第29イヴェ じゅ姐さんと、ライヴ現場の諍い女

 鈍行列車に揺られながら、四時間半ほどかけて移動し、最後の乗り換え駅である山形駅で、仙台行きの仙山線に乗るべく、じゅ姐さんが、ホームをトコトコ歩いていた時のことであった。


「あれっ!? もしかして〈ネージュ〉じゃね?」

 背後から、〈ネージュ〉という、最近ではめったに呼ばれることがない、自分の正式なイヴェンター・ネームを耳にした瞬間、じゅ姐さんは、脊髄反射的に、自分が渋い顔をしてしまった事を自覚した。

 左胸に右手を当てて、大きく三度深呼吸をし、顔に〈冷静〉という仮面を着けた後で、じゅ姐さんは、ゆっくりと振り返って、その聴き覚えのある声がした方に、無感情を装った顔を向けた。


「誰かと思ったら、〈ヨシリュウ〉じゃない。お久しぶりね。あなた、そういえば、山形出身だったわね」

 そこに居たのは、ネージュことじゅ姐さんが、フルカ・ロワがギターを担当していた〈キングダム〉というバンドの追っかけをしていた時に、同じ〈現場〉に通っていたヨシリュウという名の〈バンド・ギャル〉であった。


 時として、グループの中で〈推し〉が同じ場合、ロックバンドやアイドルグループの〈現場〉で起こり得るのは、〈同担拒否〉という事態である。これは、他のヲタクが、自分の推しをおしている事が絶対に許せない、という強烈な嫉妬心に由来する現象で、とにかく、いわゆる〈推し被り〉の一挙手一投足、一言動、さらには、一ツイートすら癇に障って仕方がなくなってしまうものなのだ。その結果として、しばしば起こるのは、親しくなるのは、他のメンバーをおしているヲタクという事態なのである。

 約十年ぶりに、偶然にも、山形駅のホームで再会したヨシリュウとネージュは、キングダムの〈現場〉のほとんど全てに通っていた。だがしかし、二人は〈推し被り〉をしていなかったが故にか、自然と〈現場〉でツルむようになった。ちなみに、ネージュとヨシリュウは共に、それぞれの推しの〈T・O(トップ・オタ)〉であった。

 

 グループで推しが異なる場合、それぞれにとっての〈ドセン〉は異なってくる。

 つまり、ネージュの推しであるロワは、リードギターで上手が定位置だったので、彼女にとってのセンターは、ステージ向かって右側であった。

 一方、ヨシリュウは、キングダムのヴォーカルであった〈プリンス〉という、ヴィジュアル系のギター・ヴォーカルをおしていた。ちなみに、プリンスという名は、バンド・キングダムの王子という意味と同時に、そのプリンスが東京都・北区の〈王子〉に住んでいた事にも由来していた。プリンスはヴォーカルだったので、ヨシリュウにとっての最前は文字通り、ステージ中央であった。とまれかくまれ、推しが同じだったわけではないので、同担拒否といった、磁石の同極のような反発や、最前でのセンター争いは、ロワおしのネージュと、プリンスおしのヨシリュウとの間では勃発し得なかったのである。

 

 実は――

 ギター・ヴォーカルのプリンスは、あまりギターが巧くはなく、リードギターのロワとのテクニックには雲泥の差があった。だが、ギターを持っていた方がカッコよいからという理由で、プリンスがギターを手放すことは決してなかった。


 だが、とある〈対バン・ライヴ〉の時のことであった。

 ギター・ヴォーカルのプリンスが、演奏中にギターを大きく弾き間違えてしまい、そのプリンスの大失敗は、対バン相手の他のバンドのバンギャ達に大爆笑されてしまった。ヨシリュウやネージュ等、キングダムのバンドのヲタク達は大恥をかいてしまい、キングダムの演奏順が終わるや否や、逃げ出すようにライヴハウスから出て行かねばならなかった。


 その後の〈反省会〉の場である居酒屋では、誰も一言も話さないまま、その場にいた全員が、苦いお酒をチビチビと飲みながらスマフォを弄っていた。

 だが遂に、沈黙に耐えきれなくなった、キングダムの〈現場〉に通い始めたばかりの、若いロワのヲタクの一人がこう言ってしまったのだ。

「今日みたいな事になるのなら、王子さんは、もうこの際、歌に専念した方が良いと思うんですよね。そもそも、王子さんがギターを弾く必要なんてないですよね。ギターはロワさんがいるんだし」

「はっ!? お前、今、何つったっ! そこの〈ロワっこ〉! たいして〈現場〉に来てないくせに、わかった風にプリンスさまを語るなよ」

 その若いロワ・ヲタクは、キングダムのヲタクの全員が気付いてはいるのに、決して口にすることはなかった禁断の「プリンスはギターが下手」という指摘をしてしまい、それが、プリンスのT・Oであるヨシリュウの逆鱗に触れてしまったのだった。


 これは、やばい

 ヨシリュウの激し易く、竜が如き性格を熟知していたネージュが、その場を収めようとしたのだが、その日のヨシリュウの怒りは容易には鎮火しなかった。それどころか、ロワのT・Oであるネージュが間に入ってしまったため、さらに、ヨシリュウはヒートアップしてしまった。


「ネージュ、あんた、その子を庇おうっていうの。ロワなんて、ギターが巧いだけで、ヴィジュアルは並以下のモジャモジャじゃん。むしろ、バンドの足を引っ張ってんのって、ロワじゃねぇぇぇの」

 そのヨシリュウの言にカチンときたネージュの目は、瞬間、雪の女王のように冷たくなった。さらに、目を糸のように細めたネージュは、無言のまま、突き立てた右手の人差し指を、ヨシリュウの鼻先に差し向け、低い声でこう言い放った。

「これ以上、フルカワさんを侮辱したら、この〈人刺指〉をアンタの鼻の穴にめり込ませるから。ヴィジュアル重視のアンタにとってはどうか知らないけれど、フルカワさんは、アタシにとっては、世界で一番カッコいい、アタシのヒーロー・キングなんだから」


 それから、ネージュは、右手の〈人刺指〉をヨシリュウに向けたまま、ポケットから抜き出した左手で机を大きくバンと叩いた。

「シラけた。アタシ、帰るわ」

 そう言い放ったネージュがその場から立ち去ると、残りのロワっ子達も皆、ネージュの後を追って出て行ってしまった。

 そして、机の上には、シワクチャになった一万円札だけが残されていた。


 その後のキングダムの〈現場〉では、プリンス・ヲタクとロワ・ヲタクという二つの勢力の間で、同じ〈現場〉にいるにもかかわらず、ただの一言すら会話が交わされないという冷戦構造が、キングダムの活動休止まで続くことになったのだった。

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