第27イヴェ じゅ姐さんと、耳の代償

 翼葵が〈夏兄〉の大トリを務めた、その日のライヴ後の夜のことであった。


 じゅ姐さんが、さいたまウルトラアリーナまで〈会場おし〉に来たので、青い缶の〈香るエール〉をコンビニで買い込んだグッさんとふ~じんは、グッさんが泊まっている会場近くのホテルの部屋で、じゅ姐さんから相談を受けることになった。

 ちなみに、〈会場おし〉とは、会場には入らずに、知り合いに会うためだけに、ライヴ会場に来ることである。


「そんで、わてらに相談って、いったい何や?」

 じゅ姐さんは応えた。

「アタシ、北海道のライヴに征こうって考えているんです」

 グッさんとふ〜じんに、じゅ姐さんは宣言した。

「でも、ネージュさんって、飛行機には乗らない主義だから、北海道には行かない方針なんじゃ?」


 そもそも、じゅ姐さんは、翼葵の全国ツアー、十四ヶ所・十五公演のうち、十二都市・十三公演に参加予定だったのだが、そんな彼女がチケットを取っていなかったのは、北海道の札幌と福岡県の博多の二都市のみであった。

 札幌と博多に〈行かない〉のは、北と南の大地が関東から〈遠い〉という理由ではなく、じゅ姐さんは、三半規管が極端に脆弱なため、飛行機が苦手だからであった。

 たとえ無理して海を渡ったとしても、耳の不調のため、結局はライヴどころの話ではなくなってしまう。その事を、自身の数多の遠征経験から自覚していたので、じゅ姐さんは、飛行機移動をせざるを得ないライヴはキッパリと諦める事にしているのである。


 飛行機嫌いのはずのじゅ姐さんは、ふ~じんの問いに対して、両耳に掌を当てて頭をぶるぶると左右に震わせた後で、机をバンバンと両手で激しく叩きながら、こう応じたのだった。

「だって、だって、フルカワさんが、北海道から復帰するかもしれないのに、アタシの耳がどうとかなんて、もはや言ってる場合じゃありませんって!」

 そう言うと、じゅ姐さんは、もう一度、さらに強く机を両手で叩いたのだった。すると、机が大きく揺れて、ビールの青い缶が倒れそうになった。

「じゅねえ、おちつきぃ~~~、あおい〈エール〉がこぼれてまうわ」

「すみません」

 そう謝ると、じゅ姐さんは、右手を心臓の上に添えながら、三度、深呼吸した。

「少し、落ち着きました。で、アタシ、北海道のライヴに征こうって考えているんです」

「それは、さっき、聞いたで」

「大事な事なので、二度、言いました」

 

 通常、感染症の濃厚接触者になってしまった場合、二週間の自宅謹慎が余儀なくされる。翼組のギタリスト・古川路和こと、〈フルカ・ロワ〉の親しき者が感染したのが、ロワが出演できなかったツアーの初日の京都公演の直前だと仮定するのならば、ロワの二週間の禁足が解かれるのは、ちょうど、〈夏兄〉開催の時期に重なる。〈夏兄〉では、バックの演奏は、基本〈ナツアニ・バンド〉が務めるので、じゅ姐さんは、フルカ・ロワの復帰のタイミングは、〈夏兄〉明けの、札幌・新潟・仙台の〈北〉ゾーンの公演からになると予測したのだそうだ。


「ところで、じゅねえ、ロワさんが北海道から復帰するとか、SNSか何かで情報とか流れとったんか?」

 じゅ姐さんの推測に対して、グっさんは、何等かの情報ソースでもあったのか、とふと疑問を抱いたのだ。

「い、いや……。実は、これは、予測とかじゃなくって、もはやアタシの願望なんです。フルカワさん、エールさんのツアーの前半、休んじゃって、エールさんやバンドにも迷惑もかけているし、フルカワさん、もしかしたら、今回のツアーには復帰しないかもしれません……」

 目の前のじゅ姐さんは、涙ぐみながらそう言った。


「それで、一緒に行く予定だったグッさんの奥様が、別の用事で北海道に行けなくなったって、この前、SNSのタイム・ラインで見かけたので、もしよかったら、そのチケットを、アタシに譲っていただけないかと……。その交渉のために、〈USA〉に〈会場おし〉に来たのです」

「まあ、うちの嫁はん、来ぃへんし、チケは、どうせ〈捨てチケ〉になるから、じゅねえに譲るのはかまへんけど、でも、札幌公演、じゅねえが自分で言っとったように、ロワさん、でるかどうかホンマ分からんで」

「でも、でも…………、だって、だって…………、フルカワさん、SNSとかだと何も言ってくれないし……。だけど、もう謹慎期間は終わっているはずだし、そう考えると、札幌から復帰する可能性はゼロじゃないし……。もう、アタシ、ほんとおおおぉぉぉ~~~に、〈ロワ成分〉欠乏症に罹っていて、もう、これ以上はココロがもちそうにないんですよ。だ・か・ら、フルカワさんに会える可能性が少しでもあるのならば、アタシ、何を代償にしても、北海道に往きますっ! だから、これは、願望っていうか、アタシの〈渇望〉なんです」

「ネージュさん、たとえ耳が逝っちゃってもですか?」

「はい! それでも、アタシ、往きます。

 だって、ロワはアタシのヒーロー・キングだから」

 じゅ姐さんの北海道往きの決意は堅固であるようだった。

「そんだけの覚悟があるのなら、わてからは、もう言うことはないわな」

 

「それにしても、あれなんですよね。〈はまなす〉が今なお在ったのならば、アタシも、耳のことなんて心配する必要なんてなかったって言うのに……」

「じんさん、『はま・なす』って、何や?」

 グッさんは、交通手段に詳しいふ~じんに尋ねた。

「グッさん、〈はまなす〉は、二〇一五年まで存在していた、青森発、札幌行きの夜行列車のことです。〈北海道・東日本パス〉ってのを使えば、東京から二十四時間で札幌まで到達できたんですよ。たしか、二十二時台だったかな? その時刻までに鈍行を乗り継いで、青森の八戸まで行って、そこで夜行列車に乗れば、目が覚めた頃、朝の七時には札幌に着いているって話で、LCCなどの飛行機を除くと、約五年前までは、その〈はまなす〉利用こそが最安の移動方法だったのですよ」

 ふ~じんがこのように説明した後で、じゅ姐さんが次のように話を引き継いだ。

「しかも、LCCの飛行機利用は、空港までの移動も含めると、その交通費も馬鹿にならないし、北海道パスの利用期間は一週間だから、東京・北海道間の往復にも使い得るし、期間内ならエリア内のJRの駅は乗り降り自由だから、実は、コスパ最強なんですよね」

「さらに面白いのは、東京から札幌、札幌から東京の場合もしかりなのですが、〈はまなす〉を利用すると、自ずと使うべき乗り継ぎ列車が決まってくるので、札幌まで、逆に東京まで、ずっと移動が一緒って人がいて、知り合いではないのは確かなのですが、〈限界移動〉をする者同士、奇妙な同族意識が芽生えたりもするんですよ」

「そ、それ、それ、なんですよね」

 じゅ姐さんは、ふ〜じんの意見に同意したかのように、二人の目の前で、人差し指を立てた右手を、何度も前後させていた。

「今だと、列車で津軽海峡を渡るには、北海道新幹線を使わなくちゃいけないし、夜行がないから、結局、八戸か函館で泊まらなくちゃならなくて。そもそも、〈はまなす〉は、夜の間に札幌まで移動できちゃっているって点がよかったんですよね」

「ふぅぅぅ~~~ん、そんなもんなんや。自分は腰が弱いんで、乗り物はなるべく短時間って方針なんで、鈍行移動とか、あんま、そおいうの考えたことなかったわ」

「ま、こおゆうのは、結局、安く移動したい〈限界ヲタク〉の苦肉の策なんで」

「アタシの場合には、耳に負担をかけないためには、列車か船しか選択肢がないんですよ。今回は、例外的に飛行機を使いますけど」


「ところで、じゅねえ、新潟への移動はどないするんや? やっぱ、飛行機か?」

「えっと、ですね。札幌と新潟の間が中一日あいているんで」

「ネージュさん、まさか列車ですか?」

「いえ、中二日なら、列車って手も考えたのですが、今回は船ですね」

「まじっすか? ネージュさん、自分、その発想はなかったです」

「実は、小樽から新潟行きのフェリーが出ていて、これが最安の手段で、あと、夜、寝ている間に着いちゃうっていうのもポイントですね」

「なるほど」

「とにかく、耳を犠牲にしたり、ここまで交通手段の準備をして、北海道と新潟、そして仙台に征くわけなので、ほんとおおおぉぉぉ~に、フルカワさんにはステージに立って欲しいです。自分が罹ったわけではないので、元気なのは間違いないはずだし」

「「それなっ!!」」


 だがしかし、である。


 濃厚接触者であることが判明してから、二週間以上が経過していたにもかかわらず、エール・ツアーの札幌と新潟の二公演において、フルカ・ロワはステージに現われなかったのである。

 じゅ姐さんは、聴覚がきちんと機能しない状態のまま、北海道でも新潟でも、海鮮や寿司を馬食し、日本酒を鯨飲する事でしか、その渇望を埋め合わせることはできなかった。


 もちろん、それでも満ち足りるべくはなかったのだけれども……。

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