・ツアーの千秋楽の広島公演が十一月二十二日で、二〇二一年の夏のホール・ツアーの初日である京都公演が八月十四日だったわけだから、翼葵のライヴが行われなかった期間は、ほぼ〈一年九ヶ月〉ということになる。


 一年九ヶ月……。

 活動休止の武道館ライヴ、〈デルニエ・ダジュール〉から、復帰後、最初の武道館ライヴである〈リ・エール〉までの間と、パンデミック前の最後のワンマン・ライヴから、パンデミック下、最初のライヴまでの期間が、奇しくも、同じ〈一年九ヶ月〉なのだ。

 それにしても、である。

 たしかに、同じ一年九ヶ月であるにもかかわらず、この期間の、心理状態は全く違うんだよな、とシュージンは思ってしまう。

 それは、シュージンが、高校生から大学生になり、知的にも精神的にも〈大人〉になったということだけが理由ではないだろう。

 

 二〇一六年の秋から二〇一八年の夏までの一年九ヶ月の間、特に、十八年の二月八日の復活発表までの活動休止期間中は、いわば、翼さんが完全に沈黙状態だったので、もはや二度と翼さんの生歌を聴くことができない、という、望みが完全に断たれたような〈絶望〉状態にあった、と言ってもよい。


 翼さんが完全沈黙状態にあった時期に、イヴェンター歴、四半世紀の、師匠であるふ~じんが言っていた事なのだが、これまでふ~じんの〈お気に〉であった演者さん達、それが、アイドルであれ、シンガーであれ、ふ~じんの〈お気に〉の中で、活動休止状態から復帰を果たした演者は、未だかつて一人としていないそうなのだ。ちなみに、大昔のヲタクは、〈推し〉のことを〈お気に〉と呼んでいたらしく、時々、ふ~じんは、この用語を使うことがあった。

 もちろん、これは、ふ~じんの〈お気に〉であった演者達の事例なので、ありとあらゆるデータを参照すれば、中には、復帰を果たした者もいるかもしれないが、それでもやはり、活動休止からの復帰はレア・ケースであるようだ。

 だから、二〇一七年時点のふ~じんは、翼さんの復帰はない、と完全に絶望していたのである。


 そのふ~じんが、〈現場〉に足を運ぶ〈イヴェンター〉になったのは、三十年前、一九九一年、大学受験予備校に通っていた浪人生時代にまで遡るのだが、ふ~じんが最初に行った〈現場〉はアイドル現場だったそうだ。

 そして、初〈現場〉で〈お気に〉と握手をした瞬間、そのアイドルに〈ガチ恋〉、つまり、恋愛的な意味で、本気で好きになってしまい、以来、イヴェンター沼にずぶずぶっとはまっていったらしい。

 この話を、ライヴの打ち上げで初めて聞いた時、シュージンは、自分もあやのんに〈ガチ恋〉しているので、非常に驚きもしたのだが、しかし、その話の流れで知ったのは、グッさん・グループのメンバーの大半も、似たり寄ったりの理由でイヴェンターになったという事であった。

 

 ふ~じんも、この三十年間ずっと〈現場〉に通っていたわけではないらしい。

 〈ガチ恋〉相手であったアイドルが〈無期限活動休止〉となり、その後も、復活の希望を抱いていたのだが、待てども待てども彼女が復帰しないまま、徐々にモチヴェーションが落ちていった。

 そうこうしているうちに、ふ~じんは日本を離れることになってしまった。

 そして五年後、日本に帰国したのだが、帰国後、海外で知り合った外国人のアニメ・ヲタクが日本に遊びに来た時、その友人の付き添いとして、アニソンのライヴに行くことになった。

 付き添いはするけれど、もう自分の〈現場〉復帰はないよな、と、その時のふ~じんは思っていたらしい。

 だが、この時、ふ~じんはアニソンにはまってしまったのだ。

 かくして、ふ~じんは、アイドルではなく、アニソンの〈現場〉にて、イヴェンターとして復活することになったのである。


 つまり、五年の空白期間を除くと、ふ~じんのイヴェンター歴は、アイドル〈現場〉とアニソン〈現場〉を合わせて二十五年になるのだが、それだけのふ~じんのキャリアの中でも、無期限活動休止からの復活を果たした演者は記憶にないらしい。

 だからこそ、ふ~じんも、翼葵の復帰はないと思い込み、絶望していたのである。

 そして、師匠からそんな話を聞いていたので、シュージンもまた、二度と翼さんの生歌は聞けないという希望が絶たれた状態にあったのである。


 これが、二〇一七年のことであった。


 対して、二〇一九年の秋から二〇二一年夏までの一年九ヶ月間は、感染症のパンデミックが理由の延期や中止が続き、〈現場〉至上主義のイヴェンターにとっては辛い状況が続いたのは確かで、中には、〈現場〉に通うことを止めてしまったイヴェンターもいたそうなのだが、この時期のふ~じんもシュージンも共に、一ミリグラムも〈絶望〉など抱いてはいなかった。


 この一年九ヶ月の間、エール・ヲタクの中には、「絶望」という単語を軽々しく使う者もいた。だが、そんな絶望を装っているヲタクに対して、ふ~じんはこんな風に語っていたものである。


「君等はさ、〈絶望〉ってもんがまるで分かっていないんだよ。

 絶望ってのは、さ、一縷の望みもない、希望が断たれた状況、たとえば、エールさんの活動休止期間のようなケースさ。

 でも、な。自分の知り合いの中には、そんな状況にあってさえ、復帰を信じ続けた凄いヲタクもいるんだよ

 今のこの状況ってのは、単なる社会的状況であって、別に、アオイさんが活動休止してマイクを置いたわけじゃないんだぜ。

 たしかに、延期や中止が連続してはいるけれど、彼女がステージに立ってくれる可能性があるっていうのに、何故、『絶望』を口にする必要がある。

 グダグダ言わずに、信じて、『待て、しかして希望せよ』」


 このように、ふ~じんは、十九世紀フランスの小説家アレクサンドル・デュマが書いた『モンテクリスト伯』において、無実の罪で、十四年もの間、監獄に囚われていたエドモン・ダンテスの言葉を引用したものである。

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