第36イヴェ シュージン、推しが武道館で……
シュージンは、師匠であるふ~じんが東京から遠征してきた時に、二〇一五年十一月二日に翼葵が初めて武道館に立った時の印象を語ってもらった。
「最初の武道館の時はさ、席はアリーナの後方で、ステージ上のアオイさんなんて、全然見えない。でもね。ライヴそれ自体は、もう、ほんとに最高過ぎて、〈推し〉が武道館に立ったその日は、明日なんてこなくても構わないって本気で思えたんだよ。
実際はさ、その翌日に、真城綾乃のファースト・ワンマンが渋谷であって、その後には、恵比寿で、アオイさんの武道館のアフター・パーティーがあって、自分の〈最推〉二人のイヴェントを〈回さ〉なくちゃならなかったんで、明日には絶対に来てもらわなくちゃならなかったんだけどさ」
「なあ、シュー、これを見てくれよ」
そう言ってふ~じんは、そのファン・ミーティングのシークレット・プレゼントであった、翼葵とのツーショット写真を、嬉しそうにシュージンに見せてきたのだった。
「くぅぅぅ~~~、羨まし過ぎる。シショーが妬ましくて仕方がないっす。でも、次の武道館のライヴには、僕も絶対に参加しますよ」
そんな風に、最初の武道館のライヴやアフター・パーティーの話を聞かされた事もあって、秋人は、武道館に対する憧憬の念を日々高まらせ続けていた。
そして二〇一六年の七月に、ニュー・シングルである「フリューゲル」のリリースを記念したイヴェントが、池袋のサンシャインの噴水広場で催された際に、翼葵にとって二度目となる武道館でのライヴが、十一月頭に二日に渡って開催される事が発表された。
このリリース・イヴェントはネット配信もされていたのだが、北海道の自宅で視聴していた秋人は、この告知に狂喜乱舞し、もはや行くっきゃないでしょ、という気持ちになっていた。
とはいえども、秋人は未だ高二、その武道館ライヴの初日は金曜日で、だから、なんとかして、平日に学校を休んで東京に行くための大義名分を捻り出さなければならなかった。
そこで秋人が思い付いたのが、大学受験で忙しくなる高三ではなく、受験まで余裕のある高二のうちに、自分の志望大学の学園祭を訪れて、大学の雰囲気を味わいたい、という理由であった。
この事を告げると、秋人の両親は、あっけない程すんなりと東京行きを許してくれた。
両親からの許可も出て、武道館ツー・デイズへの参加が可能になったことを、SNSのチャットで話題にしたところ、ふ~じんが、自分の知り合いである〈グッさん〉と〈じゅ姐さん〉と一緒に四連番を組まないか、と誘ってきた。ちなみに、〈連番〉とは、チケットを複数枚購入し、隣り合った複数の席を確保することである。初めての武道館ライヴへの参加に若干の不安を覚えていたシュージンは、ふ~じんの言葉に甘えることにした。
その日から、もう、晩秋の訪れが楽しみで楽しみで仕方なくなっていた。
そしてさらに、シュージンは、秋の武道館ライヴに先んじて、夏休み期間を利用して、予備校の夏期講習という名目で上京し、〈エールの日〉のファンミにも参加したのだった。
しかし、翼さんは、その盛夏のファンミの直後に、しばらくの間の休養を発表し、活動を一時休止してしまった。
だが、シュージンは、大切なのは、秋の武道館のツー・デイズ・ライヴだし、それまではゆっくり休んで、体調を整えて英気を養ってくれれば、一時的な休養は問題ないだろう、と考えていた。
しかし、休養状態は解除されず、翼さんについての情報は何一つとして開示されないまま、八月が終わり、九月が過ぎ、十月に入って、武道館のライヴを二週間後に控えた、十月中旬の、とある金曜日のことであった。
SNS上で、ついに武道館のライヴの開催が発表されたのだ。
よかった~~~。ライヴ、行われるんだ。一安心だよ。
だが、しかし、である。
ライヴ開催の告知と同時に、武道館以降、翼葵が〈無期限活動休止〉となることもまた発表されたのであった……。
この発表に激しく動揺したシュージンは、衝撃のあまり、武道館のライヴに参加するべきかどうか、迷い始めてしまった。
自分でも、一体どうしたらよいのか本当に分からないよ。こんな気持ちのまま、どうしてライヴに参加できるってんだよ。否、できないって。
こんな風に反語的にシュージンが悩み続けていた時、まるで、この懊悩を見透かしたかのように、ふ~じんがシュージンにこんなDMを送ってきた。
「体調不良か、精神的に参ってしまったのか、真相は分からないよ。
そして、もうこの先、彼女の歌が聴けなくなってしまうかもしれない。
その現実を受け止めたくない、その最後の光景を目にしたくない、そおゆう気持ちを抱くのも理解できる。
でもな。翼葵という一人のアーティストを、これまで数年に渡って〈おし〉てきたのならば、たとえ、どんなに悲しくても、たとえ、どんなに辛くても、唇を噛みしめてでも、彼女のステージ上での姿を見届けなければならないって僕は思うんだ。
とにかく、だ。ぐだぐた考えずに、いいから来いっ!
よく使われる表現だけれど、後悔するならば、行かずに後悔するんじゃなくて、行ってから、その後で後悔しなよ。
ライヴは生もの、一回こっきりなんだ。後から悔やんでも、過去には戻れないぞ。
そして、アオイさんを〈おし〉切れっ!」
ふ~じんから発破をかけられて、シュージンは、東京行きを決意したのだった。
そして、二〇一六年十一月四日、金曜日——
フランス語で〈最後の紺碧〉を意味する〈デルニエ・ダジュール〉と銘打たれた翼葵の武道館ライヴの初日を迎えることになった。
実は、シュージンは、活動休止の発表からライヴ当日まで、翼さんの声を耳にした瞬間に気分が落ちて、一曲すら歌を聴くことができずにいた。だから、ライヴでの自分も、きっとしんみりしてしまうのでは、と思っていたのだが……。
しかし、シュージンは、自分でも全く予想外だったのだが、一曲目の「天狼星」が流れた瞬間に気持ちが昂った。
ライブ前に抱いていた、今日が最後かも……、といった自分を沈み込ませていた考えは、瞬く間に消え失せ、ヴォルテージは一気に振り切れた。
さらに、青いペンライトを力いっぱい降り続ける会場全体は、あたかも一つの青いうねりのようになって盛り上がっていた。
ほとんどMC無しで、一気に、本編二十一曲と、アンコールの三曲が歌い上げられた。
その体感時間は一瞬であった。
そして、ライヴ終了後の打ち上げも、ふ~じんやグッさんを中心とするエール・グループの人達と、この日のライヴの話を肴に楽しく時間を過ごすことができたのだった。
だから、シュージンは、九段下のホテルに戻って、独りになった時に思ってしまったのだ。
もしかしたら、自分、活動休止に関して、本心では辛く思っていないのかな? 悲しいんだって、自分のエゴが、僕にそう思い込ませようとしているだけなのだろうか?
口では、〈推し〉だとか、〈おしている〉とか言ったりしても、所詮は他人事なのかもしれないな……。
ライヴが楽しかったという気持ちと、そんな自己嫌悪の二律背反状態になって、眠れぬまま、シュージンは武道館の二日目を迎えたのだった。
二日目も、初日と同じ一曲目の「天狼星」が流れ出た瞬間に、一瞬で、楽しいライヴ空間が作り上げられていた。
だが――
十曲目に、翼葵のデビュー曲である「メモワール」が流れた瞬間に、シュージンの頬を涙が伝い始めた。
ここまで初日と二日目は、全く同じセットリストで、前日に、同じタイミングで「メモワール」を聴いた際には、こんな状態になったりはしなかった。
エールさんを知ってから二年、これまで何百回と「メモワール」を聴いてきたのだが、一度たりとも涙したことなどなかった。
否、実を言うと、いかなる曲であれ、音楽を聴いて涙したことなど、人生において一度たりともないのだ。
自分でも、この涙の理由が分からない。
その時、何かが動く気配があって、ふと左横を見ると、左隣にいたはずのふ~じんの姿がない。
ふ~じんは、椅子の上で項を垂れて、マフラー・タオルを目鼻に当てながら、必死に漏れ出る嗚咽を抑えんとしていた。
その姿を見た瞬間、涙腺という堤防が決壊してしまったかのように、シュージンは落涙を止められなくなってしまった。
二日目のライヴもまた、ほとんどMC無しで、一気に歌い上げられた。そして、アンコールの最後の一曲である「七つの音色」の後、翼さんは、心を振り絞るかのように、こんな言葉を口にしたのだ。
「わたしのことを見つけてくれて、ありがとう」
それだけ言って深々と一礼すると、翼葵はステージから姿を消していった。
ライヴ終了後――
左隣のふ~じんも右隣のグっさんも、全身から力が抜けてしまったかのように、その場にへたり込んでしまっていた。
そして、左で泣き崩れていたふ~じんは、もはや曲を妨げることがないため、今度は、周囲をはばかることなく、声をあげて泣き出していた。
そんなふ~じんの脇を、「初見だけど、まじ、盛り上がったわ」、「楽しかったぁぁぁ~~~」、「最後に見れてよかったわ」と、仲間内で楽しそうに語り合いながら、何人ものライヴ参加者たちが通り過ぎて行ったのだ。
この落差……、この温度差……。
そうなのか。
ラストライヴの武道館に来ていた観客の全てが、たとえ、翼葵の青きライヴ・Tシャツを身に着け、ライヴグッズを持っていたとしても、みんながみんな、必ずしも、エールさんがマイクを置くことに〈絶望感〉を覚えているわけではないんだ。
さらに――
すれ違い際に、「わっ! 泣いてるよ、みっともな」と呟く輩さえいた。
瞬間、怒髪が天をつき、シュージンは椅子から立ち上がりかけた。
だがその時、右隣にいたグっさんの掌が、シュージンの右肩に静かに添えられた。顔を向けると、グっさんは、首をゆっくりと左右に振っていた。
ヲタクには色々な奴がいるよ、と、その温和な顔が語っているようにシュージンには思えたのだった。
この武道館以来——
シュージンは、ただの一曲すら、翼葵の曲を聴くことが、どうしてもできぬまま、一年三ヶ月もの間を過ごしていたのであった。
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